会報46-1 (昭和64年)
宗教税制不公平論について
京都仏教会「宗教と政治検討委員会」委員
駒沢大学教授 宗教学 洗建

 最近のマスコミの論調は、宗教法人の非課税制度が不公平税制の代表の一つであることは自明のことのように扱っている。 中には、宗教法人であれば、僧侶の個人所得でも何でも非課税になっているかのような誤解を振りまき、国民の不公平感を煽り立てているものさえある。そこでいわゆる不公平論の二・三について、少し考えてみよう。

 第一に宗教法人が収益事業を行なった場合の税制上の優遇措置が不公平であるという議論がある。 この議論には、確かにもっともな点があると考えられる。営利企業とまったく同様な事業をして収益をあげている場合には、公益法人であるからと言って、特に優遇すべき根拠は考えにくい。 収益事業は宗教にとって、あくまで副次的なものでしかないからである。 したがって、専ら布教や教化の為の雑誌などを出版している場合とか、信仰上特別な意義を持っている物を頒布している場合など、形式上は出版業、物品販売業などの収益事業に相当しても、実質的には宗教活動そのものであるような場合には、これを課税対象としないようなきめの細かい税務行政を行なうことを条件として、収益事業の優遇措置は返上して良いのではなかろうか。

 第二には、主として新宗教などの巨大法人に対して、莫大なお金を動かしている金持ちなのだから、これが非課税であるのは不公平だという議論がある。 しかし、これについては、多くの新宗教は教団一体の運営体制を取っているという点を考慮する必要があろう。 全国の信者の献金が一度すべて教団本部に集まるのであるから、その金額が巨大なものになるのは、ある意味で当然のことである。 いかにその金額が莫大なものであっても、それが信者達がある宗教目的を達成したいという願いを込めて献金したものであることを考えれば、それがその目的に使用されるかぎり、軽々に課税すべきものとは思われない。 一部の週刊誌などでは、宗教団体が如何に金持ちであるかということを指摘するだけでなく、それを一部の幹部が私的に乱費していると報道し、不公平感を煽っている。 これらの報道がどれほど真実を伝えているものか私は知らないが、しかし、仮に一部の幹部の私的支配が事実であるとしても、それは税制の問題ではなく、法人運営の問題である。この点を混同すべきではないであろう。

 第三に、都市部では霊園が不足して、その経営が商売になることに目を付けた石材屋や不動産業者が、その目的で宗教法人を設立したり、不活動宗教法人の法人格を買収しているという話や、これらの業者の儲け話に乗せられるお寺のことが報ぜられ、また観光業者が宗教法人を設立したとか、ねずみ講の幹部が財産隠しに宗教法人を設立しているなどと報道されてもいる。 このような報道も宗教法人の税制に対する不公平感を高めている。 たしかに、宗教法人の非課税措置その他の特権がなければ、これらの悪質業者に狙われることもないに違いない。 しかし、宗教団体でないものが宗教法人税制を悪用することがあるから、宗教法人に課税すべきだという議論は、論理が飛躍していると言うべきであろう。 この問題も、本来、税制の問題と言うより、宗教法人法運用上の問題である。

 第四に、宗教法人の会計と僧侶の個人所得が混同され、法人の収入を僧侶の私生活に流用しているという指摘がある。 特に税務署筋のこの点についての不信感にはかなりのものがあるようである。 税務署は現行法制の下でも、不審がある場合には立入調査権を持っているのであるが、信教の自由に対する配慮から、従来は宗教団体に対する立入はなるべく控えていたのであるが、最近は世論に後押しされて立入調査を強化して来ている。 そして、調査の結果、悪質な脱税が多数発見されたと報道され、国民の宗教法人に対する不信感、不公平感が一層増幅されている。 たとえば、ある宗教法人は長年にわたって、「お供物」と称する物品を信者に販売していたが、その収益について申告せず、数十億円もの脱税をしていたと報じられたことがある。 もちろん、この事件について、私はその詳細は分からないので、税務署の判断の当否について論ずることはできない。 ただ、宗教では意味の問題が重要なのであって、その「お供物」が単なる物品であったのか、その教団において特別な宗教的意味を持つ物であったのか、現場の税務署員に正確な判断ができたかどうか、心配に思われる。 税務署の立入調査権そのものを否定することはできないが、その執行は慎重であることが望まれるのである。 現場職員の判断の如何によっては、宗教の教義解釈への介入になる恐れがあるからである。 しかし、いずれにせよ、この問題も現行税制の不公平の問題というよりは、宗教法人の運営に関する問題である。

 このように見て来ると、宗教法人の税制不公平論も、税制上の問題よりも、宗教法人の運営や行政の宗教法人法の運用の問題に対する批判や、不信感がむしろ中心となっているように思われる。 これは、大変危険な兆候であり、宗教界がただ手をこまねいて、時の流れのままに身を委ねていれば、宗教法人法の改正を求め、宗教団体に対する国家の指導、監督の強化を求める世論へと発展しかねない要素を含んでいると言うべきであろう。 それは信教の自由という国民の貴重な権利の危機を意味している。 宗教団体に対する所轄庁の介入はもとより、課税庁の立入も、信教の自由にとってはきわめて危険が大きい。 宗教界にとっては当然非課税であるべき税目について、その非課税の正当性を積極的に世論に訴える事と共に、国民の理解が得られる法人運営の方法を確立することが、緊急の課題になっている。 我が国では有史以来昭和二十年まで、宗教団体が国家に管理されることに馴れて釆た。 そして国家の監督下にあるがゆえに、宗教非課税について国民の批判もなかったが、信教の自由もなかったのである。

 政教分離の下では、宗教団体が国家から自立し、自律することが欠くことのできない条件である。 宗教法人法の精神は、わずか三人の責任役員で運営すれば、それで十分であるということではない。 まして、個人の支配を許すような組織であっては、世論の支持は得られない。 公益性を確保するためにどのような機関を置き、どのような運営組織を作るかは、各宗教の理念や伝統、実情に照らして各団体が工夫し、法人の規則に定めるほかに道はない。 万一不心得な指導者が出ても、内部でチェックできる機構を確立しなければ、国民の信頼を回復できないであろう。 この作業は法律家に頼るのではなく、宗教者が自ら成し遂げなければならないのである。なぜなら、自らの宗教の目的を知るものは、宗教者以外にはいないからである。

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