平成12年5月31日 発行冊子より
[宗教ガイドライン]に対する見解
日本弁護士連合会意見書 「反社会的な宗教活動にかかわる消費者被害等救済の指針」の問題点
宗教法人問題連絡会編

二 日弁連の意見書における判断基準の個別の問題点

1 献金等勧誘活動について
 宗教上の献金等が「献金者の宗教心・信仰心の発露であり、自発的な意思に基づく宗教行為である」(資料36頁)ことは言うまでもない。しかし、この項目に関して、「意見書」の中で定立されている基準は、いずれも抽象的かつ漠然としており、この基準を濫用されることにより宗教活動が不当に制約されるの危険性が極めて高い。
(一) 判断基準(1)について
(1) ここにおける基準は、「被勧誘者の自由な意思決定に不当な影響を与える献金等勧誘行為は、もはや献金等の勧誘行為とは認められない」との考えを前提としており、(1)の@ないしCは、裁判例で言うところの「勧誘行為の方法が社会的相当性を逸脱する場合」を類型化したものと言う(資料35頁)。しかし、以下のような疑問点がある。
i いずれも一見もっともらしい基準に見えるが、裁判例では具体的な状況を認定した上で、諸事情を総合的に判断し「社会的相当性」を判断している。具体的事案を離れ、ここに書かれているような類型化された抽象的基準だけで宗教を選別することが、果たして妥当か。
iiそもそも宗教上の献金は民法上の契約や商取引などのような取引行為ではないのであるから、これらの場面における自由意思と全く同義に解することはできない。
(2)とりわけ「@ 先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をもたらす」を基準にすることは、信仰や教義の中身に入って判断することにもつながる。
i まず「不安を極度にあおる」ということが具体的にどの程度のことをいうのかが不明
であり、その解釈によってはあらゆる 真摯な布教活動もまたこの基準に抵触して違法との評価を受ける危険性がある。
iiまた、宗教においては、程度の差こそあれ吉凶禍福を説くことはごく通常のことである。全ての宗教がその教義において先祖の因縁やたたり等を説いているわけではないと思われるが、宗教の中には、その教義・理念として輪廻や罰などを説いている場合もある。そのような宗教において、布教の際に必然的に過去世からの因線を説いたり、また病気や経済苦を克服するには当該宗教の信仰によるしかないとの説明がなされることはごく自然のことであって、まさに当該宗教の本質にかかわるものである。
 また、当該宗教が自己の教義や理念への確信から、民衆の救済に真剣であればあるほど、自己の宗教を信仰していく以外に真の幸福はないと説くことも当然であろう。
 それが世俗の目から見れば、常軌を逸していたり常識に反すると見られることもままあるかもしれない。そのようなことは、多くの伝統的宗教にも見られる現象である。
iiiさらに、宗教は、程度の差こそあるにしても、人知を超えた絶対的な存在や事象を信じるという側面をも有するものであることから、その場合の心理状態は合理的説明になじまないものであり、したがって、合理的説明が可能であることを前提とする自由意思というものを想定することが果して妥当なのかという疑問が残る。例えば、マインドコントロールや洗脳という言葉がよく使われ、このような状態にある場合は自由意思がないと評価されると思われるが、そもそもマインドコントロールや洗脳という心理状態と教義を信奉している心理状態からの信仰心の発露との線引きは極めて困難と思われる。
iv さらにまた、献金の時点で宗教心・信仰心の発露としてなされた場合であっても、その後、本人の宗教心等が失われた場合には、団体に騙されたという言い方をするのが一般的であり、その場合との違いがそれほど明確なのかという疑問もある。
(3) 「A 本人の意思に反して長時間にわたって勧誘する」との基準について。
 この「長時間」というのがどのくらいの時間なのか不明である。また、「本人の意思に反して」とあるが、布教活動というのは必ずしも当該宗教に好意的な人々のみを対象にしている訳ではなく、むしろ布教活動の多くは、宗教に理解を示さない人々に対して、当該宗教の教義や理念を説明しその理解・納得を得ようとするところにあることは歴史が示すところである。とすれば、当然、布教活動の当初は布教される人の意思に反してなされることが予想されるし、その理解・納得のためにはある程度の時間を必要とすることもまた当然であろう。
 古来より宗教団体の活動が通常は信者からの献金により行われてきていること、宗教上の献金は信仰活動そのものであること、したがって布教活動と献金勧誘活動は密接不可分の関係にあること等に鑑みるならば、以上のことは、献金勧誘活動についても、ほぼ同様に当てはまると言える。したがって、「意見書」の基準の解釈次第では、ほとんどの布教活動・献金勧誘活動は違法なものと判断されることになり、布教活動の自由はその内実を失うことになる。
 これらの基準は、宗教というものは人間社会に本質的になければならないものではなく、信仰したい人だけが信仰すればよいという思想に立つものであり、宗教の社会的役割についての理解を欠き、宗教不要論ないしは宗教有害論に繋がるものと言わざるを得ない。
(4)「B 多人数により又は閉鎖された場所で」との基準については、この基準が具体的に何人をもって多人数とし、どのような場所を指して閉鎖された場所としているのか不明である。布教の対象とされている人の数よりも多ければ多人数となるのであれば、布教は常に一対一で行わなければならないことになる。
 また、閉鎖された場所という基準は、解釈の仕方によっては教団の施設の中、信者の家などもみな閉鎖された場所になりかねず、布教ないし献金勧誘する場が極端に制限されてしまうことになる。 このように布教や献金勧誘の活動の形態について基準を設けることは、自由な宗教活動を著しく阻害するものであって、実質的に信教の自由を制限するものと言わざるを得ない。
(5)「C 相当の熟慮期間を認めず、即断即決を求める」との基準については、一面において当然のことと言うこともできるが、その反面、即断即決を求めることが即反社会的であると断定してしまうこともまた短絡的に過ぎよう。換言すれば、即断即決を求められて信仰の道に入った人の中にも、その信仰によって幸福を得られたと実感している場合も多々あるのではないだろうか。
(二) 判断基準(2)について
 「意見書」の説明には、宗教団体に対する献金について取消しや返金要請がある場合について、「取消しや返金要請があるのは、献金者の真意に基づかないものであったり、献金者に疑念や後悔の念があるからである。短期間のうちに返金を求めるのは、上記判断基準(2)の不当な献金等勧誘行為やその他の社会的相当性を逸脱した勧誘がなされたことを強く推認させる」と断定した記述をしている(資料36頁)。しかしながら、これもまた宗教に対する無理解ないし偏見に基づくものと言わなければならない。
 確かに中には詐欺同然の献金勧誘によって金銭を支出してしまったような場合があることは否定しないが、そうではなく一旦は宗教的な帰依の感情や信仰心の発露として献金したが、後になって信仰心がなくなったり金銭に対する執着心が出て来たりして返還を要求すると言い出す場合もしばしばある。にもかかわらず、「意見書」は、「不当な献金等勧誘行為やその他の社会的相当性を逸脱した勧誘がなされたことを強く推認させる」と断定しており、これでは返金を要求されるのは、常に宗教団体の側に問題があると言っているのも同然である。そこには宗教に対する無理解や強い偏見のみならず、宗教と言うものに対する侮辱すら垣間見られる。
(三) 判断基準(3)について
 判断基準(3)は、同(2)において論じたところと同様に、信者が教団から離れていく背景には様々なものがあることを正しく認識していないとの批判が当てはまる。単純に信仰を辞めようという理由で教団から離れる人もいれば、教団内で問題を起こして教団にとどまることができなくなったが故に教団を離れる人、教団内での人間関係から教団を離れようとする人など、様々であろう。
 にもかかわらず、「意見書」は、比較的短期間での教団からの離脱の場合には無条件で返金要求に応じるべきであるとか、3年以内などの合理的期間内であれば生活にかかった実費を除いた分を返還すべきである、などと論じているものであって、これでは宗教への入信やそれに伴う献金などを、その宗教的意味合いを全く捨象して、語学学校への体験入学と入学金や、クーリングオフ制度などと全く同列に扱うべきであるというに等しい。
 詐欺罪や脅迫罪に該当する態様で宗教団体に献金させられたというのであれば、もとよりそれは犯罪行為として許されないものであり、民事的にも無効、取消ということで返還請求が認められることは当然であるが、そのような態様によらず、それこそ相当の熟慮期間を置き、自ら十分に納得して入信しながら、後に信者の側の気まぐれなどにより教団から離れたいという場合においても、当然のように教団が、その離れていく者のその後の生活について保障しなければならないこのような論調の意見は、あまりに一方的に過ぎると言わざるを得ない。
(四)判断基準(4)及び同(5)について
(1) 判断基準(4)は、他の項目と別次元の問題である。他の項目が献金やその返還の際の問題として、献金それ自体に直接着目したものであるのに対して、(4)の項目は、その解説に、宗教団体の民主的運営や透明性を高めるとか、自己の運命をその宗教団体等に託すことができるか否かの客観的判断の材料を提供するなどとあるとおり(資料37頁)、献金の在り方自体を直接問題としたものではなく、宗教団体の開示の在り方を問題としたものである。信者に財政報告するか否かはその宗教団体の教義・信仰や歴史・沿革・伝統、信者との関係の濃淡などによって宗教団体が自律的に決すべきことであり、宗教法人法改正問題の際にも大いに議論のあったところである。財政報告していないから人権侵害のおそれがあるとか、反社会的であるというのは議論の飛躍である。
(2) 判断基準(4)の献金者に対する財政の報告、判断基準(5)の献金者に対する受取証の交付
などが、宗教団体における民主的運営と透明性を高めるとの観点や金銭関係の明瞭化という観点から論じられているが、それではこれらの行為を行っていないことをもって反社会的との判断が妥当するのであろうか。
 そもそも「意見書」が言及している信者等に対する帳簿等閲覧請求権を認めた宗教法人法の改正は、憲法違反の疑いがあるとの議論もなされている。つまり、信者と宗教団体の関係はその教団の歴史・沿革や教義・伝統などによって千差万別であり、本来、宗教的繋がりを基礎とする関係である。それにもかかわらず。そこに帳簿の閲覧請求権という異質なものを法律によって強制的に持ちこもうとすることは、宗教団体の自治を侵害するものとの有力な意見がある。ところが「意見書」では、そのような議論を全く検討することなく、無条件にこれを正しいものと受け入れ、さらに閲覧請求を待つまでもなく財政報告をせよと迫っている。ここにおいて「意見書」は、反社会的な活動か否かの判断基準を示すとの当初の目的を大きく外れて、宗教団体のあり方、宗教団体の是非について正面から議論を展開しているのである。
(3) この(4)(5)の基準は、宗教団体に対する献金等があたかも株式会社に対する出資と同じ性質のものでもあるかのような発想から出発していると言えよう。
 確かに株式会社にあっては、同じく利益を追求する者が集まって利益の獲得を目的として出資しているから、目的とした利益の獲得が見込めないときには、出資者に何かしらの形で離脱する自由と投下資本の回収の手段が認められなければならない、との理論が当てはまる。しかしながら、宗教団体に対する献金についてはこのような理論は成り立たないのである。宗教上の献金は「意見書」がいみじくも指摘しているとおり、「献金者の宗教心・信仰心の発露」である(資料36頁)。献金すること自体が宗教的実践行為であり、一種の修行と位置づけている宗教団体も多い。それは自己完結的な行為であり、後に返還を要求することなどということは全く想定されていないし、またそこには、世俗の視点で判断できるような対価関係なども成り立つ余地がない。したがって、献金したが利益(りやく)や功徳等の宗教的至福感が得られなかったなどということを理由にして、そこを離脱して投下資本(献金)を回収しようという構図とはおよそなじまないのである。
 にもかかわらず、宗教団体にたいする献金等について、一般社会の出資についての契約法理を適用して解釈しようとするのは、宗教に対する無理解、偏見の現れとしかいいようがない。

2 信者・会員の勧誘について
(一) 判断基準(1)について
 判断基準(1)については、多くの宗教団体においては普通に行われていることであろうが、かといってこの基準が布教にあたっての絶対的な前提条件であるかのように論じることは誤りである。
 「意見書」は、「従って布教者としては、布教活動であることをことさら隠すようなことがあってはならないことはもちろんのこと、布教に際し相手方にこれらの点を説明し、相手方に布教されることの同意を求めるべきである」としているが(資料40頁)、これは宗教の教義や布教の実践を知らない者の定立した机上の空論としか言いようがない。世の中に「ではこれから布教を始めます。いいですね」「はいわかりました。始めてください」などといった会話をして布教する人間がいるのであろうか。特に、日本は宗教に対する理解の乏しい国と言われているが、宗教の勧誘であると明言して、はいそうですかと耳を傾ける人は少なく、むしろ嫌悪感を抱かれることが多いであろう。
 また布教の仕方としても、一見基本的教義とは関係なさそうな、わかりやすいたとえ話から化導していく場合はいくらでもある。ちなみに、たとえば、釈迦はその布教にあたって、衆生に自らの本当の教えを理解させるために、低い教えから高い教えへと順々と説いていったと言われており、最後に自らの究極の悟りを衆生に説くにあたって、それまでの教えは本当の教えを理解させるための方便であったと説明したと言われている。
 布教活動者や信者の教化育成をどのような方法と内容で行うか、その過程の中で基本的な教義をどの段階から教えたらよいかなどと言うことは、宗教団体において独自に決めればよいことなのである。布教の当初から基本的な教義の話をしなけらばならないなどということを反社会的か否かのメルクマールとすることは、宗教を全く理解しない者の言と言わなければならい。
(二) 判断基準(2)について
 判断基準(2)の「不安感を極度にあお」るとか「信者になるように長時間勧め」るなどの点については、前述した献金等の勧誘についての基準に対する批判があてはまる。
 「意見書」では、現在の判例の到達点として、ベルギーダイヤモンド事件なる霊感商法についての裁判例を挙げて、「勧誘に従わないときは『天罰が下る』など不利益を告知した場合にも、その行為態様が悪質な場合、『ことさら不利益や害悪を告知することによる布教活動』として違法とされるべき場合もあると考えられる」としている(資料41頁)。
 確かに、度が過ぎた脅迫まがいの行為は慎まなければならない。また、そのような害悪の告知をして商品を売りつけるような場合にはまさに詐欺的な商法であり許されるべきではない。しかしながら、入信の勧誘の場合には、極端なものは別として、先にも述べたように多少の宿業論や罰論など書凶禍福に関することが布教活動の中で話題としてあがるのは避けられないことであり、それは真摯な布教活動であるが故とも言える。そのことをもって反社会的であると即断することは、宗教活動に対する不当な制約と言わざるを得ない。

3 信者及び職員の処遇の基準について
(一) 判断基準(1)について
(1) 判断基準(1)の@においては、献身や出家など施設に泊まり込む信者、職員について、本人と外部の人との連絡の保障がされているかを判断基準としているが、一律に本人と外部の人との連絡を保障すべきとする判断基準は、出家などのもつ宗教的意義についての考察を欠くものである。出家とは、俗世間をすて、仏道修行に入ることであり、世俗の世界を離れて生活し、俗世間の人々との関係も絶って、仏道修行に専念することにより、俗世間における欲望、執着から脱却し、自身の宗教的確信を深めていくという意義をもつ。すなわち外部、俗世間との関係を絶つというところに出家や献身などの本質的性格があるのであり、その意味で外部との連絡が自由である出家というものは考えらない。
 もちろん、本人が出家、献身などによって宗教的施設で生活している場合でも、最終的には本人の意思が尊重されるべきであり、本人が外部の人、殊に親族等との連絡を希望する場合にまで宗教団体がそれを禁じることが妥当なのかとの議論もあり得よう。しかし他方、宗教団体が本人に対して、前記のような出家の宗教的意義を説き外部との連絡を思いとどまるよう説得したり、施設内部の規律維持の観点から連絡の手段・方法に一定の制約を設けることも、宗教団体の宗教活動の自由、宗教団体の自治から認められるべきである。
 したがって、結局、宗教団体においていかなる行為が許され、いかなる行為が許されないか、という議論は、上記のような説得や制約の態様、程度、本人の対応等を事案ごとに総合的に考慮して、それが監禁や強要など刑法上の犯罪や民法上の不法行為に該当する程度の違法性を有する行為であるかどうかにより判断する以外にない。
 このことは、外部の人からの本人への連絡においても同じであり、最終的には本人の意思を尊重するべきであるから、本人がその自由な意思によって、外部からの連絡について取次ぎを望まない場合にはその意思を尊重すべきである。
 その場合に、当該宗教団体が閉鎖的であるとか、本人の自由な判断が妨げられていると断ずるのは早計であり、判断基準の解説にあるように「信者が外部から直接連絡できない状態に置かれている場合に、本人の自由意思・自由な判断が妨げられていると考えるべきことも多い」「親族との連絡さえ保障しないような宗教団体等の施設内での活動は、客観的冷静に判断すれば、本人にとってとりかえしのつかない人生の選択を誤らせる可能性がある。本人と家族との埋めがたい意識のズレが生じ、ひいては家庭崩壊の原因ともなる」
(資料42頁)などとするのは、宗教団体は本人の意思を抑圧している、宗教施設の内部で行われることは本人や家族に悪い影響のあるものであると決めつけるものにほかならず、宗教に対する偏見ないし誤った先入観にとらわれた見解であると言わざるを得ない。
(2)判断基準(1)のAにおいては、施設から離れることを希望する者の意思が最大限に尊重されるべきであることは言うまでもないことである。
 宗教団体からの脱退の自由は憲法上の権利(憲法20条)として信者に保障されており、宗教団体から脱退するか否かを決めるのは信者本人である。判断基準の解説の中で挙げられているような、薬物を使ってその意思をコントロールしようとしたり、信者をコンテナや個室に監禁する行為が許されない行為であることは当然である。
 しかしながら、この判断基準によれば、宗教団体からの離脱を希望する信者に対し、宗教団体がそれを思いとどまるように働きかけることも許されないかのごとく受けとられるおそれがある。宗教団体が信者に対して、団体から離れることを翻意するよう説得することは、宗教団体の布教活動ないし信者に対する教化育成活動の自由の一環として認められなければならない。
 しかも、団体からの脱退の自由の問題は、何も宗教団体に限った問題ではなく、営利団体等の他の団体であっても生じうる問題であることからすれば、宗教団体に対してのみ翻意をうながす説得が許されないかのごとく論ずるのは宗教に対する不当な偏見であり、差別であると言わざるを得ない。
 その上で、いかなる行為が許されないかの判断は、信者の内心的信仰の自由(信仰をする自由、しない自由)と宗教団体の布教の自由が同じ精神的自由として同価値の憲法上の権利であることを前提に、説得の手段、態様、本人の対応等を総合的に考慮して、宗教団体の説得が、社会的相当性を逸脱し、刑法上の監禁、脅迫、強要や、民法上の不法行為に該当する程度の違法性を有する行為であるか否かによって判断すべきである。

4 未成年者、子どもへの配慮
(一) 未成年者や子どもが健全な宗教活動を行えるようにするために、成人とりわけ親権者が万全の配慮をしなければならないことは言うまでもない。しかしながら、それが未成年者や子どもの信教の自由を侵害したり制約したりするものであってはならないこともまた、当然である。判断基準に示された内容には、以下に述べるような問題点がある。
(二) 判断基準(1)ないし(4)について
(1) 判断基準(1)においては、未成年者の入信に、親権者等が反対しているときには、未成年者を長期間施設で共同生活させるような入信を差し控えるべきであるとし、判断基準(4)においては、未成年者の意に反して、保護者等が宗教団体の施設での共同生活を強制するべきでないとしている。
 この2つの基準の対比から明らかなように、結局、判断基準は施設で共同生活する入信そのものが未成年者の成長、人格形成にとって悪であるとの前提に立っていると言わざるを得ず、宗教に対する不当な偏見がうかがえる。特に判断基準の解説で紹介されている、オウム真理教による未成年者の出家、献身での事件は極端に悪質な事例であり、それをもって宗教的施設での共同生活を行うことが未成年者にとって常に悪であるかのごとき基準を立てることは議論のあり方として適当ではない。
 もちろん、未成年者が家族と離れて施設での共同生活を行う場合には、未成年者と親権者等との連絡ができるようにすべきであろうし、また、宗教団体が未成年者に学校教育法上の義務教育を受けさせるべきことは当然であろう。未成年者に義務教育を受けさせなかったり、判断基準の解説で紹介されている事例のように施設の中で宗教団体が未成年者に犯罪行為を行わせるようなことは言語道断である。だからといって宗教団体の施設で行っていることは常に未成年者にとって悪いことであると決めつける判断基準は、およそ正当なものであるとは言い難い。
(2) 判断基準の解説で引用されている子どもの権利条約に規定されているとおり、保護者には児童の宗教の自由について指示を与える権利および義務があるが、一方で未成年者の信教の自由も憲法上の権利として尊重されなければならない。結局は、何が子どものために一番好ましい選択なのかを、未成年者の年齢、成熟度、性格、家庭環境等の事情を考慮して個別具体的に考えていくべきであり、一律に未成年者の施設での共同生活を悪と決めつける判断基準は誤りであると言わざるを得ない。このことは、未成年者の入信に親権者等が反対している場合だけでなく、家族での入信に未成年者が反対している場合も同様である。判断基準によれば、両親が出家等をしようとするときには、未成年者の意思を優先して子どもだけを置いていかなくてはならないということになるが、施設の中で家族とともに共同生活を送るより、親子が離ればなれになることの方が常に正しいと言えるかどうかは疑問なしとしない。

結びにかえて
 憲法を引くまでもなく、宗教や哲学、思想、価値観等の精神的な活動こそが、人間を人間たらしめている最も根元的なものである。このことからしても、宗教等の精神的活動は最大限に保障されなければならない。
 また、そもそも宗教というのは、それを信じる者にとっては命にも代え難い崇高なものであるが、信じない者から見れば理解し難いものであり、またどこかいかがわしいところがあるような印象を受ける場合もある。そのため、信じない者の立場からすれば、ともすると、宗教を監視しなければならない、何らかの規制をしなければならない、との発想が生まれる。
 しかし、宗教への監視、規制を公的機関で行うことは、慎重でなければならない。とりわけ、国家によるそのような行為は絶対に許してはならない。国家が宗教を管理するとき、人権は侵害され、国家は破滅に向かう。これは遠くヨーロッパの歴史をひもとくまでもなく、我々がつい半世紀前まで経験していたことでもある。
 今回の日弁連の意見書が、その意図とは裏腹に、歴史の歯車を逆回しに戻す契機にならないように祈るものである。

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