平成8年8月15日 刊行本 宗教法人法「改正」と税制 -宗教法人の自主性を確立するために- より
宗教法人課税の基本的争点宗教活動の非課税は特権か
大阪府立大学教授 田中 治
一 はじめに
オウム真理教事件をきっかけとして、宗教法人に対する課税の強化がしばしば主張されている。その主張の中には、宗教法人に対する税制上の優遇が、サリン製造等の犯罪行為を助長してきたとする極端な見方すらある。このような極端なものではなくとも、課税強化を唱える論者は、宗教法人の一部には、本来の宗教活動の範囲を逸脱して、宗教ビジネス化しているものがあるとか、政治団体化しているものがあるとかの捉え方をしている。宗教法人の実態がこのようなものかどうかについては、冷静で具体的な事実認識が不可欠であろうし、またたとえそのような理解が妥当であったとしても、それを、制度として、どこまで課税の問題に直結できるかについては、別の慎重な考慮が必要であろう。
以下で検討するのは、宗教法人への課税が優遇されているということの税法上の意味についてである。一般に、宗教法人への優遇措置といわれるのは、①本来の宗教活動(非収益事業)を非課税とする(法人税法四条一項)、②収益事業に対して二七%の軽減税率を適用する(通常は三七・五%。法人税法六六条三項)、③収益事業に係る所得から本来の宗教活動に支出した場合には、当該所得の二○%まで損金に算入する(法人税法三七条四項、法人税法施行令七三条一項三号(ロ)④支払いを受ける利子、配当等の金融収益を非課税とする(所得税法一一条)、⑤もっぱらその本来の用に供する境内建物等に対する固定資産税を非課税とする(地方税法三四八条二項三号)、などの諸措置である。
以下においては、紙数の関係上、この優遇措置といわれるものの中から、主として①および②を取り上げて、次のような視点から問題を提起したい。
第一に、そもそも、本来の宗教活動に対する非課税措置は、宗教団体に対する優遇または特権の付与なのかどうかを問わなければならない。しばしば、本来の宗教活動が課税を免れるのは、宗教活動には公益性があるからだといわれるが、それが非課税とすべき決定的な理由なのであろうか。
第二に、収益事業に対する軽減税率の適用についても、一般に、公益性を理由にこれが正当化されている。しかし、収益事業については、単に公益性ゆえに軽減税率が適用されているのであろうか。また、このような軽減措置は将来どのように改革すべきであろうか。
第三に、宗教法人税制と、そのもとでの税法の執行とは、一応区別する必要がある。税務執行上課税もれがあるからといって、税制そのものに問題があるというのは、短絡にすぎるのではないか。
二 本来の宗教活動に対する非課税は特権か
宗教法人課税には、二つの面がある。一つは、現行の税制は、宗教法人だけを切り離したものではなく、公益法人税制として構成されているということである(公益法人課税としての宗教法人課税)。二つは、そもそも、その公益法人税制も、法人税の課税の仕組みの一部であるということである(法人課税としての公益法人課税)。
(1)宗教活動の公益性をめぐる争い
これまで、宗教法人課税をめぐる議論は、主に前者に集中しており、その結果、宗教法人の公益性、公共性の存否等が議論の中心となってきたといってよいであろう。本来の宗教活動に対する非課税措置については、これまで、一般に、宗教法人は、公益法人の一種であり、宗教活動が公益性をもつがゆえに、非課税措置を受けるのは当然である、といわれてきた。これに対して、とりわけオウム真理教事件以降、この非課税措置を否定する論者は増加しつつある。その否定論は多種多様であるが、たとえば次のようなものがある。
<非課税措置否定論>
その一は、宗教団体はもともと善であるという性善説に基づいて、宗教活動を非課税としてきたが、宗教団体の中には、犯罪者集団と化したり、ビジネス産業と化したりするものがあり、これでは非課税に値しない、というものである。しかしながら、これは、部分をもって全体を推し量る狭隘な議論であるとともに、税法の規定それ自体には、ある団体の活動が善であるとか、公益性があるとかによって税負担を左右する仕組みが全く存在しないことを考慮しない、いくぶん感情に傾斜した議論であると思われる。
その二は、宗教法人のも公益性は、無宗教者が少なくないわが国の現状に照らせば、他の学校法人や社会福祉法人のもつそれと比べて、一般的、普遍的な公益性とはいえない、というものである。しかし、この主張についても、排他的に特定の宗教を信じる者のみを宗教者と考えるのは、多神教ともいうべきわが国の宗教の現状(宗教人口は二億人ともいわれる)を不当に狭く理解するものであり、加えて、公益性の有無の判断基準を明示しないままで、宗教法人には公益性がない、あるいは公益性が弱い、という結論を急いだものだ、との批判を免れないであろう。
その三は、上記二つとは多少異なり、宗教法人の公益性を一応は承認しつつ、その公益性の担保として、所轄庁による宗教法人の規制を正当化する論理である。すなわち、宗教法人が非課税という優遇措置を受ける以上、その活動には社会的責任が生じ、その保障として所轄庁の規制が必要になってくる、というものである。この主張は、基本的には、非課税措置が公益性の有無や程度に左右されることを前提とするものであろう。そうであるとすれば、この主張については、本来の宗教活動に対する非課税措置は、はたして優遇措置、特権であるかどうかがまず問われるべきではないか、それが特権でない場合は当然であるが、たとえ特権であったとしても、課税上の措置と所轄庁の規制をこのように直線的に結びつけることができるのか、等の批判が可能であろう。
<宗数法人の公益性と株式会社の公益性>
宗教法人の本来の活動に公益性がないのでこれに対する非課税措置は問題だという批判に対して、単純に、宗教法人には公益性は十分にある、という反論を対置すれば、それで問題は解決するのであろうか。
おそらく、宗教法人の活動に公益性があるかどうかについては、一般論としては、ある、といってよいであろう。たとえば、次のような主張は、少なからぬ説得力をもつといえる。すなわち、宗教は、信仰をとおして、信者の精神の安定と向上を図るとともに、その人格を陶冶する。そこから得られる全人格的成果は、広く社会の発展や安寧に寄与する。特定の信者等しか宗教活動の利益を受けていないようにみえても、教育活動と同様に、その効果の広がりは、社会全般に及ぶ。大学に進学しない者は、大学教育の直接の利益を受けないが、そうであるからといって、学校法人の教育活動の公益性が否定されないのと同じく、宗教法人の公益性も他の公益法人の公益性と何ら変わるところはない。
では、株式会社等の営利法人の活動には、公益性はないのであろうか。たとえば、株式会社が株主の私的利潤の獲得をその経済活動の動機としていることからみれば、その活動をもって直ちに公益性があるとまではいえないが、その活動から生みだされる種々の便益とその社会的効果に着目すれば、株式会社の活動には公益性があるということが可能であろう。すなわち、営利法人が、市場の競争をとおして、各種の製品やサービスを社会に提供することは、一般には、個人生活の利便を向上させ、多数の消費者の満足を生みだしつつ、社会の進歩に役立つのである。
このようにみると、公益性の意味は何かが問題となる。しかしながら、第一に、公益性の意味を確定することは容易ではない。その意味は極めて多義的であり、大方を納得させるに足りる公益性の判断基準は存在しない。
第二に、公益性があるかどうかは、課税のうえで、必ずしも決定的要素とはならない。株式会社に上記のような公益性があったとしても、その活動の結果生じた所得(もうけ)には、三七・五%の税率が連用される。他方、公益法人の本来の活動の結果生じた剰余金には、課税が行われない。課税におけるこのような違いは、後に述べるように、公益性の優劣によるものではなく、租税負担能力の有無によるものというべきである。
また宗教法人という形態ではなく、個人で宗教活動を行い、一定の継続的収入を得て生計を維持した場合には、たとえその宗教活動に公益性があるとしても、事業所得を得たとして所得税が課されることは十分考えられる。戦後まもない頃の事件であるが、自宅に祭壇を設けて神道教師として活動し、常に信者の供物等を受け、占業による収入によって生活を維持していた者に対して、事業所得を得たとして課税がされたことがある。この課税は、宗教活動そのものの公益性を何ら否定するものではなく、特定の個人に帰属することとなる継続的な利得に担税力を認めたからにほかならない。
このように、ある団体またはある活動に公益性があるからといって、それだけで、その団体やその活動の非課税を正当化することはできない。公益性の主張は、結局のところは、制度上の非課税という事実を後から理由づけ、正当化するための一つの説明の仕方というべきであろう。まして、非課税となっている現状を前提に、それを公益性ゆえだと理屈づけ、その公益性と社会的責務を担保するために、当該団体への規制を強化すべきだというがごとき主張は、牽強付会といわざるをえない。公益性の有無、課税の是非、規制の当否は、それぞれもともと別の問題である。論理整合性を欠いたままで、それらを結びつけようとするのは、強圧以外の何ものでもない。
(2)法人税の存在理由
<公益法人課税の特徴>
宗教法人は、学校法人や社会福祉法人等と同じく、公益法人の一つである。宗教法人に対する課税は、基本的には、公益法人課税として一括することができるし、現行の法人税制は、そのように取り扱っている。
では、次に、法人課税として大きく見た場合に、公益法人課税の特徴は何か。その最も大きな特徴は、法人税法は、公益法人の事業が収益事業に当たるかどうかを基準として、公益法人が非収益事業(本来の公益事業)を行った場合には、たとえ剰余金(収入と支出の差額)が生じたときでも法人税を課さない、ということである。これに対し、株式会社等の営利法人は、その活動によって生じた所得(益金から損金を控除した残額)について、法人税が課されている。
このような違いは、なぜ起きるのか。それは、公益法人または営利法人のそれぞれが、①その事業をとおして、剰余金または所得を生みだそうとする明確な意思をもつかどうか、②剰余金または所得が、個人に分配され、個人の所有に帰するかどうか、という違いによるものと思われる。
<営利法人にはなぜ法人税がかかるのか>
株式会社を例に考えてみよう。極めて単純化していうならば、株式会社は、もともと個人株主の利潤の獲得を目的として設立される。会社は、営利活動をとおして所得を得ることをその基本的存在理由とし、そのためには、できるだけ益金部分(売上等の収入)を増やし、損金部分(売上原価等の支出)を減らすことがその活動の基本様式となる。このようにして獲得した所得は、配当をとおして、個人株主に還元される。
このような単純な見方そのままを現行の法人税制が採用しているかどうかについては議論のあるところであるが、現行税制は、基本的には、法人の所得は、いわば法人という「通路」を通って、結局のところは個人株主の所得になるとみているといってよい。このような考え方を徹底するならば、純理論的には、法人税は不要のものとなる。個人が、法人という通路、道具を利用して利潤を得るのであれば、その利潤を得た段階で当該個人に課税すればよい、ということになるからである。しかし、このような極端な結論もまた道切ではなく、制度としては、法人税は、個人所得税の前どりであるとして、原則として、三七・五%の税率が当該所得に適用される。
所得税においては累進課税が採用されているのに対し、法人税においてはなぜこれを採用しないかの理由づけとして、法人税は、所得税の前どりであるからだといわれる。法人の所得が、最終的に個人に分配されるのであるから、大企業の得た大きな所得も、中小企業の得た小さな所得も、その通過的な局面においてこれらを見る限り、何ら違いはない、とされるのである。法人税は、とりあえず所得税の前どりであって、法人税と所得税の二重課税の調整を考えると、法人所得に対する累進課税は適切ではない、と考えられている。
わが国の法人税制は、このように、基本的には、法人の所得そのものを、独立した担税力ある存在とは考えない。法人はあくまでフィクション(擬制)であり、真の担税力は、企業活動の成果の分配を受ける個人にあると考えるのである(法人擬制説)。なお、わが国やヨーロッパ等の多くの国は、このような考え方を採用しているが、アメリカは、法人を独立した課税の主体として取り扱い、たとえば、個人の場合と同様に、法人所得についても累進課税を行っている(法人実在説)。
法人課税の根拠については、上記のとおり、大別して二つの考え方がある。わが国の法人税制は、その依拠する考え方を含めていろいろ変遷をたどっているが、現行の法人税制は、基本的に、法人擬制説の理解に立っていることを忘れてはならないであろう。
<公益法人の非収益事業にはなぜ法人税がかからないのか>
では、このような制度原理のもとで、公益法人の本来の事業(非収益事業)に対する非課税は、どのように説明されるのであろうか。
一見してわかるように、公益法人の非収益事業と営利法人の行う営利事業とは、際立った違いがある。非収益事業は、剰余金の発生を事業の自的とはしない。収入と支出は、互いに見合ったものであり、非収益活動によって得た収入は、その法人の本来の事業を遂行するための支出に充てられる。したがって、ごく単純化していえば、本来の事業を遂行する限り、会計上は、もともと、収入マイナス支出=0円という結果になるはずである。たとえ剰余金が発生したとしても、それは基本的には、意図せざる結果であって、これを個人の利益として個人に分配することはできない。その剰余金は後の年度において、本来の事業の遂行に充てられる。
このように、公益法人の本来の活動については、その活動の性格上、もともと剰余金の発生を予定することはできない。まして、その剰余金が分配されて個人の所得となることなどおよそ想定できない。このような理由によって、法人税法は、公益法人の本来の活動によって得た剰余金(および不足金についても)を課税の対象とはしていないのである。
もし、個人所得の前どりとして課税すべきものを非課税とするのなら、それは優遇措置である。しかし、公益法人の本来の活動に対する非課税措置は、課税の対象となる「所得」が存在しないことからくる当然の結果である。課税の対象がもともとない、ということと、課税の対象があるにかかわらず、これに課税しないということとは、たとえその結果が同じように見えたとしても、それぞれの意味するところは全く違うのである。
このように考えるならば、問題の非課税措置は、優遇措置でも特権でもない、というべきである。
(3)免税制度の導入論
<非課税制度と免税制度>
わが国においては、公益法人が法人格を取得することにより、公益法人の本来の事業(非収益事業)は非課税となる。これに対して、アメリカにおいては、法人格の取得と免税資格の取得とは明確に分離されており、非営利団体が免税資格を得るためには、課税庁の個別的な審査に合格する必要がある。たとえば、宗教団体について、課税庁は、正式な教義、礼拝施設、日常的な礼拝行為等があるかどうかの形式的な審査に加えて、教団の私物化、営利団体化、政治団体化の有無等の実質的な審査にまで及ぶといわれる。この免税制度は、非営利団体の政治活動などの目的外活動をコントロールする手段とされる。
<免税制度の問題点>
公益法人課税のあり方をめぐって、アメリカの免税制度を導入すべきだという主張がある。この主張が、公益法人税制の全体を議論の対象としているのか、それとも、宗教法人課税のみを対象としているのか必ずしも判然としない。
以下に述べる理由により、わが国の公益法人課税においては、免税制度を採用すべきではないと考える。
第一に、免税制度は、公益法人の公益性に関する判断を、すべて課税庁の手に委ねるものである。わが国において、何が公益かどうかの判断基準は、極めてあいまいであり、公益性の意味内容について、これまでのところ、共通した理解は存在しないと思われる。
宗教法人についていうならば、ある活動が宗教活動に当たるかどうかの個別的な判断を課税庁に委ねてよいというほど、その判断基準は明確になっているのであろうか。免税資格の剥奪の要件となるであろう政治的な活動(選挙運動、立法活動など)と本来の宗教活動との区別は、明確になっているのであろうか。
公益法人の活動に対する何らかの規制が必要である場合には、その規制は、公益法人の存在理由である、教育、文化、学術等の発展に寄与するという事業目的に合致する方向で、慎重になされるべきであろう。ところが、課税庁の存在理由は、これらの目的の実現とは本来無関係である。課税庁は、安定的かつ確実な税収の確保をその基本的な任務とする。そのような役割をもつ課税庁に対して、上記のような公益判断を求めることは、いわば木に縁りて魚を求むる行為に等しい。
たとえば、宗教法人の政治活動が禁止されるべきかどうかは、これを正面に掲げて議論し、法的に決着をつけるべき問題である。政治活動をしたことを理由に、個別に、いわば懲罰的に非課税の利益を剥奪することが認められるかどうかという問題設定は、論者の主観的意図はともかく、真の争点を回避する結果となる。
わが国の現行税制は、課税庁に、公益法人の公益性を判断する余地を全く与えていない。課税庁は、問題の事業が収益事業に該当するかどうかの判断を求められており、これならば、課税庁の適正な判断を期待することが可能である。個別的な公益性の判断を課税庁が行わない制度というのも、公益性をめぐる必要以上の混乱と対立を避けるという意味において、それなりの合理性をもつものと思われる。なるほど、免税制度を導入すれば、課税庁の個別的判断をとおして、あるいは課税上の濫用が抑制されるかもしれない。しかし他方で、課税庁の判断が恣意的になったり、公益活動に対する過剰な規制が及んだりする恐れも、全く考えられないわけではない。
とりわけ宗教法人については、政教分離の原則等からみて、宗教活動における自主性、自立性が重視されねばならない。免税制度によって得るものと失うものとを総合的に判断するならば、その採用には否定的にならざるをえない。
第二に、免税制度は、一般に優遇措置であって、免税の成否は課税庁の判断に委ねられている。これは、現行の非課税措置とは全く異質なものであって、現行の法人課税の考え方を根底から改めるべきかどうかが、まず問題とされねばならない。
なるほど、国家が、税制を活用して、公益目的にかなった事業、活動を育成するねらいをもつことは、税制本来の利用法ではないとはいえ、あながち否定されるものではないであろう。そこにおいては、免税制度は、優遇措置だと考えられる。つまり、本来の事業活動をする限りは、課税を行わないが、それは公益目的を逸脱しない限りとするのである。このように、アメリカ型の免税制度は、行為規制という、税制にとっては補充的な役割を重視するものである。また、それは、法人固有の担税力を想定し、その個人との関係を切断した税制である。公益法人の剰余金の存在をもって、直ちに法人固有の担税力を認識する考え方に立つものといえる。もし導入が示唆されている免税制度がこのようなものであるならば、わが国の課税の原理の主要な部分について、大きな改変を迫るものである。このように考えるならば、税制の制度設計としても、その採用については、少なくとも拙速を避けるべきであろう。
なお、一九九六年度の税制改正に関する政府税調の考え方は、以下にみるように、課税の守備範囲を明確にし、課税の論理を冷静に一貫させている。基本的に妥当と思われる。すなわち、「公益法人等のあり方に関連して、目的外の活動や政治献金等をした場合には課税できないか、非課税措置を課税当局の承認制に改められないか、といった意見がある。こうした点について、①反社会的な活動や違法行為についてば本来刑罰等で対応すべきものである、②公益法人等の政治活動等についてはこれを禁止していない我が国の現行法制に関連する問題である、また、③課税当局の承認制については、主務官庁が法人格を付与することにより公益法人等としての課税関係を定める現行法体系の基本に関わる問題であることから、国民的かつ十分な議論が行われる必要があると考えられる。
なお、宗教法人だけを他の公益法人等から切り椎して課税上厳しい取扱いをすることは、現行の法体系上困難であり、また主要諸外国においても、その例はない」。
三 収益事業に対する課税の軽減措置は妥当か
公益法人が収益事業を行い、所得を得た場合には、二七%の軽減税率で課税される。ここにいう収益事業の範囲として、法人税法施行令は、物品販売業、不動産販売業、金銭貸付業など三三の業種を掲げている。
<収益事業の意味>
注意を要するのは、租税実務においては、たとえ当該公益法人がその本来の目的たる事業を営む場合であっても、特掲された三三の事業から生じる所得と判断されたときは、法人税の課税対象になるということである(法人税基本通達一五・一・一)。たとえば、経典、経本、法話集等を出版する事業が、ある宗教法人の宗教活動の一環として行われたとしても、法人税の目から見れば、それは施行令に掲げられた収益事業の一つである「出版業」に相当するということになり、その収益事業に係る所得は、二七%の軽減税率で課税されることになる。
<軽減税率適用の趣旨>
軽減税率に関する法の考え方は、必ずしも明確ではないが、おそらく次のようなものであろう。
公益法人が収益事業を営む場合の課税関係を決める際に、公益法人の公益性の有無や程度は、決定的な考慮要素ではない。問題の収益事業について、公益法人が、一般的な営利法人と競合関係に立つこと、営利法人との対比において課税の公平を確保する必要があることが特に重要である。もっとも、課税の公平の確保といっても、当該収益事業から得た所得は、結局は、本来の公益事業に支出されるのであるから、この点を考慮するならぱ、営利法人と全く同様の税率(三七・五%)というのは必ずしも適切ではなく、相当の軽減税率を適用することが認められる。
<収益事業に対する課税の方向性>
一般論として、公益法人が収益事業により所得を得た場合の課税の仕方として、次の三つの方法が考えられる。一つは、収益事業の結果得られる所得についても非課税とする、という方法である。これは、前述の法人課税の趣旨を前提とする以上、公益法人の行う収益事業は、私的利益の獲得を目的とするものでもなく、その経済的成果を個人の所得として分配するものでもない、と考えるからである。二つは、問題の所得については、他の営利法人と全く同様の取扱いをする、という方法である。両者が、市場において競合関係にありながら、一方は、租税負担を負い、他方はこれを負わないというのは、中立的で公正な競争秩序を妨げることになると考えるものである。三つは、前記の二つの考え方の折衷、妥協というべきもので、収益事業については一応課税はするが、軽減税率を適用する、という方法である。現行法は、この第三の考え方によるものということができる。
これらの考え方の違いは、基本的には、課税のうえで、個人所得の前どりという法人税の基本的性格を重視し、その論理一貫性を確保すべきか、それとも、法人税の税負担の有無によって、法人問の競争に不当な影響を与えないように特段の配慮をすべきか、のいずれを重視するかによって生じたものである。
いずれも、それなりの合理性をもつため、いずれを選ぶことも可能である。その選択は容易ではないが、少なくとも次の点は留意されてよいであろう。
第一に、課税以前の問題として、公益法人は、無制約に収益事業を行うことができるわけではなく、それぞれの設立の目的との関連においてこれを行うことができるにすぎない。たとえば、宗教法人は、宗教法人法の規定(六条二項)により、その「目的に反しない限り」で収益事業を行いうるにすぎない。
個人の内発的な信仰心の発露としての寄進、喜捨等をもって本来の活動を行うべき宗教法人にとって、収益事業をすることが、どのような意味で正当化されるかについて、改めて明確にする必要がある。もちろん、すでに述べたように、収益事業という認定は課税上の問題であるが、たとえそうであるとしても、市場において他の営利企業と競争、競合してもなお、何ゆえに一定の「所得」を生みださねばならないかについては、明確で説得力ある根拠が求められる。もし、収益事業をステップとして、宗教活動そのものを拡張し、富の集中を図ることがあるとするならば、それは本末転倒であって、その行為は、おそらく社会的には支持されえないであろう。
第二に、課税の論理として考える場合、軽減税率によって公正な競争関係が阻害され、課税の公平が損なわれるという実態があるのであれば、制度を改める必要があるであろう。軽減税率の存在が、必要以上に、公益法人の収益事業への傾斜を促したり、税負担を免れるための公益法人制度の悪用を誘発したりするのであれば、これを改めることもありうる。
結論は、軽減税率等の現実的な機能をどうみるかに左右されるであろう。軽減税率が公益法人の活動に与える積極、消極の両面を冷静に検討することが特に重要となる。
なお、念のために述べると、十分な検討の結果、たとえ軽減税率を縮小または廃止すべきであるという結論に達することがあるとしても、その結論は、公益法人の収益事業から生じた所得は、営利法人について生じた所得と同等の担税力をもつので、平等に課税すべきだという考え方とは、全く異なるものである。法人独自の担税力に着目して課税を行うアメリカにおいてはともかく、法人擬制説的な考え方を基礎とするわが国の法人税法のもとでは、公益法人の収益事業について生じた所得は、基本的に担税力あるものということはできない。このように考えたうえで、担税力の視点ではなく、公正競争の視点を徹底して優先させた場合には、そのような結論をみることもありうるというにすぎないのである。
第三に、いずれの改革の方向もとりうるというこのような場合においては、現行制度の改革は、十分な検討を尽くして、慎重に行う必要がある。形式的で感情的な不公平税制論を用いて、問題の軽減税率を大幅に引き下げよ、あるいはこれを廃止せよ、というのは短絡にすぎるであろう。改革を行うならば、立法者は、改革の基本的な方向と理念をまずもって明示する必要がある。現行の軽減税率という仕組みは、種々の理念、利害の妥協によって得られた現実的な処理ということも可能であり、その改廃の得失については慎重な見極めを要するであろう。またいうまでもなく、宗教法人のみを取り出して、特別の収益事業課税をすることなどは、課税の論理としてもおよそありえない。
もし、収益事業について何らかの課税をすべきであるとした場合には、収益事業の範囲とその認定基準が問題となる。現行の三三の収益事業の意義は、法令の規定を見ただけで、一義的に定まるものとはいえない。収益事業に関する具体的で明確な規定を欠いたままでは、公益法人は、収益事業をしたとして、いつ課税されるとも限らない。公益法人の予測可能性や法的安定性を確保し、無用な紛争を避けるためにも、立法の整備が望まれる。
四 課税の適正化と収支報告の義務づけ
<収支計算書の提出制度の創設>
一九九六年度の税制改正において、宗教法人を含む公益法人等の改正項目の一つとして、次のような収支計算書の提出制度が創設された。
従来、収益事業を営まない公益法人等は、確定申告書の提出は不要とされてきたが、この収益事業を営まない公益法人等についても、税法上、収支計算書を所轄税務署長に提出することとされた。なおこの制度は、小規模な法人の事務負担等を考慮して、寄付金収入や会費収入などを含めた年間の収入金額が五○○○万円以下の公益法人等については、適用されないこととされている。
この改正は、収益事業に該当する事業を行っていながら無申告となっている者の把握に役立て、収益事業課税の適正化を図ることを目的とするものとされる。
<義務づけの問題点>
この制度の創設については、その対象が宗教法人のみではなく、宗教法人を含む公益法人全体であるためか、ほとんど議論を呼ぶことなく立法化されたが、はたして問題はないのであろうか。
第一に、非収益事業をする限り、申告義務がないという現行制度の建前は、何ら不思議なことではない。それは、相続が発生したからといって、基礎控除後の課税遺産総額がゼロであれば、納税の義務はなく、したがって申告の義務も生じないのと同様である。もともと納税の義務がない事業について、事業の収支報告を法で義務づける場合には、たとえば、本来の事業に関し収益事業として申告すべきであるにもかかわらず、相当程度の課税もれが広範にみられる等の、より具体的で説得的な説明が必要であろう。
そのような説明ができない場合には、問題は小さくはない。たしかに、収益事業課税の適正化は、一般論としては異論のないところである。しかしながら、もともと納税義務も、申告義務もない、非収益事業のみを行う公益法人に対して、当該非収益事業に係る情報の提供義務だけを課すのは、極めて異例の事態だと思われる。収益事業を行わない法人にとっては、収益事業の適正化は直接の関係をもたないからである。法人税については申告納税を旨としているのであるから、その趣旨は最大限尊重されるべきである。課税の適正化のために一定の情報が必要であるとすれば、このような義務づけではなく、納税者の自発的な協力を基本とすべきであろう。
またこの改正のねらいが、収益事業課税の適正化にとどまらず、公益法人の源泉徴収義務の履行の有無や、支出先、支出金額等の確認にあるとするならば、それを明示すべきである。もし改正のねらいがそうだとすれば、事情は大きく違ってくる。この種の情報は、通常、税務調査で確認されることになるが、任意調査を原則とする税務調査に連動する情報として、法の義務づけによって当該情報を入手し、利用することが可能かどうかが改めて問われなければならない。たとえば、公益法人の支出をとおして個人に所得が発生したにもかかわらず、当該個人による申告がない、といった事態は、税務執行上これを厳格に是正しなければならないのは当然である。しかしそうだとしても、その情報の手がかりとして、関連する情報の提出を法で義務づけうるかどうかについては、別の慎重な考慮を要するであろう。
第二に、立法技術として、今回の改正は、租税特別措置法の改正(六八条の六)という形を取っている。この改正が、法人税法本法の改正ではなく、なぜ租税特別措置法の改正をとおして行われたのか、その理由は判然としない。たとえば、申告納税制度の適正さを確保するため、白色申告者である個人または法人については、一定の要件のもとに、帳簿書類等の保存義務、総収入金額報告書提出義務が課せられているが、これは、一九八四年、所得税法または法人税法の改正において、新たに導入されたものである(所得税法二三一条の二、二三一条の三、法人税法一五○条の二)。また現行法においては、公益法人等が収益事業を新たに開始した場合は、関係書類を所轄税務著長に提出することが義務づけられている(法人税法一五○条)。
このような制度を前提とするならば、収益事業課税の適正化を目的とする立法の手法としては、法人税法そのものの改正を行うのが自然であるというべきであろう。特に大きな争点とならない限り、租税特別措置法の改正は余り注目をされない傾向にあるが、十分な議論のないままで、このような形で簡単に立法化されるのは問題なしとしない。
第三に、収支計算書の提出は、宗教法人法の改正においても問題となり、同法の改正の結果、一定の金額(未定だが、八○○○万円といわれる)を超える収入金額のある宗教法人は、所轄庁に対して収支計算書を提出する義務があるものとされた(宗教法人法二五条)。宗教法人は、その本来の事業における収入金額の大きさによっては、収支計算書を、所轄庁と課税庁の双方に提出する義務が生じる。所轄庁と課税庁とは、互いの行政目的が違うため、それぞれの提出義務は、別物と考えられるのであろう。
しかし、たとえそうであったとしても、宗教法人法改正において議論のあった収支計算書の提出義務化の是非を、課税目的であればそれほど議論しなくてよいということにはならないであろう。「収益事業」課税の適正化という目的があるからといって、論理必然的に「非収益事業」の収支報告書の提出を義務化することにはつながらない。公益法人課税の適正化の議論においても、公益法人法人の自主性、自律性への配慮が特に望まれる。
五 宗教法人税制とフィランソロピィ税制
<税制による支援の是非>
公益法人税制はまた、ボランティアなどの民間の非営利組織の活動に対する税制とも関係して、そのあり方が問題となる。広く公益法人をも含めた民間団体の非営利活動については、課税強化論と並んで、課税支援論もまた根強いものがある。この両者は、表面上は対立するかのようであるが、実は、国家との関係では同根ではないかと思われる。
民間の公益活動と国家との関係において、しばしば、税制をとおした援助を行うことにより、国家としてその保護育成を図るべきであると主張される。公益活動を行う当該団体への税負担の軽減についてはいうまでもなく、当該団体への拠出を行う一般の個人や法人についても、寄付金控除や損金算入限度額の拡大等の税制上の誘因を与えるべきであると主張される。
しかしながら、公益活動への拠出は、自らの自由意思によって、いわば自分の心情の発露として行われるものであって、税制のあり方とはもともと関係がないはずである。税制をとおした国家の援助を期待する気持ちはわからないでもないが、国家への過剰な依存は、同時に、国家による管理統制への途を開くものでもある。民間の公益団体が、国家が直接にはなしえない国民の精神生活の向上に寄与しているという理由づけによって、自らの存在理由を規定し、いわばその見返りの形で租税負担の軽減を求めることは、諸刃の剣というべきであろう。
<セルフ・サポート、セルフ・コントロール>
人が自らの内発的意思によって、代償を求めることなく金銭や労力を拠出する。これはもともと、自由な生活の一部として、国家の承認を得たり、外的誘因を必要としたりするものではない。その意味では、これらの活動は、国家との関係では、ノー・サポート、ノー・コントロールであるべきであろう。主体的に言い換えるならば、セルフ・サポート、セルフ・コントロールを基本とすべきだということになる。このような関係のもとで、当該公益活動により、他人の権利利益が侵害されるという不測の事態が生じる場合に限り、国による適切な規制が正当化されることになる。
いうまでもなく、このように述べたからといって、公益法人等の非営利組織の活動のすべてが法から自由である、あるいは税制または税務行政から自由である、などということにはならない。たとえば、源泉徴収や申告もれとなっている個人所得に関して、課税庁が、税務調査等において厳しく追及することは、それが本来の公益活動への不当な抑制とならないよう慎重な配慮が必要であるとはいえ、税法の適正な執行として当然である。
六 おわりに
第一に、宗教法人を含め、公益法人の本来の活動が非課税となっているのは、何ら優遇でもなく、特権でもない。それは、私的利益の創出と分配のための導管として法人の経済活動を位置づけ、法人税を個人所得税の前どりと考える現行税制の論理の帰結するところでしかない。本来の活動から生じる剰余金は、利潤動機に促されたものではなく、また個人への分配が予定されるものではないから、法人課税の枠組みに入らないのである。
第二に、わが国の公益法人税制において、免税制度の導入は、結局のところ避けるべきであろう。アメリカ型の免税制度は、課税庁に監督官庁の役割をも負わせるものであって、わが国の法人税の役割と原理を根底から見直したうえではじめてその導入が可能となる。また、課税庁の公益性判断によって租税負担が左右される免税制度のもとでは、公益性、宗教概念等について明確な判断基準がない以上、公益活動に対する課税庁の恣意的で過剰な規制を引き起こす恐れがある。
第三に、公益法人の行う収益事業については、課税の論理からみれば、これを非課税とすることも、またこれに通常税率で課税することもともに可能である。したがって、現行の軽減税率の改革の方向性については、改革の理念を明確にしつつ、慎重に検討を加えるべきであろう。検討の結果、現行どおりというのも、それはそれで合理的、現実的処理といえるであろう。
収益事業の範囲は、課税の論理で決められているとはいえ、収益事業によって本来の活動を支えることの当否がまず問われるべきであろう。
第四に、宗教法人を含めた民間公益団体の活動において、課税をとおした国家の支援を求めることについては、基本的には、慎重であるべきだろう。個人の自発性、内発性を基礎とする活動にとっては、自立(セルフ・サポート)および自律(セルフ・コントロール)の精神が何より求められるであろう。
第五に、公益法人課税のあり方を考えるうえでは、感情論を排した、冷静で慎重な検討が必要になるであろう。公益性や非課税措置と規制強化とを直結させたり、課税の公平を強調する余り、いたずらに課税庁の強大な権限強化を導いたりすることは、問題の解決策として、バランスを欠き、性急にすぎる、といわざるをえない。