平成12年5月31日 発行冊子より
[宗教ガイドライン]に対する見解
日本弁護士連合会意見書 「反社会的な宗教活動にかかわる消費者被害等救済の指針」の問題点
宗教法人問題連絡会編

三 前提とする考え方の誤り

1 信教の自由の解釈

 弁護士といえば法律の専門家である。にもかかわらず、この『意見書』では、信教の自由の解釈において、「宗教団体の自由と個人の自由が衝突する場合には、個人の自由に比重を置いて考えなければならない」、「宗教団体の持つ信教の自由はどうあるべきかという問題は、個人の自由の優先性を念頭に置いて議論されなければならない」(資料34頁)という珍説を展開し、それを前提に判断基準が立てられている。しかし、個人の信教の自由と、宗教団体の信教の自由が衝突する場合に、常に個人の自由権が優先するなどという説は、およそかつて誰も主張したことのない新説であり、根拠のないものであることは明らかである。
 次のような事例を考えてみよう。道元を開祖とする曹洞宗の僧侶が、仏教による安心を求めて探求を重ねた結果、、自力修行を旨とする禅の教えでは限界があり、阿弥陀仏の本願力による救いにこそ安心の世界があり、親鸞が正しいと思うに至ったとしよう。このような宗教的回心は絶対であり、その自由は誰にもこれを妨げることはできない。しかし、この正しい仏法を広く知らしめたいと思い、曹洞宗門の中で道元の誤りと親鸞の正しさを布教、伝導しようとしたらどうであろうか。自らの信じるところを布教する自由は個人の信教の自由に属するところであるが、道元を祖とする宗門には団体としての信仰を維持するために、これを禁止し、秩序を乱す僧侶を処分し、あるいは宗門から追放する権限を持つことはいうまでもないことであろう。このような宗教団体の自律性は、単なる部分社会としての自律性ではなく、宗教団体としての信教の自由にその淵源をもつ。そしてこのような場合においては、個人の自由権よりも、団体の自由権の方が優先することは多言を要しないところである。
 個人の信教の自由が絶対的な優先性を持つのは、国家に対した場合のことであり、団体を含め、私人対私人の自由権衝突の場合にいずれの自由権が優先するかは、ケースバイケースであると言うべきである。このような誤った前提に立って立てられた判断基準であるために、宗教トラブルに際して、個人の側に非がある場合や、宗教団体の権利を優先すべき場合のことについては、全く考えられておらず、常に宗教団体の側にトラブルの責任を求め、これに「反社会的」というレッテル張りをするような基準の立て方になっているのである。その考え方の根本が誤っているのである。

2 宗教団体の運営に関する前提の誤り

 さらに、「一定額以上の献金者に対してはその宗教団体等の財政報告をして、使途について報告」をしなければ、「反社会的」であるという(資料32頁)。しかし、これは本来宗教被害者とは別次元の宗教団体の運営に関する問題である。宗教法人法改正にあたって政府や各政党はその無知と偏見をさらけ出したが、その誤りが指摘されたにもかかわらず、この基準でも宗教団体の運営は民主的でなければならないということを、何ら検討することもなく絶対的前提としている。宗教団体の運営をいかにすべきかということをは、各団体の宗教上の信仰と密接にかかわるものであり、単に民主的であればよいというものではないし、民主的原理が採用されていないから反社会的で抑圧的であるというものでもない。昔から宗教法人は遮断なのか、財団なのかという、いずれかに決定することのできない議論があるが、構成員の総意に基づく民主的運営を良しとする社団的宗教団体と、宗教上の理念が知悉した比較的少数の理事による運営がふさわしい財団的宗教団体とがあり、各宗教団体がいずれの型に属するかは、宗教上の理念にかかわるものであるから、世俗の権力が介入すべきではない領域なのである。一般にプロテスタントは、その宗教上の理念から民主的総会主義をとるが、同様に宗教上の理念からカトリックは強大な司教権を容認している。しかし、だからといってカトリックが反宗教的であるわけではない。要は、一般信者が不当な権利の侵害を受けないように、どのような処置が執られているかということなのであって、民主的でないから不当であるということにはならない。この当りにも、無神経に世俗の原理を持ち込んで、宗教を処断しようとするものであり、この判断基準は前提とする考え方を誤っているのである。

3 一般的、抽象的判断基準を定立することの誤り

 この判断基準は、いわゆる宗教被害で訴訟となり、裁判において違法判決を受けた事例から、反社会的な宗教活動を抽出したものであるという。しかし、それぞれの事件は違法との判決が下されたとしても、多くの場合、たとえば「多人数によりまたは閉鎖された場所で強く勧誘する」というような個々の事例が、監禁罪や強要罪に該当して違法とされたわけではないのである。(個別の行為が刑事罰に当るとされた事例は、『手引』135頁以下に刑事事件として紹介されている)。その事件の全体像を検討し、それぞれの行為を「総合して」判断すれば、「社会的相当性の範囲を逸脱して違法」と判断されたものが多いのである。したがって、この判断基準に示された個別の行為に違法性や反社会性があるか否かは、その行為が行われた背景事情の全体像と切り離して考えることはできない。背景から切り離され、抽象化され、一般化された個別の行為は、それ自体では違法行為でないばかりでなく、それが行われた背景事情次第では、反社会的であるとも断定できないのである。以下に有罪判決を受けた事件から抽出した行為とはいっても、このような違法性の判断に事件の全体像が切り離せない事例から、一般的、抽象的な判断基準を導き出すこと自体が、重大な誤りであり、何ら問題のない宗教活動をも抑制し、いったんトラブルに見舞われれば、「反社会的」とのレッテルを貼ることになるこの判断基準は、その法論的前提において全く誤っているといわざるを得ない。
 もちろん、われわれは深刻な宗教トラブルが発生していること自体を否定するものではないし、これらの事件を手がけてきた弁護士諸氏が、これらのトラブルを未然に防ぐための参考資料を提供しようとする意図を否定するものではない。しかし、既に述べたように、世俗とは異なる世界観にたつ宗教活動への介入は、違法である場合のみに限定されるべきものであるから、このような違法とは癒えない判断基準を「反社会的」なものとして定立するものではなく、違法とされた事例集(違法とはいえないとされた事例をも併せて)を出版して一般の参考に供することを提案するものである。

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