陪審裁判実現の動き/弁護士 仲田隆明(平成2年)

陪審裁判実現の動き(平成2年)

平成2年(会報49-1)

弁護士 仲田 隆明

 時々、映画やテレビドラマでアメリカの陪審裁判のシーンを見ることも多い。有名なのは 『十二人の怒れる男』という映画で陪審室で、十二人の陪審員が被告人の有罪か無罪か、どちらの結論にするかの真剣かつ激しい激論の展開を描写したものである。つまり、陪審裁判では有罪・無罪の結論を、市民から選任された陪審員(アメリカでは通常十二名)に委ねる制度である。この陪審裁判が日本で現実に十五年間に渡っておこなわれていたこと、現に陪審法が法律として存在していることは案外知られていない。

 原敬内閣の時、大正デモクラシーを背景として、陪審法が帝国議会で論議されて、一九二三年(大正十二年)に制定され、一九二八年(昭和三年)から一九四三年(昭和十八年)まで実施された。しかし、第二次世界大戦という非常事態の中で、陪審法は「陪審法ノ停止二関スル法律」によって停止させられたため、現在陪審法は休眠中である。そして「停止法」の中には、「陪審法ハ今次ノ戦争終了後再施行スルモノトシ其ノ期日ハ各条ニツキ勅令ヲ持テ之ヲ定ム」と規定されていることを是非覚えていただきたい。戦後四〇年たった今でも、「陪審法」については戦争が終了していないのである。

 陪審というと、日本人の国民性に合わないとか、素人は感情に走りやすいといった根強い反対論が、一般人だけでなく我々法律家の中にも多い。反対論者のいう国民性、感情とは一体何なのであろうか。日本人には何かについて論議したり判断する能力が無いというのであろうか…筆者は当然ながらそうは思わない。アメリカ人に陪審の能力、資質があって、日本人にその能力、資質がないとは到底考えられない。日本人にも資格、能力がある。日本人には昔から官導民卑といって国民を愚民視する傾向が強い。これを維持せんとする勢力は誰か。彼等が国民を愚民とみなして、日本人の国民性や感情的な点からして、日本人には陪審制は不向きであり、職業裁判官による裁判が信用でさるとする素地を形成しているのである。

 しかし、裁判官も日本人である。人間誰もが感情的であるが、筆者の経験からすると、極めて感情的な裁判官も明らかに存在する。また被告人、被疑者に村して予断、偏見を持ちやすい裁判官も多い。例えば最近、死刑判決が確定していた人達が再審裁判で四人も無罪になったが、これらは再審前の裁判を担当した数多くの裁判官が被告人に村して感情的となり、かつ予断、偏見を持っていた典型であろう。それは、現在の裁判官も変わらない。また現在の日本の裁判官は裁判官以外の経験がまったくない者が殆どであって、社会の事情をよく知っているとは到底いえない範疇に属する。さらに、職業裁判官は法律の専門家ではあるが、証拠から有罪、無罪の事実認定についてのプロではない。

 ところで、日本人は民主主義国家として、国民が主権を有する。これに基づき国民は、国会議員を直接選挙で選任するなどの国勢との権利を持つ。ところが司法の世界には国民の声は殆ど届かない。日本の最高裁判所の裁判官の選任は基本的に時の政府がする。それゆえ、例えば最高裁判官をとってみても、国民にとっては彼がどの様な人物であるかが全くわからない仕組になっている。アメリカの連邦最高裁判所の裁判官の選任は、連邦議会で議論の結果行われる。したがってアメリカ国民にとっては裁判官がどのような人物かを把握できるし、大統領の推薦する裁判官候補者が議会によって否定されたことも珍しくない。又、アメリカの州によっては市民の選挙によって裁判官を選任する例も多い。アメリカの司法は極めて民主的なのがおわかりであろう。

 日本の司法に民主主義を生かすため、また現在の裁判官の職権的、権威主義的な弊害を打破するためには陪審制度の導入は必須である。そして、日本人はアメリカ人と同様に陪審員の資格は十分に備えている。まさか、日本人はその国民性から、また感情的であるからといって、国会議員等各議員の選挙権を認めないということにはなるまい。議員選任権も陪審制度も民主主義から築きだされる。

 ただ、ここで指摘しておかなければならないことは、陪審裁判はこれを望まない者には適用されないことであり、この場合は職業裁判官による裁判がなされる。従って陪審裁判を強制するものではない。だが陪審裁判を導入することによって職業裁判官の判例にも好影響を与える。少なくとも無実の者を死刑にするようなケースは減少するであろう。現在の日本の無罪率は0・12%である。この数字は世界的にみたら驚異的に少ない。しかし、この数字は日本の警察、検察が優秀なことを示しているのではない。日本の検察の政治的事件に対する弱さを見れば一目瞭然である。

 筆者は二年前、陪審糾度の調査のため大坂弁護士会の会員十数人とともにアメリカを訪れた。その時、連邦陪審研究所所長マンスターマン氏は 「有罪率が九五%ということであれば陪審は事件を十分に審理していないと私は思います。」と、発言したが、0・12%という無罪率の日本の裁判にこの発言を当てはめるとどうなるであろうか。筆者等がアメリカに行っていた二年前の憲法記念日に我国の最高裁長官は、「日本の裁判にも陪審制度など国民の司法参加について検討していきたい。」との発言をしていたが、これまでの最高裁の姿勢からすると、諸外国の裁判制度との対比の関係上いやいやなされたものではないかと勘繰りたくなる。いずれにしても、日本の現行の裁判制度、披査制度は諸外国との比較でも人権擁護の点から極めて遅れている。陪審裁判を理解し、国民を信じ、陪審制度の実現を計りたいと考えるのである。