これからの日本仏教/宗教学者 山折 哲雄(平成6年)

これからの日本仏教

平成6年(会報57)

国際日本文化研究センター 名誉教授(元所長)
国立歴史民俗博物館 名誉教授
宗教学者・評論家
山折 哲雄

 私は最近、日本の仏教はインドのヒンドウー教と似ているところがあると思うようになった。インドの仏教がヒンドウー教の胎内から生まれでたことを思えば、それはそれでかならずしも不思議なことではないのかもしれない。

 その一つに、たとえばガンジス川での火葬風景がある。川岸で薪をつみあげ、遺体をのせて焼く。バラモン僧がきて経文を唱え、遺族は死体が焼けていくのを至近距離でみている。大地に腰を下ろし、肉体がくずれ、骨になっていくのをみつめている。三時間か四時間たって焼け終ると、骨灰をガンジス川に流してしまう。それで終りである。かれらヒンドウー教徒は骨灰が川に流されると、魂が昇天すると信じている。ガンジス川には特別の浄化の力があると思っている。それで、魂が肉体から離れて天に昇ると信じているのである。だから、かれらは墓はつくらない。死者の魂はすでに昇天しているから、地上にその痕跡をのこす必要はない。そう考えているのであろう。

 この方式を、今日のわが国にそのままもってくることはもはやできない。まずわれわれは遺体を焼く場所として火葬場という公共の施設を利用しなければならないことになっているからだ。いまさらインド式の野辺送りを採用することはできない。だがそれにしても、あのガンジスの岸辺で肉親の遺体が焼けていくのをじっとみつめていた遺族たちの姿は忘れることができない。うずくような郷愁をさそうのである。

 どうしてなのだろう。いうまでもないことだが、われわれの先祖たちもかつてはそのようにして死者を葬っていた。そのようにして野や山に葬っていた。その遠い時代の記憶が私の心の底にも流れているのかもしれない。野や山だけではなかったであろう。ヒンドウー教徒のように川や海にむかってそうしていたはずである。

 「万葉集」をみてみよう。そこには死者を悼んでつくられた挽歌がたくさん収められている。それをみると、死者の魂は山に昇っていくという主旨の歌が多い。海や川におもむくというのもあるが、山の方が多い。ところがあとに残された遺体には、ほとんど関心らしい関心を示していない。山に昇った魂はやがて浄められて先祖やカミになると信じられていたからではないだろうか。大切なのは魂であって、遺体の方ではなかった。 そうだとすると、万葉集の時代の日本人とインドのヒンドウー教徒は同じような死生観をもっていたということになるだろう。

 だが、そこに他教が伝えられた。仏教の中で死後の運命を深く反省したのが浄土信仰であった。西方十万億土の彼方に死後の理想的な世界、すなわち浄土があると考えたのである。西の十万億土というのは途方もない彼方ということだろう。距離ではかることなどとてもできそうにない。われわれの想像をこえた、抽象的な世界である。いかにもインド人が考えそうなことだ。十万億土というのは、ほとんど無限という観念に近いといってよい。インド人はこうした無限を考えることに慣れていたから、ゼロ(=空)といった数学的な観念を発見することができたのかもしれない。

 しかし日本人にとって、この十万億土というのは難しすぎた。われわれの先祖たちの理解や想像をこえるようなところがあった。その代りにかれらが考えたのは、浄土は山の中にあるという解釈だった。浄土は、インド人がいうように十万億土の彼方にあるのではない。われわれの家やふるさとを取り巻いている山の中に横たわっていると考えたのである。山中浄土観が成立したのである。それにともなって、死者の魂は山に昇ってホトケになると考えられるようになった。仏教が日本に入ってくる以前は、死者は山に昇ってカミになると信じられていた。そこに浄土信仰が伝えられると、こんどは浄土が山の中にあり、その山中の浄土世界に死者の魂が昇ってホトケになると解釈されるようになったのである。

 つぎに「古事記」や「日本書記」には、「常世国」の話がよくでてくる。むろん 「万葉集」にもあらわれる。常世というのははじめ地下の世界を意味したが、やがて蓬莱信仰や神仙思想の影響をうけて、海上の彼方にある不老不死の国と考えられるようになった。それは浦嶋子や田道間守の物語などで知られている。この常世国に死者の魂がおもむく理想国とされていたが、同時に死を象徴する常闇の囲もしくは黄泉の世界でもあった。海上の彼方は、ちょうどさきにのべた山の中と同じように死者の魂が往来するところだったのである。この常世の信仰は仏教が伝えられると、その浄土思想と結びついて新しい死生観を生みだした。中世になって盛んになるフダラク(補陀落)信仰である。フダラクというのは観音浄土のことで、南海の彼方にあるとイメージされたのである。紀州の那智浜や四国の足摺岬から舟にのり、海上の彼方のフダラク浄土に生まれ変ろうと志す人びとがあらわれたのである。

 このようにみてくると、日本人が山と海にたいして格別の感情を抱いていたということがわかるだろう。いうまでもないことだが、日本列島は七割以上が山や森林に覆われている。その風土的な特徴が信仰や宗教の上に大きな影を落してきたのである。その風土の性格が日本人の死生観や自然観にもすくなからざる爪跡をのこしてきた。日本人の仏教や浄土観に独特の彩りや陰影を刻みつけてきたのである。たとえば親欒の著作をよむと、いたるところに「海」の比喩がでてくる。弥陀の本願海、生死海、愛欲の広海といつた言葉がただちに思い浮かぶ。「教行信証」の冒頭には、阿弥陀如来の誓いは荒れ狂う海(難度海)を渡す大船だ、ということが書かれている。親攣はひょっとすると、海の彼方に浄土をイメージしていたのかもしれないのである。

 それにたいして日蓮の場合はどうであろうか。かれはその著作の中で「霊山浄土」ということをいっている。霊山というのはインドの霊鷺山のことで、釈尊によって法華経が説かれたと伝える霊場である。信徒が死ぬと、その「聖霊」はこの霊山におもむくということを日蓮は手紙でいっている。日蓮自身も死んだあとはこの霊山浄土に往生するといっているのである。だとすると日蓮は山中に浄土をイメージしていたということになるであろう。

 このようにみてくると、日本の仏教が海や山にたいする鋭い感受性によって育くまれてきたということがわかる。日本の仏教はインドや東南アジアの仏教とは異なって独自の風土や自然環境によって自己形成をとげてきたといわなければならない。ヒンドウー教に似ているところはあっても、その内容はかなり違ったものになっているのである。そしてそういうところに、日本仏教の民衆的な基盤が横たわっていたと思う。これからの日本仏教は、そのような伝統的な感性をもっともっと大切にしていかなければならないと思うのである。