発行書籍より
古都税反対運動の軌跡と展望
政治と宗教の間で
京都仏教会編
第一法規刊
第5章 「解説」 (P218〜P230)より抜粋

第七部 第二次拝観停止と開門への努力
(昭和六十年十一月〜六十一年七月)

仏教会は、十一月二十六日発表した声明に基づき十二月一日、まず蓮華寺、広隆寺が二度目の拝観停止に入り、五日より一斉に各寺院が閉門する予定であった。清水寺の松本貫主は自ら指揮を取り、門前に鉄柵を設け、完全拝観停止の準備を完了していたが、三日夕、突然、大西執事長に対し閉門をしたくないという意向を伝えたため、驚いた大西師は清瀧師、西山氏に相談し、四日朝、松本貫主と清瀧師、大西師、安井師、西山氏が清水寺・成就院で緊急会議を行った。松本師は席につく間も無く「仏教会理事長をやめたい。清水寺は拝観停止はしない」と述べた。清瀧師は「すでにニケ寺が拝観停止に入っており、各寺も五日には確実に拝観停止に入る。
運動の指導者である松本理事長が、自ら決定された方針を今となって何の理由もなく、突然覆すのは敵前逃亡であり、他の寺院に対し、どう責任を取るのか」と諌めたが、松本師は「他の寺はどうなろうとも私の知ったことではない」と言い「私はやめたい」と繰り返すだけであった。西山氏は、松本師の背信による運動への影響の大きさを説明し、「古都税に反対する寺は皆、リーダーである松本先生の背中を見て、ここまでついてきた。開門するならば、各寺院に対し納得のいく説明をし、あなたを信じ、ついて来た寺の開門を見とどけてから、清水寺は開門すべきである」と説得した。
午前中から始まった会談は夕暮れまで続いたが、松本師は突然涙を流し「本当は私も最後までやりたかった」と述べたため、大西執事長も「それならば皆と一緒にやりましょう」と合意し、松本師は直ちに一山会議を招集した。松本師は一旦自坊であろ宝性院に戻り、夕刻より一山会議が開かれた。
しかし結果は松本師が再度態度を変えたため、会議は混乱し、とりあえず閉門作業を続けるということで散会した。度々変化する松本師の態度に不審を持ちながらも会議の結果を待っていた清瀧師・安井師・西山氏の三人は報告を受け、松本師が精神的に動揺しており、これ以上の話し合いは無駄であると判断した。翌日、松本師は警察病院に入院したが、他の寺院にはこの間の事情の説明が出来ず、五日には予定通り十ケ寺が第二次拝観停止に突入した(後日、松本師の動揺の原因は、易占いによるものであることが判った)。清水寺貫主の豹変に対し、一山寺院は激しく反発し、その後非公式に仏教会、清水寺一山、有力信徒総代による会談が持たれた。指導的立場としての清水寺の責任を問うた仏教会に対し、一山及び信徒総代は、「他の寺院を見捨てて、清水寺だけが開門することは信義上できない」として仏教会の方針通り、閉門する事を確認した。入院中の松本師は、仏教会事務局長の数回にわたる事務報告を受け、顧問弁護士に樺島正法氏等を推挙したいと決裁を求められたのに対しても、これを了承し、理事長としての役務を遂行していた。
仏教会の方針から外れていた妙法院は十二月九日、税には根本的疑義があるが、法治国家の国民として法に背くべきでなく、税は協力金として納入すると説明し、実質的に税を納めることを表明した。妙法院のこの決定は、この条例が根本的に間違いであることを認めながら、その誤りを正すことを放棄し、その条例に屈伏するという、宗教者としての自覚を欠いた結論であった。また、三千院では年末にかけ、本山延暦寺や門前業者らによる正月開門への圧力がにわかに高まり、内部は動揺した。
師走の市内は、先行きの見通せない拝観停止に突入したことで門前町は再ぴゴーストタウンと化し、昭和六十一年正月早々には、猟銃を持った男が「市長に会わせろ」と金閣寺にたてこもる事件まで起こった。
仏教会は、京都市への攻撃材料はさまざまあったが長期にわたる拝観停止に入るなか、清水寺問題や所属寺院の脱落という事態をかかえ、苦しい戦いを展開していた。
警察病院に入院していた松本理事長は、一旦退院し、自坊の宝性院に戻ったが面会ができず、その後所在を明らかにしなかった。ところが「松本師は東京の警察病院に入院している」という情報を得たため、有馬・清瀧両常務理事は、一月二十一日急遽東京へむかった。警察病院に問い合わせたところ、松本師は入院していないということであったが、偶然病院のロビーで会うことができ、有馬・清瀧両師は「裁判に関し理事長の決裁が必要であり、今後も理事長の職務を続行して頂くため、連絡をとりたいので所在を明らかにしてもらいたい」と申し入れ理事長はこれを了解した。また、同日、新聞紙上に掲載された松本理事長の辞意表明についても問いただしたが、松本師はこれを否定した。しかし、その後も連絡はなく、仏教会内部では松本理事長に対する不信が高まり、理事長更迭が検討されるが、この時期に指導的立場にある清水寺の脱落は、仏教会にとって運動の崩壊にもつながりかねず、清水寺一山の結論を待つことにして、理事長解任は留保された。
この間、昭和六十年十二月二十六日、八・八和解が公職選挙法に違反するとして、弁護士九人らが今川市長を公選法違反で告発し、昭和六十一年一月十六日、京都地検はこれを受理した。仏教会は顧問弁護士を交え協議したが、公選法違反は市長だけではなく、仏教会もその罪が間われることになろが、両者相討ちならば、公人である市長のほうがはるかにダメージが大きいとして、しばらく成り行きを見守ることにした。
また仏教会は、条例の無効確認を求めて、最高裁に上告していた第一次古都税訴訟を二月四日に取下げ、京都地裁で審議中の、特別徴収義務者指定処分無効確認訴訟(第二次古都税訴訟)に全力を上げることにした。一方今川市長は、議会での責任追及に対し、あくまで八・八和解は試案であるとつっぱね、一月二十五日の新聞紙上で存在が明らかにされた念書についても、一切関知しないという態度を取り続けた。
所在を明らかにしないまま松本師は、マスコミに対し、支離滅裂な言動を繰り返し、一山住職に対し何の相談もなく突如開門を表明するなど、山の秩序を乱したため、これ以上放置すれば清水寺の伝統に傷がつくと判断した清水寺一山は、二月二十二日、一山会議において松本師の貫主解任を決定し、新貫主に森孝慶師を選出、拝観停止を続行することを確認した。
これに対し松本師は、一山会議は認められないとして、逆に責任役員二名(大西執事長・森孝慶師)を解任し、清水寺山内は貫主と一山側との内紛状態になった。しかし松本師は、開門に向けて外部者を雇い入れ、実力を持って強引に鉄柵を取り除くことを画策したため、仏教会としては、理不尽な一方的開門は利敵行為以外の何ものでもなく、開門するなら他の寺と同時に開門させなければならないと考えた。
西山氏は長引く膠着状態を打開し、拝観停止寺院十一ケ寺が開門できる状況をつくりだすため、二十二日、大宮氏の仲介により市長と接触し、一十五日に仏教会代表者との公式会談を開くことを決め、同日午後、記者会見で発表した。これに対し市議会与党の反対にあった今川市長は、二十四日、代表者が西山氏であることを口実に延期することを表明し、事実上この会談は成立しなかった。しかし西山氏は、再び市に話し合いを求めるため、仏教会と共に初めて自ら記者会見に望み、

(1)京都市との話し合いを開始すれば同時に拝観停止を解き無料拝観にする、
(2)その間、京都市は案例を一時停止状態にする、
(3)八・八和解からこれまでの経過については柔軟に対処する、

という二十八日の清水寺における対象寺院会議の決定を発表した。仏教会内部には、拝観停止続行を主張し、今となっては市長との話し合いなど意味がないという意見もあったが、西山氏の強い要請によりこの方針を了承した。京都市の回答は、「寺の責任役員と話し合う」として、あくまで西山氏を拒否し、条例の一時停止も不可能というものであった。仏教会はこれ以上、市との話し合いを求めることを断念し、今後は市長の政治責任を追及するため三年前からの市長との接触の事実経過と、約定金を定めた念書の内容を公表するよう西山氏に求めたが、彼はまだ成すべきことがあり、公表は時期尚早であると主張したため保留となった。
市長が完全に当事者能力を欠いており、拝観停止による経済的影響が深刻化している中で、西山氏は観光業界に呼ぴ掛け、問題提起することで解決の糸口を見つけようとし、業界と直接話し合うことを提案した。仏教会は今更、観光業界との話し合いは必要でなく、このまま拝観停止を続けるなかで市長の責任を追及していくべきであると主張したが、西山氏は「今一度この計画を実行させてほしい。市長の責任追及はそれからでも遅くはない」と述べ、仏教会の了承を取り付けた。三月十二日、仏教会は観光関連業界三十団体に呼び掛け、清水寺大講堂で会合を持ったが、無条件開門を迫る業界側と、まず古都税の一時停止(その間寺院側は無料拝観とする)が先決であるとする寺院側の意見とは、終始平行線をたどった。十二時間に及ぶこの会合は、二十一日再度開くことを決め散会した。
二十一日午後四時から清水寺で再度開かれた会合は、業者側が前回に引き続き開門を要求したため、寺院側は退席し、西山氏が寺側の全権を委任され業者と対応し、再び十二時間に及ぶ話し合いとなった。このなかで業者側と西山氏は、古都税条例に反対することで意見が一致し、業者側は具体的な反対運動に取り組むため、小委員会を組織することを決めた。西山氏は業者を救う一時的処置として、志納金方式による開門を提案し、寺院側の合意を取り付けることを約束した。西山提案に難色を示す寺院もあったが、三月二十四日、仏教会・観光業界はそれぞれ清水寺大講堂において会議を開き、仏教会は三ケ月の期限と観光業界の全面協力を条件に、この志納金方式による開門を受諾した。観光業界は、MK(株)会長・青木貞雄氏、京都観光旅館連盟会長・野村尚武氏、清水寺門前会代表・田中博武氏らが中心となって「古都税をなくす会」を結成し、会長に京都観光土産小売商連盟理事長の今川之夫氏を選出し、この開門中に市と仏教会の話し合いを実現させるため、市および市議会に働きかけ、拒否された場合には市長・市議会のリコールも辞さないことを決めた。(西山氏の提案した志納金方式とは、古都税に反対する観光業界のメンバーが、紹介する参拝者に志納金を入れる封筒を渡し、寺はその紹介状としての封筒を持参したものにかぎり入山を認める、というもので西山氏はこの方法によって税条例の適用が難しくなると判断したのである。)
清水寺では二十五日、一山僧侶と「古都税をなくす会」のメンバー等によって鉄柵が取り除かれ、拝観停止をしていた十ケ寺のうち、金閣寺(四月八目開門)をのぞく九ケ寺がご二月三十日一斉に開門した。門前にお布施袋を渡す業者のないところは、一時混乱が起ったが、市内は観光客の賑わいが戻った。京都市は、このお布施袋による志納金方式に対し、開門は歓迎するとしながら、条例の対象となるかどうかを明確に示さなかった。
四月十一日、市会四会派(自・公・民・社)は、税協力社寺に呼び掛け懇談会を開き、古都税問題解決のため、四会派と社寺側五名の代表による協議機関を設置することを決めた。四会派は条例の凍結などの考えはなく、条例の根幹に関わらない部分での一部修正を匂わし、不公平な税施行に対し不満を持つ社寺の懐柔に努めた。
この間に、松本理事長は仏教会に辞任届を提出していたため、四月十九日、仏教会はこれを受理し、会則に従い、当面は三常務理事により理事長職を代行することを決めた。また府・市仏教会合同以来、仏教会の運営に不満を持っていた仏教会八支部長らは、新組織設立のため、会員に働きかけ、五月二十二日妙心寺、竜安寺等の本山を含め、六百二十一ケ寺と共に仏教会を脱会した。
京都地検は三月二十六日、清瀧常務理事から市長告発事件に関して事情聴取を行い、担当の矢野検事は

(1)古都税反対運動の理由と経過、
(2)昭和六十年八月八日京都ホテルにおいて市長と和解について協議がなされたか、また出席者の氏名は、
(3)八月八日に協定書が交わされたか、署名人はだれか、
(4)斡旋者会議のメンバーが同席していたか、
(5)昭和六十年十一月十一日に公表された「斡旋案」と八・八和解書との違い、
(6)第二次拝観停止を行った理由、

等について回答を求めた。清瀧師は、古都税反対理由と、運動の経過については文書を提出し、

(1)八月八日、京都ホテルにおいては、市長とは特に協議を行っていない、
(2)出席者は、東伏見会長、松本理事長、清瀧常務理事、大西理事、今川市長、城守助役、津田自民党府連幹事長、大宮氏、奥田氏、栗林氏である、
(3)第二文書は密封してあり、内容は西山氏しか知らない、
(4)約定書は、西山氏と斡旋者により作成された、
(5)斡旋案は信教の自由を侵害しており、八・八和解はこれを侵害していない、
等と回答した。

「古都税をなくす会」は、市と仏教会の話し合いのための水面下の努力が成果を上げなかったため、市長及び市議会のリコールを断念し、六月十一日、仏教会に対し「ふたたぴ閉門していただきたい」と申し入れてきた。
仏教会はこれを受け、志納金方式の三ケ月が終了したため、七月一日から無期限の拝観停止に入ることを決めた。拝観停止に同意したのは、青蓮院、金閣寺、銀閣寺、広隆寺、二尊院、蓮華寺の六ケ寺であり、東福寺、泉涌寺、隨心院は志納金方式で開門を続行、清水寺は内紛収拾のため六月二十六日発足した護持委員会において、現行のお布施袋による志納金方式のまま開門を続行することに決定した。(護持委員会は、信徒総代三人、双方の代理人、弁護土ら七人で構成され、責任役員の権限を委譲されていた。)開門を続けられるよう努力するため、西山氏は市議会との話し合いを提案し、この提案を受け入れた仏教会は、六月二十五日、市議会四会派に対し、仏教会代理人としての西山氏と話し合いをするよう申し入れた。民社党及び公明党は出席の意向を伝えてきたが、二十七日、相国寺承天閣でもたれた話し合いには、民社党市議団の山田善一団長一人が出席し、話し合いは平行線に終わった。この時期、解決に乗り出したのは山田氏一人であり、市議会各派は自分達が議決した条例によって引き起こされた問題に対し、提案した市長一人に全ての責任を被せ、たてまえを主張し続け、自らこの問題に係わることを避けてきた。市及び市議会の、仏教会との話し合いの拒否によって、問題解決への道は封じられ、七月一日、六ケ寺は第三次拝観停止に突入、「古都税をなくす会」は解散した。

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