公益法人制度改革の問題点 討論の記録/有識者会議(平成17年)

公益法人制度改革の問題点について

座談会
公益法人制度改革の問題点について
-主にNPO法人・宗教法人との関係を中心として-

平成17年8月22日
於:京都全日空ホテル

   

出席者一覧

洗 建駒沢大学教授(宗教学)
田中 治大阪府立大学教授(税法学)
田中 滋 (司会)龍谷大学教授(社会学)
松原 明NPO法人シーズ事務局長
廣橋 隆新宗教新聞編集長
平田 哲アジアボランティアセンター 代表
府上 征三日本キリスト教教団京滋支部
千葉 宣義日本キリスト教教団京滋支部
中村 見自鳥取県中部仏教会 曹洞宗宗議会議員
岡田 弘隆弁護士・真言宗豊山派泉福寺 住職
京都仏教会 常務理事・理事・評議員  

司会・京都仏教会「宗教と政治検討委員会」にご参加頂き有り難うございます。本日は公益制度改革、特に宗教法人やNPO法人との関係を中心に論議を頂ければと存じます。座談会ということでご案内申し上げましたが、本日はまず最初にシーズの松原さんにNPO法人から見た公益法人制度改革の問題点や、現在、この問題で取り組まれている運動についてお話しいただきます。その後、大阪府立大学の田中治教授に同じく公益法人制度改革の宗教法人との関係についてお話いただきます。両先生のお話のあと、龍谷大学の田中滋教授の司会で座談会に移らせて頂きます。 では、シーズ・市民活動を支える制度を作る会事務局長の松原明先生、よろしくお願いいたします。

松原明氏 講演

松原 今日はお招き頂き、ありがとうございます。公益法人制度改革はいよいよ本格的になってきており、この改革の影響を受けるさまざまな団体でも活発に議論が行われています。さきに日本宗教連盟からのお招きでやはり公益法人改革についてお話ししたことがございますが、本日は京都仏教会さんにお呼びいただいて、NPOの立場で宗教界の皆様と話し合う機会をもたせていただくことを非常に光栄に存じております。それでは、手短に公益法人制度改革の概要と問題点についてお話ししたいと思います。お手許にあるかと存じますが、公益法人改革の問題点についてというレジュメ、および、今年六月十七日に政府税制調査会が発表した新しい非営利法人制度の税制に関する考え方のポイントを要約したもの、この二つの資料に沿って、進めさせて頂きます。その前に、自己紹介めいたことを申し上げておきますと、私は「シーズ 市民活動を支える制度を作る会」という団体の事務局長をやっております。シーズは一九九四年に設立された団体です。当時はまだ、NPO法ともいわれている特定非営利活動促進法がなかった時代で、ボランティア団体、市民活動団体はなかなか法人格が取れず、税の優遇制度も受けられませんでした。この状態をなんとか市民活動団体の方から提案して変えていこうということで、市民団体が集まって作られた団体です。設立当時のメンバーには曹洞宗のボランティア組織の方などにも入っていただきまして、ご協力いただきました。その後、国会議員の方と一緒に運動しまして、一九九八年に特定非営利活動促進法(NPO法)という法律を作ってきました。その後も、税制改正として、NPO法人が一定の要件を満たせば税の優遇措置、寄付金控除を認めるという認定NPO法人制度を作るために運動してきました。ちなみに、NPO法制定の過程では、本日ご出席の平田先生にも多大なご協力を頂いております。公益法人制度改革に関しては、二〇〇三年にNPO法を公益法人と一緒になくして課税も強化しようという話が出たのに対し、これは問題である、と反対運動を展開してきました。NPO法人を当面の公益法人改革からは切り離すような結論に導くための努力をして、一応そういう結論になっているという段階です。しかし切り離されたとはいえ、公益法人制度改革の行方次第によっては、NPO法人のあり方自体も大きく影響を受けますし、他の公益に関わる法人も大きく影響を受ける。そこで、現在、公益法人制度改革に関してさまざまな情報を収集し、勉強会をしたり、各地を回って講演会をしたり、政府と折衝をしたりしている。その過程から、今日は皆さんにお話しさせていただくということになります。本題に入りますが、まず、公益法人制度について概略をご説明しておきましょう。ご承知の通り、公益法人とは民法三四条に基づいて設立される社団法人と財団法人の総称です。制度自体は基本的に明治三十一年以来変わっていません。現在、社団法人が約一万三千、財団法人が約一万三千、併せて約二万六千あります。公益法人改革が進んでおりますので、政府は新たな公益法人の設立はなるべく許可しない、むしろ減らしていっている状況で、総数はむしろ二万五千に近づいています。公益、非営利の団体は主務官庁の許可で法人となる、ということが民法三四条のポイントです。この民法三四条が一般法で、そしてNPO法人の制度、宗教法人の制度、学校法人の制度はそれぞれの特別法に基づくという位置づけで、民法三四条が変わると必然的に特別法の影響を受けるという仕組みになっています。従って、このたびの公益法人制度改革は、遅かれ早かれこれらの公益に関する法人全体を巻き込むような動きになってきていくわけです。なお、民法三四条と関係のあるもう一つ大きい法人のグループに医療法人というのがございます。実はいま、厚生労働省で医療法人改革を進めておりまして、この七月にその方向性を示す答申が出ました。公益法人制度改革をにらんで医療法人自体を作り替えるということを今進めております。何を考えているかといえば、医療法人自体も二段階か三段階にしてゆくことがいま検討されているんです。公益法人制度とパラレルな形にしてゆこうということです。厚生労働省の役人と話をしたのですが、将来的には社会福祉法人や学校法人なども、二段階、三段階の構図をもった法人制度にしていくということを考えていくことになるんではないか、と彼らは言っていました。この二段階、三段階ということですが、まず公益法人制度改革の経緯を押さえるのが大事です。公益法人制度改革は一九九〇年代の初頭に議論が起こっております。公益法人、特殊法人の中には、あまりにも目に余るものが多すぎる、補助金を無駄遣いしている。経理が不透明である。官益、行政の利益ばかり追求している、という批判が強くなった。これはなんとかしろという世論が高まった。最初は特殊法人改革と公益法人制度改革がセットで政治の場に出てきて、先に特殊法人をやってから、次に公益法人だという流れで進んできています。特殊法人はどんどん整理されてきて(今も道路公団問題は続いているんですけれど)、いよいよ二〇〇〇年ぐらいから公益法人の番だという話になってきている。それが大きな流れです。行政改革の流れの中にあるということです。公益法人に関して、政府は一貫してこれは行政の一部であるという立場を取っています。行政改革の一環で取り組もうとしています。二〇〇一年以降、政府は行政改革の一環として公益法人制度の抜本的な見直しをスタートしている。ただし、政府は縦割りになっていますから、法人制度の部分と税の制度の部分を別々に議論してきています。これは非常に大きな問題なんですね。法人は法人だけで議論し、税は税だけで議論して、法人制度を議論する方は、税の方に案を投げて、税の方はまた違う案を作って法人の方に投げて、行ったり来たりして進んでいる。そのため、議論が非常に見えにくいということがあります。法人制度の部分は内閣官房の行政改革推進事務局というところがやっています。ここは、他に道路公団の問題と郵政の問題、さらに公務員制度改革もやっていて、どれもあまりうまく行ってない。非常に評判が悪いところなんですね。何をやっても失敗しているということで、公益法人制度改革もあまり先行き明るくないんじゃないかと言われています。税の制度は政府税制調査会のワーキンググループというところがありまして、そこで議論されているいます。二〇〇三年二月に政府税制調査会で、公益法人制度改革、NPO法人制度改革、公益法人とNPO法人と、あと中間法人(同窓会とかサークルみたいな共益団体の法人です)という三つの法人制度を廃止して、全部課税しようという議論になって、大きな話題になりました。これには大反対運動が起こって、結局、一旦差し戻しという形になりました。そして、二〇〇四年十二月、まず法人制度の部分に関して、現行の公益法人制度を廃止し、新しい非営利法人制度に切り替えるということが閣議決定されました。この閣議決定を受けて、今年四月から税制調査会が税の議論をはじめて、「基本的考え方」というものを示したわけです。これが大きな流れです。ですから、去年十二月の閣議決定、これが法人制度の部分、そして今年六月十七日に発表された政府税制調査会の報告。この二つをベースにお話しすることになります。まず法人制度ですが、公益法人というのは約二万六千あって、社団法人と財団法人にわかれます。それ以外に中間法人、よく似ているものにNPO法人があります。一番大きな焦点になったのは公益部分と法人部分とは一体化していることです。何が問題かといえば、公益性を失っても、公益法人は存続する。例えば有名な話ですが、明治時代に公益法人になった団体のなかにゴルフ場があるんです。全国で三十ぐらいゴルフ場が明治時代に許可を受けてゴルフ場になったものですから、ずっと公益法人のままなんですね。今ではゴルフ場に公益性はないから取り消そうと思っても、公益部分と法人部分は一体化していて、取り消すなら法人をつぶすしかない。しかし、それはいかにも問題がある。公益法人という美名に隠れて、公益性のないことをしていても、「公益」だけを取り消せない。ならば、公益部分と法人部分を分けましょう、というのがポイントになっています。政府では一階部分、二階部分という言い方をするんですが、二階建ての構造に変えようというんです。一階部分は非営利法人、つまり公益性のない非営利の法人ですね。「非営利法人」をつくりましょう、と。そして、二階部分に公益性のある非営利法人、まだ仮称ですが「公益非営利法人」、こういうものを作って、一階と二階で行ったり来たりできるようにしましょう、ということです。一、二階の上り下りはどうするか。従来、公益法人になる時は主務官庁の許可が必要でした。しかし、これだと官庁の裁量が入って不透明だと言われているので、審議会方式で、民間の有識者からなる委員会を作って、委員会が判断する。判断機関を設けるわけです。最終的判断は国の場合は大臣ですが、この機関は多分内閣府に置かれるので内閣総理大臣になるという噂です。また、各都道府県内だけで活動するものは、各都道府県に判断機関を置き、最終判断は都道府県知事がやりましょうということで、知事が民間の有識者から成る四十七の判断機関からの意見を受けて判断して、「あなたは一階」「あなたは二階」と分ける。今ある公益法人はこのように一階部分と二階部分に全部分ける。宗教法人は現在対象外ですが、仮にこれを宗教法人に当てはめれば、宗教法人自体は一階部分でしょう。そのなかから二階に上がる、ということになるかと思います。NPO法人は当初、公益法人と一緒にして非営利法人をつくろうという話だったんですが、今はそのまま置いておこうということになっています。非営利法人は準則主義で簡単に作れるようにする。法人格は非営利法人で、そのうち公益性のあるものに関しては、公益という一つの資格を与えて、二階に上がるようにしようという構造です。法人格は同じですが、公益性があると認定を受ける仕組みになっています。非営利法人は種類としては二つ、財団タイプと社団タイプを残す。ただし社団法人タイプは基本基金はゼロでもいきなり作れる、役所の許可はいらない。株式会社と同じように法務局に登記すればOKにする。財団法人は基本基金三百万から作れるようにして、これも届出だけで設立できるようにする。その上で、判断機関によって公益性が認められれば、〝二階〟に上がってもらうようにしましょうということです。ところで、なぜ公益性の有無を判断するかというと、問題は税の優遇制度です。ここからが、政府税調の非営利法人課税ワーキンググループが検討してきたことで、今年6月に「新たな非営利法人に関する課税及び寄付金税制についての基本的考え方」という報告書を発表しています。公益法人改革では今のところ、NPO法人は対象から外れてはいるんですが、実は政府税制調査会の「基本的考え方」はNPO法人も宗教法人も含んだものになっています。それだけではなく、もっと大きな、飛んでもない代物になっていて、とてもびっくりするような内容なんです。ここは後で説明します。その前に少し前提知識として申し上げておきたいのですが、法人は「法人税法上の地位」というのが法人税法で決まっておりまして、五段階のクラス、分類からなっているんです。まず公共法人、二番目が公益法人等、三番目が人格なき社団、四番目が協同組合等、五番目が普通法人つまり会社です。「公益法人等」という「等」の中に公益法人以外の社会福祉法人や学校法人や宗教法人が含まれている。公益法人等の法人税法上の地位は簡単に言いますと、「原則非課税」です。課税はされません。ただし、三十三種の収益事業を行なう場合には課税しますが、これも軽減税率です。金融収益に関する課税はありません。また、見なし寄付金といって収益事業の中から一定比率まで非課税事業に繰り出した場合、それに対して課税ベースを下げる、まあ経費として見なすという優遇制度がある。こういう地位をどう変えようとしているかです。実は今度の改革は、公益法人だけではない非常に大きな問題を含んでおります。政府税制調査会の委員とも少し話しましたが、この狙いは公益法人だけではないんです。いま、商法を改正していますが、そこで新しい会社形態がいくつか出てきます。LLP(有限責任事業組合)など、そういうのも射程に含んでいます。シーズで作成した「基本的考え方」のポイント整理を見て下さい(巻末・「ポイント」参照)。「基本的考え方」で多分一番よく注意して見ておかなくてはいけないのは、「納税義務者」のところだと私は思っております。これは今の法人税の考え方を非常に大きく変えるものになっています。「法人税は、事業の目的や利益分配の有無にかかわらず、収益および費用の私法上の実質的な帰属主体である事業体がその納税義務者とされるものであり、営利法人も非営利法人も同様」とありますね。非営利法人に関する議論でありながら、営利法人についても書いてある。これはどういうことか?現在の法人税制度は戦後できたものですが、その際、有名なシャウプ勧告というものがありました。シャウプという人がアメリカからやってきて、日本のあるべき税制について勧告して帰っていったんです。戦後の法人税制はそれに基づいて作られています。その考え方に基づけば、法人税とは、個人が法人から配当を受ける、その個人所得税の前取りということになる。個人所得税の前取り分、もしくは個人所得税の延長というのが法人税のそもそもの原則です。これは法人擬制説というものです。しかし、それに対して、法人は法人として主体があるから、それに課税していいんだという考え方もあって、これが法人実在説と言われるものなんです。しかし、現在の日本の法人税法は法人擬制説の上に立っている。そうすると、宗教法人とか学校法人、NPO法人、公益法人は非営利で、利益を分配しません。分配される利益がないわけですから、課税する対象もないわけですね、擬制説によれば。だから法人税は基本的にかからない。だけれども、企業と同じように活動する部分においては、それを特別に例外的に収益事業として列挙して課税しましょう、というのが現在の考え方です。それに対して今回のこの「基本的考え方」は、それを抜本的にやり直そうというのが大骨子です。これは多分、戦後の法人法税法上の考え方をがらっと変えるものです。財務省の人に、法人実在説を採るんですかと聞くと、彼らはこう言いました。「われわれは実在説も擬制説も取りません」「では何ですか」とさらに聞くと、「お金が溜まったところに課税するんだ」と言う。お金の溜まりができたら、それに着目して課税する。「納税義務者」についての説明はそういうことを言っているわけです。事業の目的、それが宗教活動であろうと、NPO活動であろうと、公益活動であろうと関係ない。利益分配の有無、これも関係ない。収益および費用、収入があって、経費が出ていって、差し引きして溜まるものがある。それが帰属するところに税金をかけるんですよという考えです。これはいわば「お金実在説」ですね。となると、これは営利法人も非営利法人も同じという考え方です。ここでなぜ営利法人のことを出しているかというと、LLPという新しい企業形態ができている。これは一種の組合形式で、要は個人事業主の集合体が一つの法人を作っていいという話です。そこで儲けた金は全部個人事業主に分ける。これは擬制説で成り立ったような法人形態であって、本来ならLLPにお金は溜まらないはずですね。しかし、そこに溜まることもありうるだろう。今は実際には個人の事業主にしか課税しない形になっているんですが、将来的にもし、そこにお金が溜まってきたら、課税したいという考えが入っているわけです。しかも、この考えをもっと延長してゆくと、実はもっとすごいことになる。人格なき社団、つまり皆さんが法人として登録しなくても、単にサークルとかグループを作って、そこにお金の溜まりがでたら課税対象になる。人格なき社団も基本的には納税義務者ですよと言っているんですね。団体を作って、そこに金が溜められたら、直ちに納税義務者になるという考え方に発展していきます。これはかなりの大きなインパクトをもっている内容だと思います。次に「課税上の取扱い」の個所ですね。社団、財団はどっちでもいい。要は税の地位を三つに分けようということです。まず〝公益非営利法人〟。これは非営利法人を二つに割ろうということですね。さらに公益非営利法人に入らない非営利法人を同窓会などのような共益グループと、その他に分ける。この三つによって税法上の地位を分けようということを政府税調は言っています(ただし、〝公益非営利法人〟とか〝共益非営利法人〟〝その他の非営利法人〟というのは私が勝手に名づけたものです)。公益性を有する非営利法人は、その事業活動の公益性に鑑み基本的にはすべての収益を非課税にする。ただし営利法人と競合関係にある収益事業のみに課税する--これは現在と基本的に考え方は同じですね。〝二階〟に上がれば、今と同じですよ、しかし、二階に上がれなかったらダメですよ、ということです。共益非営利法人--同窓会などが該当しますが、これは専ら会員のための共益的事業活動を行う非営利法人です。「専ら」というから八割以上会員のために活動している、こういうところに関しては、会員からの会費は非課税にする。会員からの会費を原資として、それが会員向けの共益的活動に専ら使用され、会員がその潜在的受益者になることが想定される法人だから、というわけです。でも、例えば同窓会会館、あれは今は原則非課税になってますけれども、他から寄付を受けたりすれば課税になる可能性がある。助成金なども課税になるだろう。ですから、共益非営利法人も課税強化される可能性がある。〝その他の非営利法人〟になると、すぐに設立できるが、営利法人と同様の課税で、会費も寄付金も助成金も補助金もすべての事業に対して法人税をかけます、という。まあ、こういう流れになっています。次の「特別法に基づく非営利法人等」という見出しのところがありますが、これは宗教法人やNPO法人が関係してきます。この課税については「当面、現行の扱いをする」。あ、よかったと思うんですが、「ただし、公益法人等に共通する課税の見直しとは整合性を図る」とも書いてあります。この「ただし」が問題ですね。これは、「公益法人等に共通する課税上の諸論点」という見出しの部分を見て下さい。収益事業の範囲について、「公益法人等の課税とされるべき収益事業(33種)の範囲を拡大する」とあります。どれぐらい拡大するかわかりません。四十とか四十五とか、もっと少なく三十五かもしれませんが、拡大する。これが第一ですね。それから原則課税の範疇であっても、一部非課税されているものがある。つまり三十三の事業に入っていても、非課税としていくつか列挙されているのがあるんですが、それに対しても見直す。収益事業の税率も現行制度では軽減税率(22%)になってますが、できる限り営利法人並みつまり30%に近づけるか、もしくは同等の税率にすることを目ざすとなっています。営利法人の税率も中小企業と大企業とは違って、大企業は30%ですが、中小企業は所得八百万円までは22%で、八百万を超えた分に関しては30%三〇パーになるので、多分それに合わせるのではないか、その可能性が高い、といわれています。というのが、いま一番強いと言われています。みなし寄付金と金融追加税については、議論をちょっと先送りにしましょうという流れになっていますが、いずれにしろ、「公益法人等」の地位に関しては、そのままにしておくが、課税の範囲を広め、課税率も高くしようという方針がいま出ているんです。次の「寄付金税制のあり方」ですが、〝二階〟に上がった公益非営利法人に関しては、そこに寄付をしたときの税制優遇を付け加えましょうというわけです。〝二階〟に上がれば大変優遇される。しかし、上がってしまえば大丈夫かというと、実は判断機関が定期的に判断をしようということになっています。この〝二階〟は一種の資格で、一回取ったら終わりではないのですね。大体、三年から四年ぐらいで見直しをしていこうということを言っています。要するに、今回の公益法人制度改革は、税の観点から見ると、クラスをいくつかに割ろうという話なんですね。一番上に寄付金税制でも優遇される非課税の法人があって、下に原則課税、普通法人並みの法人がある。ところで、〝公益非営利法人〟は三年か四年かに一回審査して、公益性を失ったと判断されれば、〝一階〟へ落ちてもらおう、ということですね。これはわりと中抜きになってしまう。他人のために尽くしているとこちらが考えていても、役所から見て公益性がないと判断されれば、落ちる先は共益非営利法人ではありませんね。営利法人と同等の課税をする〝その他の非営利法人〟にドスンと落ちてしまう。これは結構厳しいことになるわけです。それから人格なき社団も下手をすると、この辺に位置づけられるのではないか。NPO法人や宗教法人も、公益法人改革の非営利法人ではありませんが、将来どうなるかわからない。少なくとも現在の位置にいても、営利事業課税は強化します。こういう流れなんですね。なおかつ、団体にはすべて課税していこうという話がなされていて、将来的な大増税の布石ではないか、と私は思っているということです。ちょっと長くなりましたが、以上で問題点について簡単に説明しました。

司会・松原先生、ありがとうございました。それでは引き続きまして大阪府立大学、税法学がご専門の田中治教授からお話をおうかがいしたいと思います。

田中治教授 講演

いま松原さんがかなり詳しくお話しされたので、私は京都仏教会会報『京佛』夏季号に書いたものを参考にしていただきながら、三つの点に関して話をさせて頂きたい、と思います。三点と申しますのは--まず、現行の公益法人と特別法によって設立された学校法人や宗教法人、それらすべてを含めた形で、「公益法人」という言葉で説明致しますが、その公益法人が本来の活動をして、何らかの事情で剰余金が生じた場合に、なぜそれが非課税になっているのか、つまりなぜ剰余金に対しては原則非課税なのかということについてお話をいたします。二つ目は、本来の活動に対する原則非課税を改めて、原則課税とした上で、公益性のある活動をしている場合には課税を免除する、いわゆる免税制度を導入しよう検討されていることの問題点--つまり非課税制度と免税制度はどう違うのか、についてお話ししたい。第三に、今回の改革の論理は、私は三つのキーワードで説明が可能ではないかと思っております。つまり、一つは公益性の有無。二つ目はそれに対する税金の免除。三つ目はいわばその見返りのように、その団体に対する統制や情報公開要求を強めていく。「公益性」「免税」そして「統制強化」の三つですね。これらは本来、それぞれ結びつかない。それを強引に結びつけていると私は理解している。なぜそのように考えるのかを話します。以上大きく三点について順次お話をさせていただきたいと思います。最初に、公益法人の本来的な事業は、法人税という税金の課税の論理から見て、私は当然に非課税だと考えております。松原さんからもご説明がありましたように、もともと法人とは(ごく基本的な話になりますが)要するに取引の上でちゃんと契約の当事者になることができるよう、いわば形の上で契約の権利義務をちゃんと履行できるように、いわば法律の上で「人」として扱うということであって、それ以上のものではないはずです。そこが議論の基礎になります。さて、この法人を考えるに当たって、まず念頭に置いて頂きたいのは、株式会社です。株式会社というのは要するにお金を持っている人が、自分の利益のために出資する。そして、会社に儲けをあげてもらって、その利益の配当を受けるというシステムです。その論理では、法人税なんていうのは存在しようがないんです。なぜかといえば、例えば、仮に株主二人でつくられている会社で儲けが一千万あったとする。それを株主二人で山分けする、五百万ずつ山分けする。税金をとるという問題なら、それは個人に五百万ずつ山分けされた段階で課税すればいいだけの話です。その論理からすれば、法人税などは必要がない。にもかかわらずなぜ法人税という税金があるかというと、世の中は株主が沢山いますし、すべての株主が善良で、忠実に税金を計算して、自分は配当をいくらもらいましたと、すべてきちっと申告するとは限らない。だからいまの税制では、取り合えず税金の取りはぐれのないように、例えば三〇%なら三〇%、つまり原則として法人の大中小を問わず一定程度のものを前取りしておく--そういうのがもともと法人税の存在理由です。突き詰めると、本来課税の対象になるのは個人で、個人が自分の私的な使い道、例えばそれでおいしいものを食べるとか、きれいな服を着るとかに使う、そういうところに税金の支払い能力があると考えて、そこから税金をもらうというのがもともとの発想です。しかし、公益法人やNPO法人にしても、宗教法人にしても、その活動は本来、収益を上げることを目的とはしておりませんし、仮になんらかの剰余金があったとしても、個人に分配することはおよそありません。分配がないということは、個人の段階に分配されて課税の対象となるものもない。だから、課税したくてもできないという、ただそれだけの話です。本来の公益法人が行う活動に対して課税がないというのは特権でも、優遇でもない、課税したくてもできないという、課税の論理から極めて当たり前の話です。先ほどもご指摘のあったように、今の日本の税制の組み立てはそのようになっています。ところがおもしろいのは、世界の中にはこのような税制の組み立てを取っていない国もあります。それがアメリカです。アメリカは法人実在説を採っていて、法人があたかも生身の人間と同様に法人自身が経済力をもち、そして活動するというふうに考えます。法人に対しても累進税率を適用し、より大きな利益を得た法人は個人と同様に、より大きな負担を求める。個人と法人とを原則として区別しない。今回の議論も、実はこのアメリカ的制度を導入しようという狙いだと考えられるのです。アメリカはいま言いましたように、個人も法人も当然に納税する義務があるという前提で税制を構築しています。その上、アメリカは非常にインセンティブを重んじる国でして、公益を行う団体に対して免税することにしています。これは税制上の特典です。公益の活動をする限りにおいて税金を免じるのであって、例えば宗教法人が政治活動に手を染めるということになったら、免税措置を取り消します、普通の通りに税金を払ってくださいということになります。それは別に制裁でもなんでもなく、法人課税の本来の姿に帰ったというだけの話です。しかし、いま申し上げた通り、アメリカの税制の組み立てとこれまでの日本の組み立ては全く違う。実は日本の戦後の税制はアメリカの影響を大きく受けたのですが、基本的にヨーロッパタイプです。戦後、税制改革を指導したシャウプという学者は、理想の税制を作りたいということで、論理をきちんと組み立てた。そして、法人税は個人所得税の前取りになるような税制をきちんと作り、それはいまも生きています。公益法人に対して課税がないのは、要するに当該公益法人が利益を上げる活動を目的とせず、それを分配もしていないところから、本来分配された段階での課税の前取りとして取るべき税金が全くないという、ただそれだけの話です。だから、公益法人の非課税は「特典」だとか「優遇」には決してならないということ、これが先ず一つです。ところが、現在進行している議論は、この基本を根底から覆そうとしている。それがまず大きな問題です。いまご紹介いただきましように、政府税調の議論というのは一体何を言っているのかよくわからないんですが、恐らく本音を簡単に言うとアメリカと同じように課税したい、個人も法人も剰余金が出れば原則課税にしたい、ということでしょう。ただ、その本音を正面から言っているかといえば、言っていないので、よく分からない議論になるわけです。平成十七年六月の政府税制調査会のワーキンググループ報告書の二ページ目の下から六行目を見て下さい。「そもそも法人税は」とあるでしょう。ここで一体何を言っているのか非常に分かりにくいんですが、「そもそも法人税は事業の目的や利益分配の有無にかかわらず、収益および費用の私法上の実質的な帰属主体である事業体がその納税義務者とされるものであり、この点は営利法人も非営利法人も同様である。こうした考え方の下に云々」と論じていますね。しかし、本当に法人税はそういうものなのかどうか、実は非常に問題があります。一体どこの国の話をしているのか、と反問したいところです。アメリカなら確かにそうです。アメリカにおける法人税はまさにそういう考えです。しかし、日本の税制は本来全く違う組み立て方になっている。〝日本の法人税の原理を根底から覆す〟といういちばん肝心なことをはっきり言わないで、論を立てているわけです。収益と費用があり剰余金が生まれれば、納税義務者として登場するのは当たり前でしょうという議論は一見、原理的には当たり前のことを言っているように聞こえる。しかし、なぜ法人税を取るのかという当然クリアすべき議論がすっとばした官僚の作文に過ぎません。これの原形となる閣議決定にはこういうふうに書いていました。「法人は、普遍的な国民の納税義務の下で、一般的に納税義務が課せられており」私はこれを見て、驚愕したわけです。重ねて言いますが、日本の法人税とは、法人が儲けをあげて、配当として株主に配る、そこで課せられる個人所得税の前取りとして便宜的に作った技術的な制度です。にもかかわらず、閣議決定の文言の中にこんなことを麗々と書いている。これはおかしいということを、私はあちこちに書いたリ、言ったりしています。つまり法人税の原則をそもそも理解していないし、法人税の原則を覆すなら覆すということを、まず正面から問うべきだというのが、まず基本的なところにあるかと思います。それがまず一番目です。第二の非課税と免税の違いですが、先ほど言ったように要するに「免税」というのはあくまでも特典です。特典だとすれば、さらにいくつかの問題が生じてまいります。一つはその特典を与えるものをセレクトするわけです。誰がどういう基準で選定するのか、それが非常に問題になってきます。公益性があるものを選定するというなら、では「公益性」とはなにかという問題になります。しかし、私は恐らく「公益性」判断の決め手はないと思います。私はよく言うんですが、じゃあ、株式会社の活動に公益性はないのか? 私はあると思います。いい商品を造り、いいサービスを行ない、それで世の中の人々の生活が向上するというのは、非常に結構なことです。それに公益性はあるんじゃないでしょうか。ということは、公益性があるか無いかは課税の決め手にはならない。つまり、公益性がないから課税をするというようなことでは決してない。税金の支払い能力がそこにあるかどうかであって、その支払い能力というのは結局個人の段階の問題で、最終的に個人がそれを自由に使えるところまで下りてきたお金に対し課税するんだというのが、もともとの発想です。確かに公益性があるから課税しないというのは一つの理屈として、あるいは公益的な活動をしている人に対する励まし、精神的な支援ではありうると思うんです。しかし、それは課税の論理から言うと、全く違います。公益性の有無で課税の論理は全く左右されません。公益性判断に関しては、効果が広く及ぶかどうか、というようなことが基準になるように政府側は論じています。とはいえ、それだけではうまくないと考えたのでしょう。例えば、難病研究などのように、効果が難病患者というごく限られた数にしか及ばない場合も、これは公益性があると考える、と言っている。しかし、そういうふうに列挙していっても、公益性の有無の判定は非常に困難で、現実に戦後すぐ、昭和二十五年のシャウプ税制改革のときに挫折しています。シャウプ税制以前は公益法人に対する課税は一切ありませんでした。先に申し上げたように、利益の分配がないからという理由です。しかし、新しい税制をスタートさせる時に、シヤウプはアメリカと同じように、公共性の有無を個別審査をして免税資格を与えようということを提案したんです。ところが、議論して検討した結果、それは無理だということになった。つまり公共性の強弱を判定することは事実上不可能に近いとして、止むえず収益事業から生ずるものについてだけ課税することになったわけです。政府がいま言っているようなことを、昭和二十五年の段階でやろうとしたけれども、およそ不可能に近いというので、断念したんです。昭和二十五年時点では断念したが、それから五十五年経った段階では技術的に可能になったのかというと、私はそんなことはないだろうと思います。公益性の判断というのは非常に難しい。そういう意味で「免税」という形で、公共性の観点から特典を与えるのは非常な問題がある。それに関連して、宗教法人に関して免税の問題点をもう一つ指摘するなら、宗教法人に免税制度で特典を与えること自体、私は憲法違反になると思うんです。憲法はご承知の通り、いかなる宗教団体も国から特権を受けてはならない、としています。ということは、憲法に抵触しないようにすると、宗教法人だけは免税対象外、つまり当然、課税しなければならない、ということにもなりかねない。これはどう考えたって変な話で、法のもとでの平等という観点でもおかしい。しかし、宗教に対する国家の関与の禁止という憲法の原則はやはり重い。特に宗教法人まで意識した場合、免税制度導入は宗教の存在そのものが問われてくるというか、国家との関係で深刻な問題が生じてくる気がします。非課税でも免税でも、結果として税金が安くなる、かからないとという点では同じなんですが、それを裏付ける論理が全く違う。法人課税の原理から当然の非課税なのか、国家から公益性を認められた特権なのか、全く意味が違うのです。最後に、三つ目の点ですが、私はいまの公益法人改革について〝三点セット〟ということを指摘しています。政府はまず、①〝一階〟にはできるだけ沢山、非営利の団体を入れて、自由に活動できるようにしよう、と言っている。そして、②〝二階〟に上げるかどうかは、公益性の有無で判断する、いわばお利口さんについては免税してあげましょう、という。ただし、③そうかといって、常にお利口さんであるという保証はないから、外部から監査をしましょう、情報も外部に対してオープンにしてもらいましょう、というわけです。統制強化ですね。この三つがいわば〝三点セット〟になって、議論が組み立てられている。私はこの三つは論理としては繋がらないと思うんです。例えば一番分かりやすい例を出しますと、企業はたくさん租税特別措置を享受しております。じゃあ、あなたの会社は税金の上で利益を受けているから、あなたの会社の情報を株主のみならず、すべての国民にオープンにせよということが言えるかどうかというと、言えません。しかし、いまの公益法人改革の論理では、あなたは公益性のあるものとして、税金の上で特典を受けているんだから、法人の情報はすべて外部に開示しなさい、あるいは外部からの外部監査をもっと入れるようにしなさい、ということです。私は、国家の考える公共性という形で、一種の国家統制が進んでいくだろうと思っています。公益法人制度改革の理念として「民間の担う公共」なんて言っているのが、本当にそうなのか--それこそが、問うべき事柄じゃないでしょうか。もっと大きな視点でいいますと、いま進められているのは単なる税制の問題を超えたことです。あるいは、税制のみに関して言いますと、一九八〇年代ぐらいから滔々と続いている新自由主義、新保守主義の流れの中の新しい動きです。日本では消費税が導入され、いままでの所得税を中心とした総合累進課税が崩されていく。アメリカでいえば、レーガン大統領の時のいわゆる比例税率、つまり金持ちも貧乏人も、例えば一割なら一割税金を払ったらいいじゃないか、という考え方です。従来の税制はこれから積極的に事業を進めていこうとするものに対して一種の制約になり、その足を引っ張ってきた。これからはもっともっと民間に委ねてやっていこうじゃないかという、そういう一つの大きな考え方が制度として今具体化されつつある。そういうような流れの中で、公益法人制度改革も進んでいる。一方で、日本はいま非常に大きな公債を抱えて、非常に税収不足になってきている。もう、税金の論理なんていうのは後から学者が勝手に考えろ、とでも言わんばかりです。先ほどご指摘があったように、一定の経済力が溜まっていれば、できるだけ早い段階で確実に税金として掴まえようというような方向に進みつつあるような気がします。私はもっと大きな歴史の観点で、例えばNPOだとかNGOだとか、そういう形で民間が自発的・積極的に社会に関わるというのは、非常に評価すべきだと考えます。しかし、同時にいまの方向は、かつて〝公〟が担ってきたものを、よく言えば民間の積極性に委ねる、悪く言うと、いままで〝公〟が担ってきたものを責任放棄する、その両面がやはりあると思うんです。そういうような流れを見極めた上で、「民間の担う公共と」いうのは一体なんなのかということも含めて、今の税制改革等を含めた公益法人制度改革を議論すべきでしょう。最後にまとめますと、現在の公益法人の本来の活動に対する原則非課税は決して特典でも優遇措置でもなく、いまの課税の論理からくる当然の帰結なんだというのが、まず大前提です。第二は非課税と免税は全く意味が違うことはしっかり認識する必要があるという点です。第三は、いわゆる〝三点セット〟については、かなり注意して考えるべきだということです。国家が考える〝公共性〟というものを場合によっては押しつけられる危険性を一面ではもっている、そのような気がします。以上です。

自由討議

司会・どうもありがとうございました。それでは司会を龍谷大学の田中滋教授の方にバトンタッチいたしまして、これより自由にご討議をして頂きたいと思います。

田中滋・龍谷大学の田中です。この分野に関しては専門というわけではありませんが、私の理解した範囲で、あるいは皆さんの新たな発見も含めながら議論を進めていきたいと思います。非常に難しい議論が続いたので、新宗連の廣橋さんに最近の政府の動きを含めて、ちょっと肩をほぐすようなお話しをしていただけたらと思います。

廣橋・廣橋でございます。肩の力を抜く議論といってもちょっと困るのですが二、三の問題についてお話ししたいと思います。一つは、公益法人制度改革も小泉流の郵政改革、郵政民営化という問題と連動して考えなくてはいけないということですね。小泉さんがやっている改革は結局は官僚主導だ、ということを先ず考えたほうがいい。〝小泉流〟と言われているけれども、お役人が積み上げてきたものを小泉さんがそれに乗っかって〝小泉流〟を演出している、というふうに見た方が間違いがないんじゃないかという気がします。実は小さな政府とか、そういうものに向かっているわけじゃなく、公益ではなくて、官益の拡大を考えていく形での行政改革じゃないのか。例えば、国立大学が特殊法人化、いわゆる独立行政法人化されましたが、これが文部科学省の見えない省益になっていっている。また、私の知人で民間人として、青年の家の所長を請け負っている人があるんですが、政府機関の時と変わりがない、いやそれ以上に巧みに、政府のコントロールが入ってくるし、強い管理下に置かれていくのを感じると言っています。そういう状況があるということが一つ考えさせる。公益法人制度改革でも、松原さんのお話の中にあった、行革事務局と税調とのキャッチボールの中で、どんどんお役人の仕事を増やしていく、あるいは権限を殖やしていく。有識者懇談会では、非営利法人の制度は二階建だったんですが、税調は実は三階建にしちゃってるんです。チェックの入れる構造が一つだったのを、二つ作ろうとしているということであろう、と言われています。それは税調が制度論にまで立ち入ることで、果たして税制調査会がそこまでやっていいのかという疑問をまず私はもちました。税制を検討するという口実のもとに、法人制度まで手をつけようとするというところになっている。税制調査会の非営利法人ワーキンググループの「基本的考え方(案)」と「基本的考え方(概要)」というものをコピーしてお配りしました。右の上の方に記事解禁・六月十七日金曜日・税制調査会終了後とありますが、これはプレスリリースです。大体、新聞記者というのは役人が要点をまとめた概要の方を見て書いてしまうんです。もう一つ、資料としてお配りした朝日新聞の記事があります。これは税調の前日の新聞で、スクープなんですね。解禁破りかというと、そうではなく、特ダネなんです。これはプレスリリースが配られる前にどなたからか取材して、あるいはリークを受けて書いた。意図的にリークをして、反応を読むということもあるんですが、ここでは「寄付金控除拡大」というのがでっかい見出しになっています。「法人課税強化」も袖見出しになっていて、公益法人三分類と、これは非常に正確な記事を特ダネとして出している。しかし、一番でっかい見出しの「寄付金控除拡大」は本当に〝拡大〟になっているのかということを考えると、まあ実際はそうでもなさそうです。プレスリリースを見ると、課税のあり方はこれまでと変わりませんよ、ということしか言っていない。ただ、寄付金控除がちょっと拡大しますよ、みたいなことが書いてある。これで各新聞は記事を書いてしまう。翌日の新聞も大体、各紙はそういうふうな内容で、社会福祉法人、学校法人、宗教法人は見送りと書いている。見送りというか、関係ないと言っているんですが、実は「基本的考え方(案)」をみると、これでもう馬脚が現れている。五ページの「特別法に基づく非営利法人等との関係」に、「『特別法に基づく公益法人等』(学校法人、社会福祉法人、宗教法人、NPO法人等)」は、「当面、現行と同様の取扱いとすることが考えられる。ただし、後述のように公益法人等に共通する課税上の諸論点について、見直しを行う場合には、制度の整合性に配慮を考慮した検討を行うべきである」と書かれている。非常に控えめながら、もう議論のテーブルへ乗っけましょうということをここで宣言しているんです。注意しなければいけないのは、プレス向け要約だけで書かれた新聞記事を見ていると、この点はあまり意味はないのかと感じてしまうのですが、実はコソっとこういうところへ大きな問題を滑り込ませて、テーブルに乗っけろといっている。ここに注目すると、宗教法人はもう課税だという方向に筋道が引かれているのではないだろうかと思うんですね。そう考えると気になったのは、八㌻の「利子配当等の金融資産収益に対する課税」の部分です。これは松原さんも田中先生も触れられなかったので、ちょっと余計な話で大変恐縮なんですが、申し上げておきたいなと思ったのは、金融資産収益に関して、「金銭貸付業から生じた所得と同じであること等から一定の税負担を求めるべきとの考え方がある」と書いてあるんですね。財団法人は資産、財産に対して人格を与えて、その果実によって維持を行っていく。宗教法人については社団か財団かという議論があって、性格的に見た場合に社団ではないだろう、どちらかと言うと財団法人に類する形での社団形式と見ていいのではないかという考え方が存在する。となりますと、ここで財産に人格を与えて、その果実によって法人を運営していくなら貸金業と一緒だ、ということを言い切っているのは、非常に大きな問題じゃないだろうかと思いました。最後に、基本的な問題として、公益性が議論されていますが、公益とは何かということが一切議論されていない。田中先生はシャウプ勧告の時に、公益性の度合いを計ることはできない、とすでに五十数年前に言われている、と指摘されました。そもそも、公益という問題自体が議論されていないままでの制度改革という点に大きな問題があるんじゃないだろうかというのが私の考えです。

田中滋・司会の立場でいくつか論点を整理しておきますと、いま廣橋さんもおっしゃった公益性、これが一体客観的に認知することができるのか。あるいはそれを誰が認識するのかという問題は非常に大きいですね。松原さんのところ(シーズ)のパンフレットを読ませていただくと、決めるのは難しいにしろ、客観的な公益性はありうるのではないかという発想を取っておられるのではないかなという気がしたのですが。それから二点目として、田中治さんが情報開示という名の下での統制という論点を出された。情報開示というのは、私も本当にすごく必要な部分があることは当然認めます。特に官が情報を独占しているということに対して、開示が行われるのべきだというのは当然だと思っているんですけれど、じゃあ、いろんな団体ですね、NPO法人なり公益法人なり、あるいは株式会社なり、宗教法人なりに対して情報開示を一律に求められていいのかどうか? 田中治さんが言われたように議論のあるところではないか。その問題と政教分離の問題も当然関わってくるわけですよね。三点目は、原則課税で、一階から二階に上がれば課税を免除する、その判断をする場合の政教分離の原則の問題です。政教分離の憲法原則に違反する可能性が高いのじゃないかと、田中さんが指摘された。この辺りが非常に重要なポイントではないでしょうか。まず松原さんに、公益性についての考え方をおうかがいしたいと思います。田中さんからシャウプ勧告の時の公益性判断の問題が指摘されましたが、松原さんご自身は公益性というものが何者かによって客観的によって認定できるとお考えになるのかどうか、その辺りを。

松原・公益性に関しての議論は非常に複雑です。そもそもなぜ公益性を議論しなければならないかという話だと思うんですね。いま公益法人制度改革で公益性を議論する理由の一つは、公益性のある団体になんらかの優遇措置を加えようという話からくるんです。そうでなければ別に公益性など認定しなくてもいい。ここが大前提だと考えます。公益といってもさまざまな公益がある。私の考えは公益多元主義なんです。さまざまな公益があるから、定義は難しい。寄付金控除で優遇する法人は公益性があるもの、と定義するのはかまわないけれども、それが唯一の「公益性」ではないだろう。公益性という根拠で寄付金控除の優遇を与えるのはかまわないけれど、それは寄付金優遇を与える根拠となる公益性として、つまり多元的な公益性の一部分として定義するのは可能だろうという程度のものであって、公益性全体を定義できるとは思わない。それが私の基本的考えで、こういうのは公益性がある、と一つずつ列挙はできるけれど、全体として公益性とは何かという定義は無理だと思っています。少しややこしい言い方になりますが、ある優遇措置を与えるために、こういう種類の団体はある公益性をもっているというふうに考えることはできるけれども、一般に公益があるということから、この団体を選んでくることは難しかろうと、そう思っています。寄付金優遇措置の対象団体をどう定義するかという話ならできるんですよ。それが公益性があると考えることもできるんですけれども。公益性があるから寄付金控除で優遇するという話は無理である、と。

司会・それでは皆さん、自由な発言、討議に移りたいと思います。

中村・曹洞宗の中村です。さきほど田中先生は、宗教法人の非課税の根拠は公益性ではない、と指摘されました。松原さんのお話のように、公益性を定義するのは非常に難しいというのも全くその通りだろうと思います。しかし一方で、常識的にいえば、公益性というのは、例えば不特定多数の人の利益に寄与するとか、あるいは情報開示が行われているとか、私物化されてないということが、普通、そういうことが列挙されてくるんだろうと思います。そこで、今回の公益法人改革で公益性ということが声高かに言われ、宗教法人に公益性があるのかという議論が始まってくると、さっき言ったような常識的な公共性の条件をクリアできるのは大教団だけじゃないか、ということを私は非常に危惧しているわけです。田舎の小さな宗教法人は、そういう話になると全滅だと私は考えております。例えば田舎の村で百軒ぐらいの檀家のお寺が檀家を集めて、本堂でいろいろな催しやる。うちの村の人はみんなきてくれたが、檀家でない隣の村は誰も来てない。これは果たして公益性があるのか、と、例えばそういう議論も出てきます。宗教法人に関していえば、責任役員をできるだけ多くしろという議論もあるんですね、私物化させないために。ところが、小さな寺に十人も二十人も責任役員をずらずら並べるなんて非常に難しい。それともう一つ問題として考えているのは、いまお寺の奥さんの処遇の問題は各教団、各宗派とも抱えているわけですが、例えば奥さんが責任役員に入るというのは私物化に繋がるのではないか--そんなことも考えなくてはならない。ですからこの議論を始めると、実は大教団の視点と弱小な地方寺院の問題は全く違うものがある。それが果たしてこういう政府の方の考え方の中で出てくるのかな、という危惧を実はもっているということだけ申し上げたいと思います。

司会・いま中村さんがおっしゃられたのは松原さんのいう「公益の多元主義」とも結びついてくる見解とも思われます。一口に公益性といっても、団体の規模を考えるだけでもいろいろな形がある。はいどうぞ。

平田・今日は宗教法人の話ですが、宗教の本質から言えば、国家があって宗教があるわけではないんですよね。それから、いま論じられているのは官と民の問題ですよこれは、基本的にはね。国家があるよりもまず市民があって、国民がおって国家というものは成り立つという、これが基本です。宗教も、まず私個人が信じるか信じないかというところから出発しているんです。それがたまたま宗教集団として法人をもつようになった。それを国家が認めるか認めないか、そんなことはどうでもいいんですよ。国家によって我々が存在するのじゃない。これが宗教の本質なんですよ。そこからスタートしたら、これはそんなに問題にならないんです。本来的活動は当然、非営利です。宗教は営利目的の団体ではないということははっきりしている。そこで一応分けてみればいい。もし宗教集団が収益事業をやるなら、これは税金を当然払ったらいいんです。私は今日はNPO法人、そしてNGOと宗教という関係で、あとでちょっと発言させていただきます。いまは、もうちょっと基本のところから見直してみたらどうだろうかという意見です。

司会・その辺りについて、洗先生のご意見は。

洗・そうですね、両先生の話でほとんど尽きるんですけれが、従来通り非営利だから非課税だという、その線がずっと貫かれるんだったら、本当にいまおっしゃった通り、何の問題もないんですよ。ところが非営利団体であろうがなかろうが、とにかく原則は課税であるという、そういう線を出して、公益性のあるものだけを特典として免税にする、そして公益性については、まあどこかのところが判断をしようという。こういう考え方がこの公益法人制度改革で持ち込まれたわけですよね。当面、宗教法人は対象にしないと言っていますけど、これは親亀と子亀の例えがありましたが、宗教法人法の母体の三十四条が改正されて、やがて全体の整合性を求めていくという形になりますから、いずれこれは宗教法人にも及んでくることになる。そうすると、公益性判断というのを宗教法人に対してもどこかがやるという問題が出てくるわけです。「宗教の公益性というのは何だ」というのは非常に馬鹿げた議論ですね。そんなことについて判断できるわけはない。宗教というのは世俗社会とは異なった価値を提示するところに特性があるとすれば、世俗社会でごくごく普通に考えられる公益性(「社会貢献性」という言葉が使われたときもあるようですが)のイメージを宗教に適用することは、そもそも無茶なことなんですね。また、「免税」とは特権を与えることであると田中先生はおっしゃいました。これは憲法に抵触するわけですね、宗教に関しては。憲法二十条にいかなる宗教団体も国から特権を受けてはならないと規定されていて、免税は特権であるから、宗教団体は公益性の有無にかかわらず、全部課税対象にするという考え方もでてくることになるのかもしれません。しかし、世界的に見ても宗教課税している国なんてまず考えられないので、恐らく現実にはそうはならないんだろうと思います。そうではなくて、宗教団体についても「公益性があるかないか」「宗教団体は公益的でなければならない」というような議論がどんどん出てくる。そういう危険性をはらんでいる制度改革だと思います。行政が宗教団体に対して公益性を求める指導や監督をどんどん拡大して、国家や官庁が宗教に対して介入してくる口実になっていく危険性を強く感じます。かって日本は、宗教団体を国家の監督の下におく制度でありました。その際、国家が宗教団体に介入する根拠は「国体」の概念だったですね。国体に外れていないかどうかということでした。当時の日本では国体に反するなどというのはとんでもない悪であるということで、一般国民も広くこれを受け入れたんでしょうけれど。いまの日本では、宗教団体であろうと何であろうと、社会の中で活動するからには社会に貢献する「公益」的なものでなければならない、ということを国民は受け入れやすいという意味をもっているんですね。だから、国家権力が「公益性」というキーワードの下に宗教団体に介入してくる、そういう危険性はこれからは非常に高くなってくる。公益法人制度改革がその基になる恐れが強いと私は考えています。そもそも宗教団体の公益性なんてことは、先ほども申し上げました通り、そんなものを誰が一体判断できるのか。むしろ世俗とは違う、従ってその限りでは反社会的ですらあるのが宗教の特性だと言えるとすれば、世俗権力、あるいはその意を受けた委員会というようなものが「公益性」という基準で判断して、宗教に介入してくると、もう信教の自由というようなものはほとんど壊滅状態になってしまう。そういう恐れを私は抱いております。

司会・ありがとうございます。田中治さんは公益性の議論を抜きに、非課税の論理が成り立っているという指摘をされたのですが、松原さんが公益性の多元主義とおっしゃったことに関して、田中さんはどう考えられますか。

田中・私も同感と言いますか、公益性は一義的に定義はできないだろうと思うし、どういう概念をつくるにしても、やはりそれはいま松原さんがおっしゃったように、ある実践的な意図と結びついていると思うんですね。つまり何かをしたいためにまとまった概念なり、一つの基準なりを作るというのは、それはある意味では当然です。しかし、いまの議論では結局、公益性というのは不特定多数の利益に役に立つものだとか、効果の広がりがあるものだといったような、精々それぐらいの指標しか出せない。恐らく、そういう指標で本当にうまく機能する基準を作れるかどうかということになると、現実はやはりなかなか難しいものになると思います。結局、公益性は非常に多種多様で、一定基準では判断ができない、ということにしかならないだろうと思うんです。その点で、ごく一般的に言いますと、例えば先ほどの中村さんが提起された問題などは、宗教団体や宗教活動に公益性があるかないかと言われたら、あると言ったらいいんです。要するに世の中の多数の人のお役に立っていると、それが一人であっても二人であっても。政府の議論などをみると、難病治療の例などを挙げて、効果が当面は少なく、一定の特定の人数にしか及ばない場合でも、これは公益性があるんだと、何かわかったようなわからないような話をしている。そういうことも言わざるをえないような、厄介な問題なんです。やはり公益性だけを取り上げて、公益性があるかどうかということで、あればよくて、なかったら悪いんだというような、一種の現実から遊離したような「公益性」論というのはやらない方がいいのじゃないかというのが私の意見です。もう一点、非課税と公益性が全く結びつかないということで、一つ例を付け加えますと、戦後すぐだと思いますが、田舎の方である宗教活動をしている人がいて、法人ではなく、個人として近辺の人から帰依を受け、供物とかをたくさんもらっていました。これに対して、事業所得を得ているというので課税があった。その人は「これは憲法違反だ」というようなことを言ってたのですが、裁判所は「そうではないんだよ」と否定したわけです。それは 生計のためのいろいろな方法の一つであって、宗教だから特別に重い税金をかけるというのであればともかく、そういうような形で課税をするというのは、宗教に対して狙い打ちにするものではない。だからそこはなんら問題はないんだと。その宗教家が言いたかったのは、自分のやっていることは公益性があるから税金をかけるのはおかしい、ということです。結局、公益性が宗教法人の非課税(免税)の根拠になる、というのと同じ考え方ですね。しかし、税の論理からいうと、公益性のあるなしが決め手では全然ない。税金の支払い能力があるかどうか、というそれだけです。ある意味で、税の世界というのは、一種ドライに割り切っているんです。また、三十三種の営利事業については、同種の事業の公平な取扱いという、ごくごく狭い理由で課税すると言っているだけの話であって、これは公益性の議論とは全く違う領域なんです。いずれにせよ、公益性があるかどうかという一般的議論はあまり有益ではない、むしろ弊害がある。必要以上に分断したり、切り分けるような気がします。

平田・具体的な場面で考えていただくとわかりやすいと思いますが、多くの宗教集団が社会貢献のためには社会福祉法人や学校法人をつくって活動をしている。本質論からいったら、宗教は個人の信仰からはじまります。ただ、信仰に内実があれば、それは証として社会にはっきりと表現される。活動を行うんです。個人がただ信じて、内面的に安らかに満足している信仰もあるでしょう。ところが宗教集団になると、社会にどう貢献していくか、国際的にどう貢献するかという問題がどうしても出てくる。だからそういう意味から見て、公益性というのはあるんですよ、いくらでも。しかも、それは非営利でやっている。だから課税の対象にならない。ところが、社会を害するような宗教が出てきたり、自分の利得を図ってごまかしたり、偽善を通す宗教が出てくるから国家が介入してくる。だから本来の宗教が社会的にどう貢献しているかということを明確にさせながら、公益性をもっと主張せねばいかん。

司会・その点に関しては洗先生は意見が異なるんじゃないでしょうか。

洗・確かにそういう公益的な活動をしている宗教が沢山あることは事実なんですけど、そういうものだけが本当に宗教なんだという考え方は私は取りません。公益性があるから非課税だという考え方を取れば、やはり非課税になるためには宗教は公益的でなくてはならないという思考に繋がってきてしまうので、これは非常に危険な考え方であると私は思っています。公益性のある宗教団体は沢山あることは私もよく承知しておりますし、社会貢献をしている宗教団体が沢山あることも知ってます。それはそれで結構なことだと思っているんですが、全然そうではない、世間の常識から見たら全く公益的でないと思われるような宗教団体もまたあります。だからといって、それは変な宗教団体だから規制せよ、と考えるべきではないと思います。独自の価値観をもつ宗教が、社会の常識ではいかにへんちくりんなものに見えたとしても、そういう価値観をもつこと自体は自由でなければならない。「変だから」といって規制の対象にしたり、課税すべきだと考え、本当の宗教とそうでない宗教の区別を設けたりすることは、まさに信教の自由の理念から遠いものです。〝本当の宗教〟と〝偽物の宗教〟というような分け方は、個人がそういう判断基準をもつのはかまいませんが、国家に関わるところがそういう判断基準をもつと非常に危険なことになる。戦前の国家はまさにそういう判断基準をもっていたがゆえに、国家が公認しない宗教に対しては、「これは宗教に似ているけれど、本当の宗教ではない」として、〝類似宗教〟という扱いをしたわけです。こういう方向につながる考え方ですから、私はそれは絶対にしてはならないものだと思っています。公益性の有無と全く関係なく、まさに非営利性の故に非営利の法人は全部非課税だという考え方で、なんら問題はない。それを根本からひっくり返して、非営利法人であろうが何だろうが、お金がちょっとでも残っていれば、個人に分配しようとしまいと、原則課税にするんだ、という。だから、宗教に対しても課税するかどうかという話になってきてしまうわけです。まさに非営利の故に非課税だという現行の制度の下で、宗教法人は個人への利益分配がないから非課税なんですが、宗教家個人に対しては非課税ではないんですね。法人から給料をもらって生活している宗教家自体は、いかにその活動に公益性があろうと、所得税がちゃんとかかるわけなんですよ。だから公益性の有無にかかわらず、非営利的のものは非課税だという考え方で十分これはいけるはずなんです。それをなぜここでひっくり返そうとするのか。恐らく財源不足に悩んでいる財務省は、とにかく何でもいいから課税したいというところが本音ではないかなと私は思っています。

司会・公益性の議論を抜きにして非営利という観点だけで非課税を理解すべきだ、という立場に対して、松原さんはNPOシーズの活動の中でどういう方針を取ろうとしておられるのですか。公益性の議論に乗っかっていくのか、その議論には乗らないで議論しようとするのか、その辺をちょっとうかがいたい。

松原・洗先生のお話を聞いて、NPOも全く同じだなという感想を持ちました。NPOも理解されない活動は多いわけですね。私の知り合いで、古くからリサイクル活動をやっている人がいるんですが、一九七〇年代にリサイクル活動をやっていたら非国民と言われたというんです。大量生産、大量消費が美徳の時代、リサイクルとは何事だと攻撃された。一昔前にドメスティク・バイオレンスの話をしたら、家庭内の問題になぜ社会が干渉しなければいけないんだと逆に批判されたでしょう。みんなそんな活動をやってきたのがNPOの世界です。市民活動をやっていく時にも、公益性の議論というのは非常に危険なんです。将来どう変わってゆくか分からない世の中、いまは評価が定まらないものに対して、国家がこれを枠にはめてしまう。公益性がある、とされたものは活動を促進されますが、ないとされたものは逆に抑制されていく。そういうことは基本的にはない方が市民活動は伸びていくでしょう。税制優遇措置などはそれが必要になった時、ある活動を取りだして、あとから「公益性がそれにある」と理屈を付ければいい。つまり寄付のほしい法人にだけに措置を考える。それなら寄付控除優遇がなくても別に公益性とは関係がないわけです。シーズとしては、基本的には今回の公益法人制度改革の基本的構造において、〝公益性〟というもので括り出すことが問題だと思っています。一階構造自体を原則課税にするということは大きな問題ですから、これを問題にしなければならないと考えています。政府税調の「基本的考え方」をみると、団体が本来的にも納税義務者とされている。これは完全に団体たるものに対する課税の考え方を根本から変えるものです。それもまともに国会等で議論するのではなしに、コソっと変えていくという、これは問題です。そもそも、法人税とは何であって、なぜ法人税をみな支払わねばならないのか、払うとしたらどの団体が払って、どの団体が払わなくてはいけないのか。個人であっても納税義務者というのは法律で別に決まるわけですよね。そのあたりについてまっとうな議論が行われるべきです。しかし、もっと怖いのは、「収益及び費用」という言葉を使っていることです。収益及び費用とは企業会計の言葉で、企業は営利法人ですから、入ってくるお金は全部収益に入り、かかる経費は全部費用です。一方、非営利法人は企業と違って寄付があります。それから補助金、助成金があります。これは預かって何かの目的のために使うということで付託されたお金です。こういうのも企業会計では収益に入ってきます。収益の範囲は非常に広いんですね。ここで、収益と費用という言葉を全く定義せずに使っていますが、これは非常にリスクが大きい。単に寄付に課税されると言うと、下手をすれば、寄付、お布施をもらって儲けているんだという雰囲気をどんどん助長することに繋がりかねないわけです。こういう意味で「収益及び費用」という言葉を使い、その実質的な帰属主体に課税していくという考え方は非常に危険な考え方です。ここのところも徹底的に議論しなければいけないと思っています。

安井・NPO法人の場合、役員は自分の運営している法人から給料を取るのは普通のことなんですね。

松原・法律では役員のうち三分の一が役員報酬を受けていいということになっていますね。三分の二は無報酬となっています。普通はどうかというと無報酬の役員の方が多いです。

安井・公益法人の公益という言葉は法律用語なんですか。これは法律ではどういうふうに解釈しているんですか。

司会・では京都仏教会の顧問弁護士の樺島さん

樺島・ 民法三四条には公益法人の設立という規定がございます。「祭祀、宗教、慈善、学術、技芸其他公益ニ関スル社団又ハ財団ニシテ営利ヲ目的トセサルモノハ主務官庁ノ許可ヲ得テ之ヲ法人ト為スコトヲ得」と、こういう規定があるわけですね。僕はこの三四条というのは学校法人、社会福祉法人あるいは宗教法人は入らない、いわゆる民法三四条に基づく財団とか社団しか入らないんだと漠然と考えていたんです。しかし、この条文をしげしげと見てますと、祭祀、宗教というのが入っている。それに慈善、学術と技芸ということで、つまり学校法人、社会福祉法人、宗教法人などは本来この規定によるべきものだと、こういうことになるわけです。ただし、それは特別法の学校法人法、社会福祉法人法、宗教法人法でに基づいていて、別枠になっておる。結局抜け殻みたいなもので、この三十四条は現実には社団法人、財団法人のためにのみ機能しているけれども、原点的には学校法人、社会福祉法人、宗教法人すべてを含む規定である。こういうことになるんですね。そうすると、いわゆる三四条に基づく社団、財団、非営利法人として課税の対象とされるなら、原点的に同じ三四条の中に含まれている片割れが〝向こう〟へもっていかれるなら、いずれ、こっちの方へも(原則課税が)来るんじゃないかと、そういうことですね。

岡田・いま先生が言われた通りなんですが、私も弁護士としてちょっと補足させて頂くと、一応、民法三四条では公益の中に宗教が入る、だから宗教は公益であるかどうかを改めて議論する必要はないということは、やはり徹底すべきであると思います。ただいま議論されている公益法人課税の問題を考えるときに、要するに戦争のできる国家体制作りの一環ではないかということを考えます。中央統制を強め、国家を戦前のようなファシズム体制に徐々にもっていく、そういう方向へ向けてこの改革が検討されている。もちろん、国家に一千兆円にのぼるような赤字がたまっているわけですから、担税能力のあるところに負担してもらうという発想はあると思います。ずっとくだけた話をすると、公明党・創価学会を連立与党の中に抱えた自民党政権が宗教法人にまで課税するところまで行くのかということになると、私は多分行かないだろうとは思います。ただ、この公益法人課税がやがて宗教法人にまで適用されますよということをちらつかせるだけで効果がでている、現実問題としては。全日仏は二〇〇〇年の総選挙では自民党が公明党と関わっているということで、候補者推薦をしなかった。しかし、二〇〇三年から推薦の再開に踏み切った。公益法人制度見直しや教育基本法改正における宗教教育の導入促進などを推薦再開の理由に挙げておるわけです。私は宗教教育問題で反対意見を出して、全日仏から首を切られましたけれども、いまや全日仏や日宗連は自民党などと組んでいこうという姿勢を示している。宗教法人に課税されることを避けるためには、そういうところとの太いパイプがなければいけないというわけで、そちらににじり寄っていこうとしている。ちらつかせるだけでもう効果を挙げている。それをもっと進めていくと(税金の免除というところまで進むかどうかわかりませんが)、国策奉仕まで自主的にやりかねない。そういう方向に行くような誘導をしていくという点に、やはりこの問題の基本的なところがあるんじゃないかと、そんなふうに考えております。

司会・ありがとうございます。廣橋さん、いまかなりおどろおどろしい話がでたのですが、その辺りについて。

廣橋・宗教法人法改定の際、宗教界に対して自民党はなんといったか。狙いはオウムということになっているが、本命は創価学会、公明党なんだ、多少のことは他の宗教法人も我慢してくれよ、とそういう話だったんです。こういう説明は仏教会、神社界さらには新宗教の各団体にもあったわけですね。これに対し、それはちょっと筋が違うぞ、創価学会、公明党を撃つならいくらでも協力はするけれども、そのために、すべての宗教に対する規制に繋がることをしてはならない、というのが宗教界のほとんどの声だった。しかし、改定案が短期間のうちに通ってしまって、いまだにしこりが残っている。その後にきたのが自公連立でしょう。ターゲットだったはずの公明党と自民党は組んでいる。そういう状況の中で、はっきり言えば、岡田さんの指摘通りこの改革がかなりの程度まで政治の道具になるものであることは確かです。税収をどう見るかという重要な問題はあるが、小さな政府のかけ声の裏で結局は官益の道具になり、さらにそれが政治の力学の中でかなり利用されるという側面をもっている。あと、よく問題が混乱してくると、反対語は何かとよく考えるんですが、公益の反対は私益ということになるでしょうか。それで、特定の人たちの利益ではないから、非営利ということにして、非営利と公益性を分離して議論を進めていった行政改革の担当者のロジックがあるんじゃないか、と考えています。

松原・申し上げたいことが二点あるんですが、まず、この問題で、政治家と官僚は分けて考えた方がいいと思いますね。財務省としては自公連立の前、すでに一九八〇年代からこのプランをもっていて、団体が非営利だったら原則非課税だというのは気にくわない。これに関してはどう課税していくかというのは長い期間、二十年、三十年スパンで考えていますから、その中でやっています。いま自公連立ですけれども、いずれ公明党が外れる時がくるだろうから、今のうちに除々に手を打っておけばいいだろうぐらいの発想で考えている。公明党・創価学会があるから、そんな過激なことはできないだろうとおっしゃるが、それはない。ただし政治家はまた別で、彼らはやはり自分のその時その時の政治的目的にこういう動きを利用していきたい。だから、官僚の動きと政治の動きは分けて考えた方がいい、これが一つです。もう一つ、公益の反対は私益であるという話が出ましたが、これはちょっと違うと考えた方がいいと思うんです。例えば株式会社にも公益会社というのがあるんですね。ガス会社とか電力会社とか、あれらは公益事業をやっている公益会社として認められているんです。鉄道も昔はそうでした。公益という概念の反対が私益であるとはよく言われるんですが、あのガス会社も電力会社も株主に利益を配当していて、いわば私益会社でもある。それでも公益なんですよ。公益事業をやっている。公益の反対は実はヌエみたいなもので、公益はかなり適当でいいんですね。田中さんが挙げられた難病治療のために研究開発をしている医療会社があります。公益事業をやっている会社なんですよ。以前調べたんですが、まさに公益事業という言葉が使われる。「公益」という言葉はデリケートで注意して使わないと難しいことになってしまう。公益の反対がヌエで、公益自体もヌエなんですよ。そのヌエみたいな言葉をうまく使うことによって、さっき洗先生がおっしゃったように、その時その時に政治が利用していくということがあるので、非常にデリケートに考えた方がいいと私は思っています。

橋口・橋口と申します。新参者ですので浅いところがあるかもしれませんけれども、二つ申し上げたいと思います。一つは民法三四条の許可制に対してです。宗教法人が認証制度を取っているということは、国家と宗教のあり方に対してかなり自制的な関係を設けているといえると思うんです。これが、将来、もし非営利法人の新制度の創設によって、宗教法人も学校法人も社会福祉法人も含めて、一つの非営利法人だという枠組みにされることで、少なくとも認証制であった宗教法人のあり方がずれていくのではないか、という危険は確かにあると思います。現実の政治の問題としてすぐに現実化しないとしても、理論的な反論というのは必要ですね。そこで、もう少しざっくばらんな話なんですけれど、担税力を見ているんだということを教えて頂きましたが、例えば特区の中で株式会社何々大学というのがありますね。あるいは医療法人においても、株式会社化が議論されている。そういう中で、僕は非常に浅はか話でお笑いになるかもしれませんけど、例えばある地方で宗教的文化的な施設があるんだけれど、檀家さんが非常に少なくて、維持経営が難しいところがあるとする。それに対して皆さんが出資をして、株式会社何々寺という形で作って、お布施や寄付などの収入を得て一定の配当を目指しますというようなことがありえないのか、あるいは不可能なのか? それが仮にありうるとすれば当然課税対象になるでしょうが、担税力という点で、利益を残す宗教団体一般に対して将来、課税をしていこうという動きにも繋がる可能性もなくはない、とも思いました。法人擬制説、法人実在説などは受験勉強で覚えましたが、社会的実在としての団体というように言われてしまうと、内閣がそういうことに決めたなら、個人以外の団体に対しても課税するというようなことは、今の政府にあってはありうることかな、とそのあたりの危険性を、皆さんのお話をお聞きして思いました。

平田・松原さんへの質問ですが、NPO法人が出てきた時、やはりこれは市民活動促進という目的が基盤にあったわけですね。平成七年の震災の時、ボランティアが全国から集まった。その善意の灯を消さないようにしよう、市民活動をもっと促進するため、これを法的に認めようじゃないかと、政府にもそういう考えがあった。ところが結果的には特定非営利活動法人というかたちになった。本来、自由と自発性がもっとも高いのは市民活動なんです。本当に自分の内面的な価値で、これをやろう、やらざるを得ない、というところで、この指とまれで集まってくるんです。これが基本なんです。だから国家が認めようが、認めまいが、我々はやるんですよ。これが一つです私は二ヵ月に一度、NGOの代表で外務省へ行って、官僚と議論をしているんです。財務省へも時々行くんですよ。それで、よく言っているんですよ--税金なんて我々市民が払っているんだ。日本人はあまりにもおとなしすぎる。税金を全部、国家のものだと思っとったら大違いなんだ。これ市民のものなんですよ、とね。国家のODAの金を返してくれ。それを我々が向こうへ持っていき活動する、と。それが本当の市民を主体にした公益的な活動なんですね。

中村・私の所属しております曹洞宗では今年に入ってから四、五回、公益法人の制度改革に関する勉強会を開いています。私も含め宗議会議員が六人、それから総長をはじめ内局全員と、それから弁護士の先生が三人、公認会計士の先生がお一人で特別部会を設けてやっているんです。当初、公益性の定義云々ということが議論に上って、非常に難しいという話になった。だから、やはり我々は宗教者として、宗教団体としてきちんと原則論で対応していくべきだという議論が非常に強かったんですが、一度代議士の先生の話を聞いてみようということで、旧大蔵上がりで税制に非常に詳しい先生など代議士二人を招いて議論をやりました。その中で、さっきの廣橋さんの話じゃありませんけれど、政治家としていろいろな思惑があったんだろうと思うんですが、「自分たちは公益性の議論に加わるつもりはない」ということを言われた。「特に宗教の公益性なんてことを言い出すと、とんでもない泥沼に入ってしまう」「とても我々の判断できるような問題ではない」と。ただ問題は、国会議員には官僚の情報しか入ってこないことだというんですね。どうしても官僚の言いなりになってしまう、と。だから、強く官僚と対峙できるだけの理論武装という形で、宗教界側からいろんな情報を、あるいは意見を出してほしいと、こういう話がありました。実は、私もそこの議論の中で「教団は大丈夫だろう」ではだめなんで、もし制度改革で税制の問題がきたときに、教団としてどう対応するかという、その最低の準備はしておかなければいけないと主張したんです。教団としての役割を考えると、もし問題が具体化するようなら、当面、私どもの教団に所属している弱小法人にどういう形でアドバイスすればよいのか。さきほども出た話ですが、役人は何か必ずやろうとするときは、まず最初、大概マスコミに「こんなひどい宗教法人がある」とか、「こんなひどい人がいる」とか、そんな情報をどんどんリークしながら、世論をつくっていく。「やっぱり問題がある」「あそこから税金を取れ」と、こういう世論を形成するだろう。だから、教団としては、少なくとも社会から公益性を失っていると指弾を受けないように、被包括法人も含めて徹底して行くべきだ、と。いまはそういうことを考えているところです。

宮城・公益性の問題がまた提起されましたが、宗教には私的な面があるということは指摘されていますし、そういう部分も含めまして、普遍的公益性というところまで要求されると、非常に難しい問題がある。また、岡田先生の強調された危惧、いまの日本政府がもっている方向性への危惧は私も同じように感じます。宗教法人は全国で約十八万あると言われます。さきほど松原さんから公益法人は約二万五千というお話がありましたけれども、数としては一桁多いわけですね。そこらあたりがターゲットにされることはない、などとは決して保証されないと思うんです。しかもいまの日本政府の方向性を見ると、こういう大きな宗教界をただ放っておくということはないだろうなと思うんですよ。宗教法人に対する原則課税はいずれ現実のものになるんじゃないか。そのためにしっかり勉強しておかねばならないなと思うんですが、一番困るのは先ほどもお話のあった全日仏の問題なんです。全日仏の顧問の法律家が全仏の会報に、今年になってからこういうことを書いているんです。「すべての公益宗教法人を原則課税にすることはできない」と。「しかし例外的には免税制度も探らざるをえない」というふうに言っています。しかし、免税になるにはいくつかの条件を挙げて、その中に公益性と自律性ということを挙げています。先ほども申したように、宗教法人の公益性というのは決して普遍的公益性ではない部分がありますから、この法律家はそういったあたりをどのように考えているのか。しかも全仏自体、自民党とあるいは民主党と朝食会をもつような、そういう団体ですから、どのように政治権力にすり寄っていくかわからないという中で、こういった考え方には非常に危険性を感じるんですよね。宗教法人というもにはお金が集まることがある。寺の場合、ご遠忌などをやるときには、十数年前からその計画にかかって、内部留保があるわけですよ。ところが先ほど、「お金があるところに税金をかけようじゃないか」という話がでましたが、そういうような発想だとすれば、五年十年の構想の宗教活動を阻害する恐れもある。そういった辺りも今後、宗教活動をしていく上で、警戒しておかなければならないんじゃないか。すべて予備的に防衛をする理論を構築しておかなければならないんじゃないか。まあそういったことを今日いろいろなお話を聞きながら感じた次第です。

中村・一つ補足して申し上げておきたいのは、実はさきほども名前がでてきた創価学会など、多くの新宗教に言えることですけれど、法人が一つなんです。私ども既成教団は二重構造になっているんです。包括法人の教団と被包括の個々の寺院で、そのなかには地方の小さな、お檀家が十軒ぐらいとか、お堂だけの青空寺院に近いお寺で法人格をもっているものもある。この二重構造の中で、宗教法人が同じ問題として議論されるということも考えなくてはならない。内部留保とおっしゃったけれど、いわゆる何々宗という教団はそれなりの内部留保があっても、末端ではようやく兼職をしながらその法人を維持しているというような状況を踏まえて議論しなければならないと思います。

樺島・雑駁な話になりますが、スローガンとしては民法三四条を解体するなということになるわけですか?

田中・問題は民法三四条ではない。問題は課税の論理で、課税を通してセレクトする、つまり公益性によってセレクトしながら国家が一定の方向性を統制するという、それが問題だと。

樺島・いま三四条に基づく社団法人、財団法人としてあるものを三四条の形でちゃんと残せということがこの会議のスローガンになるんですか、どうなんですか?

洗・どうでございましょうかね。

樺島・つまりいろいろ議論するのはいいが、政治スローガンにしたいということがあるんです。内閣にもの申したい、と。そのスローガンは私の理解するところではそうなんだけれども、どうですかと言うんです。

洗・現行制度のままでいいじゃないかという、その考え方は勿論……

樺島・NPO法人はNPO法人としてやったらいいけれども、一応、三四条法人は……

洗・これは人によって考え方の違いはあるかもしれませんが、私は非営利法人という形で非営利の団体に自由に法人格が取れるようにする、つまりすべて順則主義で法人格を取れるようにするということ自体には賛成なんです。ただ、そうやったら制度を悪用するやつがでるだろう、という話になる。非課税という特典を利用して、実際は儲けをしようという団体がこの制度を利用するだろうというようなことで、原則課税にしようと考える。私は、このことが間違っていると思うんです。自由に設立させて、原則全部非課税で、私は一向にかまわないと思っているんです。悪いことをする奴は、どんな制度だってそれは必ず出てきます。営利法人についても一定のやり方で脱税を摘発することを税務署は考えていると思うんですが、全部非課税にしておいて、あとは悪いことをする奴をいかに摘発するかという、そこだけ考えればいいんです。非営利法人はもともと利益がないんですから、これは全部非課税で自由に設立していいということで、私は一向に構わないと思っているんですが。

樺島・非営利法人制度は賛成?

洗・私は、ですよ。

樺島・スローガンは出さんと……

司会・樺島さん、ちょっと話がずれてるみたいなんで、その話題はやめていただきたいんですけど。

樺島・こうして議論しているんだから、明確なものを出してほしいんです。

司会・それを考えていきたいとは思っているんですけれども、一スローガンという話になるかどうかわかりません。話を戻しますと、法人擬制説はまあ言ってみれば外堀で、公益制の有無の議論というのは内堀になると考えられます。もし外堀を埋められたら、今度はいろんな団体がうちは公益制がありますよという議論をしなければならなくなる。公益制のアピール合戦になる。当然のことながら、裏で公益制を保証しようとする変な話が出てくる。政治的に公益制を認めてもらおうという裏の政治活動をする団体が出てくる。そうすると、もうこれは完全に内堀も埋めつくされてしまう。公益制のアピール合戦になると、敗北は目に見えている。勝つところはあるかもわからないけど、岡田さんがいうような形のファシズム体制下でこそ元気よく活動するところが勝者になっても困る。これはスローガンになるかどうか分かりませんが、そういう外堀を埋めさせてはいけないと思うんです。

廣橋・いままでの議論で、抜けている点があるんです。公益法人制度改革の問題で、なぜNPO法人と宗教法人あるいは学校法人、社会福祉法人が外されたか。NPO法人はうるさいからだという説、松原さんらが頑張ったからだという説もあるんですが、それは基本的に違う。筋が違うと思うんです。民法三四条による財団法人、社団法人にはいわゆる法人運営の原則がないんです。これは現状では監督官庁の胸先三寸で決められる。いわゆるガバナビリティがない。ところが、NPO法だとか宗教法人法は、それ自体に法人成立の要件があって、統治の仕方も規定されているんですね。だから、道路公団の問題で頑張っているノンフィクションライターが、公益法人制度改革に宗教法人が入ってないのは政治的でおかしい、というようなことを言ってますが、これは原理的に違うと思うんです。そこで、先ず手を付けやすいところを押さえておいて、一挙に話を税制に持って行こうという腹ではないか、という危惧を私はもっているということです。もう少し冷静に公益法人制度改革の問題を、別法法人と三四条法人の問題を整理して見ておく必要があるんではないかなということを、いまの皆さんの議論の中になかったもんですから、申し上げさせていただきます。

橋口・田中治先生の今日のお話を聞いて、非常に論理的でわかりやすくて私も勉強いたしました。一つ教えて頂きたいのですが、法人擬制説をとって実在説を採らない、という学問的な詰めといいいますか、そのあたりはどうなんでしょうか。

田中・そうですね。少なくとも、今の日本の国税としての法人税の理論の組み立ては法人犠牲説なんです。突き詰めていうと、法人とは利益の通り道で、それこそ収益から費用を引いて、一定の法人の所得が仮にあったとしても、それは結局、配当として株主の私的利益に行き着くものだと。ということは、法人とは一種の利益の導管で、実体は何もないというのが従来の税制の組み立てです。それを一番典型的に示すのは、法人が、例えば会社が会社の株をもっているときに、配当をもらうでしょう。その会社がもらった配当について、会計の考えと、法人税の考え方は全く違うんです。会計は当然に収益、例えば十億円配当にもらったら、当然、会計は収益、儲けとして理解する。しかし、法人税の理念的な考え方としては、原則的には十億円儲けがあったとは考えない。課税しないんです。なぜそんなことになるのかというと、法人の間で配当が行ったり来たりする段階で課税すると、配当に何回も課税することになるから、法人の間の移動は無視する。それが法人税の理念だった。ところが話がややこしくなるのは、法人税はいま言ったように、実質的に利益を受け止めるのではなく、単なる利益の通り道に過ぎない、といってしまえばそれで済むのかといえば、必ずしもそうではない。現実においては一種妥協的な性格を持っている。この法人間の株式配当は十数年前まで全て、私が言った通り非課税でした。しかし、昭和六十二、三年頃になって変わってきた。会社は現実に配当を受け取り、その配当を自由に使えるだろう。ということは経済力があるのだから、これに課税しないのは不公平だという声が強まって、その声に押されて配当の二割だけは課税しようということになったんです。最近になって、五割を課税対象とすることになった。では、課税対象でない五割は何か、原則は何なのかということは、実は必ずしもはっきりしていない。もう一つ、税制の理論では、国税の法人税と地方の税金の法人住民税は課税論理の組み立てがちがう。地方段階の税金は、法人は利益の通り道だというような考え、いわゆる法人擬制説の考えをとっていない。むしろそれは実際あるものだと見ている。要するに均等割といって、法人の場合は、例えば数万円から数十万円まで資本金の大きさなどに応じて、その税額を変えます。つまり、法人を個人と全く同じように扱う。国税と地方税の扱いが全く違ってくるわけです。その点を踏まえて、ある学者は公益法人改革に関してこんな風に論じていました--なぜ、法人に原則課税すべきかと言えば、法人に対する課税そのものに、すでに(私が先に述べたような)例外があるじゃないか、すでに今の法人に対する課税そのものが妥協的な性格をもつているじゃないか。その勢いをちょっと一押ししたらいいという話だ、と。私はその議論は論理としてはありうると思います。しかし、それは基本的には「日本の法人税のあり方を根底から変える」という形で正面から問わないといけない。真の論点を隠すべきではない。もう一つ、実はこれが一番大事なんですが、仮に全ての法人が全部税金の支払い能力をもつものとして、課税するということを本当に言うなら、この論理を大企業にも貫くことになると、大きな企業ほど累進税率で沢山法人税を払ってもらわなければならない。しかし、これは政府は口が裂けても言わない。国際競争力を妨げるということで、この十年来、法人税の税率を下げ、とりわけ大企業に対する税負担をずっと下げてきた。十年前までは法人税収が一番多かったが、いまでは法人税を上回って所得税の方が多くなっている。本当に法人が独立した納税の力をもっていると言うのなら、個人でも法人でも、大きな儲けがあれば大きな税負担をするべきだ、ということを、正面から問いかけるべきです。課税の論理とか制度を整合にさせないといけないのに、それは全く言わない。いま言っているのは公益法人だけなんです。政府税調がこういう形で非営利法人原則課税を打ち出すということ、日本の法人税制をどう考えるか、企業に対する税制をどうするというようなことを一言も触れないこと、これは非常にアンフェアーだと思うんですね。そういうアンフェアーなやり方で、一体何をしようとしているのか? 結局は免税を餌にして、あるいは道具にして、公益法人に対する統制を強め、一定の方向性を与えようという狙いがあるのではないか。税収を上げようという発想だけでは必ずしもない。それが今の私の印象です。

松原・今の田中さんの意見には大賛成なんですが、一つ補足させて下さい。シーズで作成した「ポイント」をちょっと見ていただけますか。理屈と現実のうち、私はどっちかというと現実の話を少ししておこうと思います。いま田中さんが言及された地方法人課税にも新しい考え方が打ち出されています。これは三つあるんですが、いままで非営利法人と営利法人は法人課税、地方法人課税の考え方が違い、他の大半は財務省が抱えていますが、地方法人課税は総務省が管轄しています。今回の改革案で出ているのは、法人住民税法人税割と法人事業税所得割、これに関しては法人税、つまり普通法人、企業と同じ扱いとすべきだ、とありますね。これは一般の非営利法人についてです。次に、私どもでいう〝公益非営利法人〟つまり二階部分に関しても(これは公益法人ですから宗教法人も対象になってくる可能性がありますが)、「法人住民税均等割については、『公益性を有する非営利法人』が収益事業を行わない場合は最低税率により、また法人が収益事業を行う場合は法人の規模に応じて課税することとする」とあります。ここで「法人の規模」という言葉が新たに入ってきます。いま総務省が進めているのは法人住民税と法人事業税に対する外形標準課税です。外形標準課税は、要するに所得に比例しないで課税を強化するということで、その大きなポイントは資本金の大きさです。ところが非営利法人は資本金がないんですね。だから大丈夫だと思ったったら、いま総務省は非営利法人に関して、基本財産をもって資本金とみなすという考え方を進めようとしている。資産があれば担税力はある、応益負担はあるべきだろうということで、地方法人税をそういう形にしてゆこうというのが総務省の考えです。これはあまり知られてない。ほとんど誰も注目してないんですけれども、そう読むんです、ここの意味は。だから、お寺とかもっていると……

司会・境内地にも課税が?

松原・そうなんです。ここはみんなが見過ごしているんですけれども、総務省はコソコソと……。こんなのは最後の段階まではなかったんです。それを最後の文章でコソっと入れてきたんです。えらいなあと思いますよ、僕は。

司会・田中治さんの話や松原さんの地方法人課税の話をうかがい、聞けば聞くほど「コソコソと用意周到に話が進んでいるんだな」という気がしてきました。ところで、もう一つ、宮城さんも触れられたことですが、情報開示とかアカウンタビリティの問題ですね。これは市民が作る団体としても当然の問題であるというような形の議論が進んでいます。私も学校法人の一構成員としては、こういう問題は真摯に受け止めないといけないと思いはするんですが、じゃあ、どの団体も同じように情報を開示しないといけないのか、という疑問があるんです。これはちょっと違う話じゃないかという意見もあると思いますが、例えば、公益性を証明していく時に、抱き合わせで情報開示がでてくるということがある。それを考えると、情報開示の問題もここで議論をしておいた方がいいんじゃないかと思います。まず、洗先生、宗教法人と情報開示の問題について少しお話ししていただいたらありがたいと思います。

洗・なにか「情報開示」というのは正義の味方みたいな感じで論じられていますね。勿論、宗教法人もその法人に直接関わってる信者さんなどに、自主的に情報を開示していくのは大切なことだと思います。しかし、宗教法人が全く法人と関係ない人に対してまで、財政などを全部公開することを義務づけることが果たして正義なのかどうか。これを鳥取県が県として実際にやってしまっているんですね。宗教はまさに価値観に関わる問題を扱っておりますので、熱狂的にそれを支持する人と、逆に非常な反感を持つ人とが極端に分かれるという特性を持った団体ですから、法人の運営に何の関係もない人にまで、全ての情報が開示される場合、その団体に反感をもつ人がそれを攻撃の材料に使う危険性は非常に大きい。そうした宗教団体の特性からいえば、法律によって情報開示を義務づけて、きちんと情報開示する団体は公益性が高い、というような判断基準を宗教法人を当てはめるのは非常に危険なことではないかと私は思います。法人運営に直接関わる人たちに対し、宗教団体が自主的に情報を開示していくならば、それは大変良いことではないかと思うんですが、情報開示を錦の御旗にして、いわゆる〝公益非営利法人〟にはそれを義務化される、それが公益性判断の基準になるとすれば、それは宗教にとっては非常に危険なことだと考えています。

司会・松原さんのご意見はどうですか。

松原・私はNPO法人は情報開示をするべきだという立場ですが、これは「NPO法人は」という限定です。例えば有限会社というものがありますね。これは情報開示を進める必要はないと思っています。法人は道具ですから、それを使う人がそれで効果を挙げるような形に、その特性に合わせて作っていく必要がある。NPO法人の場合は市民参加が基本で、多くの人が会費や寄付を出してくれて、参加しやすいように作ろうというのが原点にあるので情報開示に努めていますが、宗教法人に関しては宗教家の方が法人としてのあり方を基本的に考えて、どうしていくかというべき問題だと私は思っています。

岡田・先ほど中村さんから出た話なんですが、こうした公益法人課税という問題がもちあがると、やはり宗団として、個々の寺院なり地方の組織なりに、事前にレクチャーしなければならないというのはその通りです。確かに、被包括の法人のために予め研究し、先取りして対応を講じてゆく必要がある。しかし、具体的に公益性をクリアするマニュアルなどを用意する必要はないんじゃないでしょうか。本来的に宗教活動そのものは、少数の固定したものを対象にしていたとしても、それ自体が公益なんだ、そして非営利だから非課税なんだ、というところにもってゆくべきではないか、と思うんですけれど、中村さんはどうお考えになりますか。

中村・その問題の前に、さきほどの田中治先生の話に関連して申し上げると、私もこれは果たして単に税収を上げるというだけの問題なのかなと感じていました。それこそ岡田先生もご指摘されたような官僚の統制強化のような感じがしないでもないんです。ただ教団の被包括の法人に対する責任として、一応議論の場に上らせているということです。従来、既成教団はこの種の問題は全日仏などに任せて、全日仏に何か言ってもらおうという傾向が強かったわけですが、京都仏教会や曹洞宗のようなレベルでも考えてゆかなければならない問題だと思うんです。全日仏任せにしているだけではいけない。特に宗教に関して言えば、原則を崩したら宗教じゃなくなるわけですから、そこはきちんと言うべきである、と私は当然思っているわけです。ただ、その上で、教団の立場としては地方の一生懸命やっていらっしゃる方のために、原則を崩さない範囲で、公益性という問題の具体論にもある程度踏み込んでゆく必要もある。「自ら襟を正す」論じゃないけれど、事前に官僚からグジャグジャ言われる前に、内部的な努力としてやるべきことはやっておこう、ということを申し上げたわけです。

平田・情報開示について、地域コミュニティに開かれた宗教であって、しかもそれが布教とか伝道とか不特定多数に対するミッションを持った場合、これはもう情報を開示するということをはっきりさせないといけないと思う。私はそういう立場です。NPOはもちろん情報開示です。もし、その宗教集団が不特定多数のコミュニティの人と一切関係をもたず、独自の内部的な信仰集団だけでいくというのなら、それはもう情報開示をする必要はありません。

司会・安井さん、どうぞ。

安井・かって宗教法人法が改定された時の宗教界の状況というのは、ほとんど改定を前提にして、それに対しどういう対策を取ったらいいのかというところから出発したんですよ。しかし、今回の問題ではそれと同じようなアプローチをとってはならない、と私は思っています。ですから、この問題に対しては、(改革後の)対策ではなくて、それを認めるか、認めないかという論議を先ずやっていくべきです。宗教法人法改定の際の包括団体、宗派は全部〝落第〟だったと思います。その轍を踏まないためにも、この問題に関しては論議を重ねていって、反対すべきだということになれば、絶対最後まで反対しなければならない。宗教というのはやはりどこかで舐められているわけですよ、官僚たちにはね。それを我々はなんとしても克服しなければいけない。これは宗教法人法改定以来、ずっと思っていることなんです。宗教法人としてはそういう態度で臨まなければいかんと思います。

中村・それはおっしゃる通りなんです。要はその対抗の論議をする時のことで、我々はガバナビリティもしっかりしているとか、公益性も問題ない、とした上で、原則論で対峙するということを私は申し上げているわけです。原則論を崩して、我々の主張が通らなかったらこうしようとか、そういう議論じゃない。対峙する時には当然、官僚だっていろんな手を使うわけですね。「それ見てみろ」と、「あそこの坊さん悪いことしてるじゃないか」と、必ずそんなふうなリークをやって、世論誘導をしていきます。それに対して負けないようにしておこう、という意味です。

司会・政教分離に関する議論は、私自身、京都仏教会と長い付き合いがあるんで、非常に馴染みのある議論になっているんですけれども、これに馴染みのない人たちが聞くと、宗教法人はやっぱり〝坊主丸儲け〟で、なんのかのと理由をつけて課税を逃れようとしている、などと言いかねない。人間というのはシンパシーをもっている者に関しては理解を深めようとするんですけれども、シンパシーをもたない者の言説に対しては、もともと理解を示そうとしない。中村さんがおっしゃるように、何か事がある度に、「こういう悪い宗教法人があるんだ」といった話を世間は散々聞かされてきているわけです。今回も、公益法人制度改革に対し、また宗教法人が何かゴソゴソ言っているよ、という議論があると思うんです。それに対し、我々としては近代国家・市民社会との関係の中で、宗教法人が普通の団体とは基本的に違うというような議論を明快な形で提示できないものかな、と考えるのです。絶対主義的国家がつぶれて、近代的な国家が生まれてくる時に、宗教がどういう歴史的過程に関わってきたのか、とか、その辺についての認識というのもはっきり持っておく必要があるんじゃないか、と。政教分離の原則をいくら主張しても、それに対して世間の人々が耳を貸さない状況があるとしたら、歴史的に宗教が市民社会形成の過程でどのような役割を果たしたか、あるいは足を引っ張ったかというような認識が広い範囲で共有されるよう、我々としても努力する必要があるんじゃないかと、ちらっと思うんです。世間の人が聞いてくれるような議論ということで、洗先生、少し難しいですが…

洗・確かに難しいですね。ヨーロッパ近代が成立していくうえで、特にプロテスタンティズムは非常に大きな役割を果たして、民主主義社会というものを形成するのに大変貢献したんだと思うんです。しかし、日本の場合、近代社会の諸制度は輸入されたものだったのですね。明治政府は信教の自由なんて本当は認める気はなかったんだけど、外交問題が絡んでいたり、あるいは真宗との絡みがあったりして、やむえず形の上だけ認めた。形の上だけ認めたけれど、本当の意味では認めなかったのが戦前の体制だと思います。そういった歴史を一般市民の人がすぐわかるように、短く、スローガン的に述べることが可能なのかどうか、私の能力を超えているという感じがあります。

司会・例えば、歴史経過の背景もあって、宗教関係の人は神道と国家が結びつくことを非常に嫌うんですけれど、仏教と国家が結びつくことも同じようにすごく危険なんですね。インテリの人たちも神道と国家が結びつくことには敏感ですけど、仏教や新宗教と国家の結びつき(公明党・創価学会の場合は議論がありましたけれども)の危険性について少し論議してはどうか、ということも少し思いました。さて、フロアの方も含めて他に意見があれば。

大和総研某氏・皆さんのお話をお聞きしていて非常に参考になりましたが、議論の中身が二つあるのかなと感じました。一つは課税、非課税という問題、もう一つはそれに伴って、政府が管理を強化してくる可能性がある、それが憲法違反ではないか、と。この二つが多少混乱しているので、先ずそれを整理する必要があるんじゃないかと思うんですね。まず課税、非課税の問題について言うと、例えば他の先進国の中で、先ほど洗先生もおっしゃつた通り、宗教法人課税をするという国はほとんどないですね。ですから課税、非課税の問題は結果として非課税になる可能性が非常に高い。むろん課税される可能性はあるかも知れませんし、財務省はそれをしたいと思っているかも知れませんけれども、ただ現実にはそうならない可能性の方が高いかなと思います。問題はそれをきっかけに政府が管理をかなり強化して、口出しをしてくる可能性があるとすれば、じゃあどうするのかという問題なのかなと個人的には考えます。これは三つ方法があると思うんですけども、第一は税の問題で押し返す。先ほど司会の先生がおっしゃつた外堀ですね、外堀の方で跳ね返すという方法。それからもう一つは、もう外堀の方は埋まりつつあって、政府の方はその方向へ向かっているので、内堀の方、要は公益性という面で対応する。客観的に個々の公益性を証明するのは多分難しい。どうしても主観が入ると思います。それで、公益性を個々に主張するよりも、私はやはり宗教法人というのは宗教法人法という特別法があるので、その宗教法人法を担保にして公益性を主張する方が勝ち目があるんじゃないかなと思うんです。つまり法人実在説を否定して、そもそも日本の税制は法人擬制説だと説明することも必要でしょうが、でも一番重点をおくべきところがどちらかというと、宗教法人の公益性は、いろいろと条件をつける以前の問題である、ということを強く押す方が勝ち目があるのじゃないかなというふうに、個人的には思いました。先ほど、宗教に対する様々な批判もあるという話も出ましたが、税金の問題に反対すると、〝坊主丸儲け〟論ではないですけれども、課税逃れをしているのではないかという風に世間には取られかねないということもあると思うんです。ですから、税制の話にあまりこだわって、そこを切り口に反対するよりも、まあそれも大事ですけれども、それ以上に、宗教法人は公益であるというに点にこだわった方がいいのではないかと思います。最後に一点だけ、十八万ある宗教法人を個々に公益性をチエックするのはまず不可能ですね。ですから、個々に一つ一つをチェックするということには多分ならないんじゃないか。政府もそれは得策でないと思うでしょうから、ですからそういうことで、公益性の議論にあまり具体的な条件云々という形で関わるよりも、そもそも宗教法人は公益であるという論陣をはるのがいいというふうに個人的には思いました。

司会・ありがとうございます。まさに公益性があるという主張をする時に、現在、法律がこのようにしてある存在するから、という議論はなかなか聞いてもらえない。そこに難しい問題がある、というのは私が先ほど指摘したことですけれど、その部分で主張していくというのも非常に大事だろうと思います。

中村・あと一つだけ発言したいのですが、昨年、鳥取県の情報開示問題で片山知事とバトルをやりましたが、当初、本当におかしいということで、大上段に論争を仕掛けたんです。その時、何が一番困ったかというと、議論が本質論で通らないんですね。あんたたち襟を正したらどうだ、とか、普段、宗教法人がどのように見られているかの部分が出てきてしまう。情報公開の問題でも、別に何かを隠そうとしたわけではないんですが、我々はいわゆる守旧派のレッテルを貼られる。それで、片山知事は正義の味方というわけです。そこで議論が止まっちゃうんですよ。ですから、原理としてはおっしゃる通りだと思います。ただ、我々もこれまでの経験から学習し、こちらでやっておくべきことは一応やっておいて、その上で国なり、官僚なりと対峙し議論を展開しなければならないと私は思っております。

司会・突然話はとびますけれども、暴力団新法というのがありますね。暴力団という対象だけに限定し特別な法律を作るということをやったわけですけれども、その時に、暴力団だからといって特別扱いをしてはいけない、だから暴対法に反対だという議論がありました。中村先生の話は、問題を起こす者がいるから規制するいう論議に負けてしまうという話なんですね。現実に問題を起こす奴がいるから、その可能性のある奴全部をコントロールする法律を作るんだという、その議論に対抗する議論というのは、例えば暴力団新法のとき、どんな形で出てきたんですか。

樺島・暴力団と宗教界とが対等に見られるということはまず日本ではない(笑い)。しかし税金の話をすれば、早い話、山口組本家の収益金が脱税の対象にされないというのは不思議でしようがない。あれは何十億と集まっているはずです、月々。それが、アル・カポネにたいに脱税の対象にされないというのはなぜだろうか、これは七不思議の一つですよ。あの、暴力団新法にしても、実際には何の役にも立っていませんね。

司会・樺島さん、ごめんなさい。暴力団の解説をしてほしいんではなくて、ちょっと私の例が悪かったようです。別の例を挙げれば、破壊活動防止法です。学生運動とか、そういうのを取り締まる時に、ああいう議論がでてきましたね。

樺島・日本人は人権というのは弱者のためにあるという考え方に乏しい。ここがやはり弱いところですね。坊さん丸儲けしとる、といったイメージにもってゆかれると、古都税の時と同じように、袋叩きにあいます。そういうことにならんように、なんとか仕向けていくことが必要だと思いますね。

橋口・例えば、接見制度というのがあります。弁護人がそれを使って被告に無理に否認させるとか、証拠隠滅する、あるいは裁判を長期化させるとか、非常に悪く言われてきたわけですが、接見の秘密が制度的に保証されなければならないということは、刑事裁判を受ける自由などが基になっている。その一つのシステムとして、弁護人と被疑者被告人との接見を保障するのだと、そういう関係てあると思うんです。それに照らせば、憲法上、信教の自由を担保する制度として政教分離原則が決まっている。その辺りの議論をもっと深化させなければならないんじゃないか、と不勉強ながら思います。この国が採っている憲法の原理からすると、宗教法人の特殊性を論理として展開できるかどうかというのが、見極めになってくるのかなと、今日の議論を聞いて感じました。

司会・言い訳ではなく、正論をきちっと出すという議論がやはり必要なんではないかという気がします。はいどうぞ。

北園・あまり結論めいたものが出て来なくて、非常に残念な気がします。非常に難しいのはわかるんですが、中途半端で終わって、また次に同じようなところから始まるというようでは、何かしっくりこないんです。もう少し攻めるところは攻めていって、絞りこんでやっていかないと、なんにもならんのではないでしょうか。先日、自民党税制調査会長の津島雄二さんとお話をしたんですが、公益法人制度・税制改革に宗教法人は入らない、ということでした。ただ、官僚の側はほとんど入れたいという気になっている。官僚はあんまり信仰心もございません、はっきり言って。そういう人間が操作するんですから、可能性は大だという、そういう言い方を少し臭わせていました。だからそういう中に、宗教界がどう入っていけるかということです。宗教界から、きちんと襟を正した人間がそこへ行って、専門的に話ができるように、そういう人材がほしいんです。仏教会から力を持った人が向こうに乗り込んで行ってほしい。それを一番強く感じます。

司会・今日の会合は、松原さんらと情報交換することが重要なポイントとしてありました。宗教法人側が今回の制度改正に対して持っている危機意識、問題意識をNPO法人の方で運動されている松原さんと共有する、これが一つ大きな意味じゃないかと思うんです。宗教法人の側としても、NPO法人が今度の制度改革について、どういう意見をもっているのか、これを認識しておきたいというのも狙いでした。こんご、宗教法人側として運動を展開していくうえで、相手側の政治家や官僚の動きだけを見るのではなく、立場的に共通したところのあるNPO法人の人たちが何を考えているかを了解しておくのは意味があることで、今日の会合はそれなりの役割を果たしたんじゃないか、と思っています。簡単にここで結論が出て、みんな一緒にドドっと行きましょうというふうになればいいんでしょうけれど、それは次のステップというふうに私は考えています。

田中治・確かに、結論を出せばいいけど、私は今の田中滋先生の見解に全面的に賛成です。松原さんらNPOの方が考えていらっしゃるかことを直接お聞きして、同じ思いをもつ団体、人が手をつないでいく、一つ一つ積み重ねていくことの重要性を改めて教えられた思いがします。やはりそういう積み重ねがないと、国会へ訴えてゆくわけにもいきませんからね。

安井・そうそう。いきなり国会へ行っても、今回の改正には宗教法人もNPO法人も入っていませんよと言われるだけなんですよ。

司会・今後こういう研究会は引き続き開かれるでしょうから、その中でスローガンは考えていったらいいんじゃないかと思います。

松原・最後の一言なんですが、戦略の話がでましたね。私もここへなぜ出て来たかというと、宗教界の方々とお話ししたいと、そう思ってきたわけです。なぜかというと、問題をどうとらえるかということを、お互いにしっかり考えたいわけです。宗教法人はそもそも公益だから、という話もあると思います。公益には多元性がありますから、そうやって公益性はクリアしていく。それはそれでいいと思うんです。ただ今回、政府税調が打ち出してきているのは団体課税強化で、ありとあらゆる日本の団体に対する問題だと思うんですね。大事なことは、NPO法の時もそうだったんですけれども、政治家とか行政と議論し、また市民の世論の力を作っていくためにはリーグをどう広げるかという事だと思います。この問題は実は企業にも関係してくる。企業も味方につく議論ができるわけです。だから我々としては、各団体の様々な利害を計算した上で、どういうリーグが組めるか、一緒にどういうポイントで戦えるかということを考えながら活動してゆく。これが大事だと思うんですね。そこをやっていかないと、政府・行政相手の活動は非常に難しい。もう一点。政府もこれは一枚岩じゃないですね。財務省と総務省と行革事務局と政治家はそれぞれ立場が違う。しかも政治家はバラバラです。私の見る限りでは、つけ入る隙は山のようにあります。産業界もこれに関してはまだ沈黙していますが、業界団体はいっぱい抱えています。団体課税ということになれば、学校とかPTA、自治会なども全部入ってくるんです。利害関係のあるところは非常に多いんです、これは。そういう点からいうと、問題の本質をきちっと分析した上で、利害関係を読み解いて、どことどういう連携がくめるか、私たちの方でも本腰をいれて取り組んでゆく必要がある。政府税調も実はそんなに強くない。あちらも相手の利害関係を見ながら、二十年スパンで考えてます。ですから、スローガンをというなら「一からやり直し」じゃないですか。一からやり直させる。これは可能だと思います。民法三四条は変えた方がいいんです。公益法人自体の制度が間違っていますから、非営利の法人制度をまた一から作り直させることです。団体はこれから大事になります。日本にいい団体は一つもないんですよ。「だから作り直しましょう」という基本スローガンを打ち出して、宗教法人もいろいろの団体とどうリンクを組めるか、ぜひ考えていただきたい。そういうふうにお願いしたい、それが最後に申し上げたいことです。司会・今日は本当に長時間皆さんありがとうございました。