平成12年5月31日 発行冊子より
[宗教ガイドライン]に対する見解
日本弁護士連合会意見書 「反社会的な宗教活動にかかわる消費者被害等救済の指針」の問題点
宗教法人問題連絡会編

日弁連 意見書『反社会的な宗教活動にかかわ消費者被害等救済の指針』の問題点

T 総論


一 「反社会的」宗教活動の判断基準の危険性


 意見書の内容を掲載した「宗教トラブルの予防・救済の手引」は、「近年、一部の宗教団体に「yるものではありますが、極度に不安をあおる等宗教活動にかかわり、市民の人権を侵害し、その生活や家庭を崩壊しかねないような被害相談が増加し」ているので、「全国の弁護士がこの種の事案に積極的に対応することを求めるとともに、関係各機関にも具体的対応をとっていただくため」に出版されたものであるという。(『宗教トラブルの予防・救済の手引』3頁、以下『手引』と略す)。われわれも違法と見られる宗教事件が多発していることを否定するものではないし、このような事件の被害者救済のため、苦労されてきた弁護士諸子の努力は評価するものである。
 しかし、意見書で「反社会的な宗教活動」の「判断基準」として提示された基準には極めて問題が多く、このようなものが「反社会性の判断基準」として社会一般に広く受容されることになれば、全ての宗教団体の活動が抑制されることになりかねないので、その問題点を指摘し、この基準の撤回を求めざるをえない。

1 宗教活動一般を抑制する危険性

 『手引』によれば、この基準は「個別に問題となる事例が生じたときの判断の目安及び判断の際に考慮されることが相当と考えられる事頁を示した。」ものでああり、「宗教のあり方や活動そのものを規制しようとする意図に出たものでは」なく、「団体としての性格を判断する指標となるものでも」ないという(『手引』4頁)。しかし、その一方で、家族や親族が、「その宗教団体等の性格を判断する上でのひとつの<ものさし>になりうる」(本冊子巻末資料32頁、以下資料と略す)とも述べており、さらに本書の起草にかかわったT弁護士は「裁判所が判断する上での基準とするべきだ」とさえ主張する(99年10月6日、日弁連主催のシンポジウム「宗教トラブルを問う」)。
 まず注意しておくべき事は、この基準に列挙されている個々の行為それ自体は、決して違法行為ではないという点である。『意見書』では、基準のうち、「先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をもたらす」、「本人の自由意思を侵害する態様で不安感を極度にあおって、信者となるよう長時間勧めたり、宗教的活動を強いて行わせる」、「本人と外部の親族や友人、知人との面会、電話、郵便による連絡が保証されていない」、「子供が宗教団体等の施設で共同生活する場合、親権者及びその宗教団体は、学校教育法上の生中学校で教育を受けさせているか、高等教育への就学の機会を妨げていないか」、「宗教団体等の施設内では、食事、衛生環境についてわが国の標準的な水準を確保し、本人にとって到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を確保するよう配慮しているか」などについては、「これに反した場合、法律上不法行為の成立する可能性がある」(資料33頁)という。なるほど、その態様次第では、恐喝、強要、監禁などの刑事犯罪等になる場合があるに違いない。しかし、違法行為について基準を提示するのであれば、何もこのような曖昧な表現をとる必要はないわけで、その罪名を明示すればすむことである。『意見書』自体がこのような判断基準を「法律上、行政上の措置で制度化すべきではない」し、「立法化は避けるべきである」(資料32頁)と述べているとおり、掲げられた個別の行為自体は必ずしも違法行為ではないのである。
 信教の自由が保証されているとは言っても、違法な宗教活動に対して法律の規制が行われることは当然である。(もちろん、法律に優先する場合もあるわけだが、その点についてはここでは論じない)。しかし、違法でない行為が、法律以前に何らかの形で規制されることになれば、重大な信教の自由の侵害になることにまず注意を払うべきである。もちろん、日弁連は国家権力機構の一部をなすものではなく、したがって、この判断基準が直ちに強制力を持つわけではない。しかし、日弁連は、裁判所、検察と並んで法曹三者の一角を構成する法律に関する権威である。その権威が示した見解として社会に及ぼす影響力をまず問題にしなければならない。法律化されなくても、マスコミや社会一般がここに掲げられたような行為に対して広く「反社会的」なものと見なすようになれば、宗教団体の活動を萎縮させることになることをよく考えなければならない。宗教団体が自粛すべき、一般的、抽象的な基準は、法律によって示された違法行為に限定されるべきである。「宗教団体等の性格を判断する<ものさし>」にしたり、まして「裁判所の判断基準」等にすることはもってのほかのことである。

2 トラブルの責任を一方的に宗教団体に負わせる危険性

 一方,そのような宗教活動に対する一般的な判断基準としてではなく、あくまで宗教トラブルが生じたときの事後的判断の基準として用いれば問題はないのであろうか。その場合、トラブルを生ずる可能性が全くない宗教はあり得ないということに気をつけなければならない。しかもトラブルは必ずしも、宗教団体側が主としてその責任を負うべき場合のみではなく、個人の側に非があることも多いのである。
 たとえば「先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をもたらす」という基準は、「不安を極度にあおる」とはどのような場合を指すのであろうか。その態様次第において、脅迫罪などの犯罪に相当することがあり得るであろうが、この基準では「脅迫」とは記されていないので、恐怖感を与えれば広くこの基準に該当すると解釈されるおそれがある。しかし、「因縁」とか、「たたり」という観念は本来的に恐怖の感情を伴っているのであるこのような恐怖感を伴うが故に、悪行をいさめ、善行を積むことを勧める上で、有効に機能してきたのである。しかし、いったんトラブルに至った場合には、いわゆる被害者を称するものは、どのようなケースでも「不安で混乱していた」と主張するに違いない。先祖や因縁やたたりが説かれた時代背景事情を考慮せずに、抽象化され、一般化されたこのような基準に機械的に当てはめて判断すれば、善良な宗教団体でも「反社会的」というレッテル張りがなされる恐れがあるのである。
 そもそも『指針』の起草者たちの中には、因縁やたたりという観念は、時代遅れの迷信のたぐいであり、このようなことを説く宗教そのものが好ましくないと考えている者がいるのかもしれない。しかし、これらの観念は我が の民衆の宗教的心情に深く浸透し、ているものであって、その故に、一部の悪質な団体がこれを有効に悪用できるのである。これらの観念を否定的に見るということは、民衆の宗教的感情を侮蔑するものといわなければならない。たたりのような観念は非科学的観念であるかもしれないが、「死者」を含む我が国の伝統的な共同体に素朴な平等性をもたらしてきた倫理性をも持っているのである(一人勝ちは許さないとする「互酬性」の倫理。池上良正『民間巫者信仰の宗教学的研究』)。近代における平等は、機会の平等であり、結果の平等ではないとされ、それは確かに基本的には正しいものと思われるが、しかし、我が国の民衆は「一人勝ちを良しとしない」結果の平等を求める素朴な感覚が生きているものと思われ、それは「たたり」などの観念と深く関連しているのである。近代合理主義だけで、宗教を切ることの危険性を自覚すべきである。

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