平成12年5月31日 発行冊子より
[宗教ガイドライン]に対する見解
日本弁護士連合会意見書 「反社会的な宗教活動にかかわる消費者被害等救済の指針」の問題点
宗教法人問題連絡会編

二 宗教に対するも理解と偏見

 世俗の目で見る限り、この「判断基準」は世間の常識に沿った穏当な基準であるかのように見える。日弁連は、宗教といえども、この社会に中で活動する限り、世俗社会の規範に従うべきであるという。確かに、世俗の国家・社会はたとえ宗教に対してで会っても譲ることの出来ない固有の価値を持っている。国家はこれを犯す宗教活動に対する規制権限を放棄しているわけではなく、宗教であるか否かを問わず、全ての人に遵守を求める規範は、法律として定められているのである。しかし、宗教に対して国家・社会が介入しうる限度は、違法行為に対する場合にとどめるべきなのであって、いかに世間常識にかなうとしても、違法でない宗教的行為に対して、「反社会的」というレッテルを貼り、その抑制を求めることには多大な危険があることを知らなければならない。なぜなら、宗教は世俗とは異なる世界観、価値観を持つことにその特徴と存在意義があるものだからである。この「判断基準」は、そのような宗教の意義に対して、全く理解を示そうとしていないといわざるを得ない。

1 宗教の特性を理解しようとしない態度

 たとえば、「出家したものに対して、外部の親類や友人、知人との面会、電話、郵便による連絡が保証」されていなければ、「反社会的」であるという(資料32頁)。しかし、出家・修行するということが俗世への執着を一切断ち、ただ一人で神仏の世界に見参することを目指すものであれば、外部との連絡を絶つことはむしろ当然のことといわねばならない。日弁連は、そのような一般的ケースについての基準ではなく、家族が対面を求めているのに教団がこれを拒否してトラブルに至っているような場合に、事務的に判断する基準なのだというのかもしれない。しかし、いわゆる問題教団の場合でなくとも、そもそも家族を捨てて家を出る、出家するという事自体が何のトラブルもなく、すんなりとその家族の承認を得られるとは考えにくい。リストラの嵐に翻弄された一家の主人が、自らの生を見つめなおそうと仏門をたたき、出家するケースが出ているという報道があったが、このような場合でも家族の中で何の修羅場も、もめごともなかったとは考えにくい。伝統仏教の場合は、長年の伝統による社会的承認があり、また現代では修行期間も限られていて、寺院住職になれば家族生活に復帰することが予想されることなどから、それほど深刻な問題にならにのかもしれない。しかし、出家の本来の意義は文字通り、家族を捨て、世間を捨てて家を出ることであることからすれば、その本来の出家を求める宗教が出てきても不思議ではないのであって、宗教が反世俗的であるという意味では、宗教は本来的に「反社会的」なものであり、有害なものであるとするこの判断基準は宗教の価値を否定する「反宗教的」な基準なのである。
 また「お布施、献金、祈祷料等名目の如何を問わず、支払い金額が一定額以上の場合には受取を証する書面を交付」しなければ「反社会的」であるという(資料32頁)。この基準も一見もっともなように見えるが、宗教を理解しようとする姿勢を欠くものというべきである。
 もちろん、宗教団体は、いかなる場合にも受取を出すなということではない。たとえば、本堂が老朽化したので、檀家総代とはかって壇信徒から寄付を募って修理しようというような場合であれば、寄付者に対して領収書を発行したとしても何ら支障はないであろう。しかし、宗教団体の献金指導には信仰指導としてこれを行う場合がある。古来、救いや安心を得るためには、物欲を捨てるべき事を説く宗教は多い。仏教はすべての苦の起源は、欲望であり、執着である事が説かれ、あらゆる欲望、煩悩を断ち切ったところに解脱があり、自由がある事蛾説かれる。聖書は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。あなたがたは鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちのだれかが、心配したからといって自分の命を少しでも延ばすことができますか。」(マタイによる福音書)と説き、自らの計らいを捨てすべてを神にゆだねるところに信仰による救いがあることを説いている金を持ち、自らに自信を持つものの救い難さが説かれる。
 物欲を捨て、執着を離れ、あるが儘にすべてを受け入れ、生を神にゆだねて生きるということを知性で理解することはできても、現実にそのように生きることは容易ではない。したがって、宗教によっては献金の指導通してこれを実践的に体得せしめようとする教団もあるのである。そして物欲を離れる体験を得さしめるためには、しばしば当人が無理だと感じるほどの金額であることが必要になる場合がある。もちろん、それは対象者の信仰の状態を見極め、慎重に指導を進めなければならないわけで、指導に失敗すればトラブルに発展することもありえる。しかし、このような指導は一概に批難されるべきものではなく、実際このような体験を通して信仰に生きる喜びを獲得する者もいるのである。このような場合に「領収書」を交付すべきであろうか。受け取りなどを発行したのでは、まるで金銭で宗教的幸福を買い取るかのような印象を与え、物欲、執着を捨てるという本来の目的から遠のき、指導は失敗に帰するであろう。このような宗教的世界を配慮することなく、世俗の金銭のやりとりと同次元でことを処理しようとしているのが、この判断基準なのである。「布教に際し・・相手側に布教されることに同意を求めるべきである。この理は医療行為の<インフォームド・コンセント>の法理と同じ基盤に立つ」(資料40頁)などというのも、同様に世俗の論理で宗教を処断するものであって、この「判断基準」全体に宗教を尊重しようとする姿勢がないといわねばならない。宗教問題を消費者問題と同列に扱おうとする態度からも、信教の自由の問題を正しく理解していないのではないかと疑われる。信教の自由は、通常の市民的自由権とは、異なる性格を持つところがあることを認識していないのではないか。「当人が嫌がる薬を無理に飲ませて、その人の病を治すことは可能であるかもしれないが、本人の信じない神によって、その人の魂を救うことはできない」(ジェファーソン)のである。

2 宗教に対する偏見

 「親権者・法定保護者が反対している場合には、未成年者を長期間施設で共同生活をさるような入信を差し控える」(資料32頁)べきだと、本人の意思よりも親権者の意思を尊重する基準を立てる一方で、「親権者・法定保護者が、未成年者本人の意志に反して宗教団体等の施設内で共同生活を強制」(『手引き』36ページ)してはならないと、親権者の意志よりも未成年者本人の意思を尊重するという矛盾した基準を立てているのも、宗教団体における共同生活そのものが「反社会的」な悪であるという宗教に対する偏見をさらけ出しているとしか言いようがない。悪質で、違法な事例を多く扱ってきた弁護士たちが、意識的・無意識的に宗教への反感を持つに至ったとしても驚くべきことではないが、そのような反宗教的偏見にたって宗教全般にわたる一般的判断基準を立てることは、きわめて不適切なことであると言わざるを得ない。

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