古都税反対運動の軌跡と展望 ‐政治と宗教の間で
「古都税反対運動の軌跡と展望」京都仏教会編 第一法規刊
第5章「解説」P.218~230 より抜粋
第一部 発端
昭和五十七年三月十二月
所謂古都税問題は昭和五十七年三月、京都市財務消防委員会で二六億円の赤字補填対策として、公明党の提案である文化観光税(以下文観税と略す)の復活が論議されることに始まる。そこでの論議は「社寺との覚書もあり早急に復活するのはむづがしい」とする意見もあったが、七月には同委員会で理財局長が文観税導入を示唆し、古文化保存協会(以下古文協という)を通じて有力観光寺院の説得工作に乗り出した。(古文協は昭和三九年の文化観光税の終結にともない、京都市が文観税収入のうちから拠出した二億円を基金として、文化財を保有する社寺が文化財保護の目的で昭和四〇年に設立した財団法人で、理事として府下の有力社寺が名を連ね、京都市からは文観局長が理事、理財局長が監事として参加している。また、この協会の有力寺院である清水寺、金閣寺、銀閣寺、妙法院、西芳寺、竜安寺の六ケ寺は協会内部に六親会という親睦会を作っていた)。
京都市は密かに六親会のメンバーを市内料亭に招き、席上、原勝治理財局長が文化観光税構想の説明をし、「拝観者数二万人以上の三~四十社寺を対象に、一人当たり五十円を拝観料に上乗せして徴収する。」という具体的内容を示し協力を求めた。清水寺は協力できないとして席を立ったが、他の寺院からは強い反対意見は出ず、同月開かれた古文協の理事会では藤田价浩古文協理事長(西芳寺住職)が文化観光税協力を訴え、つづいて柳原埋財局次長がその構想を説明した。大島亮準三千院執事長は昭和三十九年に高山京都市長と交わした「今後この種の税はいかなる名目においても新設しない」という「覚書」があるとして、この新税に反対の意思を表明したが、これに対し、理財局は昭和三十九年当時から二十年近く経過しており、その間、経済的・社会的変動があり情勢は変わっている、「覚書」の法的拘束力はないと反論した。京都市は古文協傘下の有力寺院の同意を取り付けることによって、あくまで文観税実施を前提に説得を続ける構えであった。事態を憂慮した大島師は京都市仏教会(以下仏教会と略す)の小林忍戒理事長に会い、仏教会として文観税反対運動に取り組むよう要請するが、理事長は態度を保留した(京都府・市仏教会は戦前に形成され、国家による宗教界統制の一翼を担った国策的組織であったが、戦後は寺院間の交流をはかる任意の親睦団体として存続し、彼岸法要やお花祭り等を行ってきた。昭和五十七年の会員数は約千五百ケ寺で、一ケ寺年間二千円の会費と寄附金などを含め、年間約六百万円の予算で運営されており、京都の各本山を含め多くの寺院が会員となっていたが、各寺院の会員としての自覚は薄く、社会問題に対応できるような組織力を持つ団体ではなかった)。
しかし大島師の再度の強い要請で、仏教会は八月二日聖護院で緊急会議を開いた。会議には仏教会役員並ぴに有力寺院の住職、執事長ら約三十人が出席し「各宗派の本山が集まる京都でこの税を許すことは、全国的にも大きな影響を与える。」として文観税に反対する方針をきめた。そして京都市との交渉の窓口を一本化するため、文観税対策委員会を発足させ、委員長に小林忍戒理事長、副委員長に田原周仁天龍寺派宗務総長、大島亮準三千院執事長、他四名の委員を選出した。そして八月十九日に予定されている京都市の文観税に関する説明会を控え、八月十七日第一回文観税対策委員会を開き、京都市に対し、
(1)文観税復活の根拠を示せ、(2)「覚書」に対する市の見解を示せ、(3)信教の自由に関して憲法第二十条に対する見解を示せ、(4)市当局の観光行政の姿勢についての考えを示せ、(5)京都市仏教会に対する考えを示せ、という五項目にわたる公開質問状を提出した。
八月十九日京都市は京都ロイヤルホテルに対象寺院を集め、初めて文観税に関する説明会を開いたが、同時刻今川市長は記者会見で、昭和五十八年四月実施を表明していた。説明会の際、これを知った寺院側は昭和三十九年の「覚書」を示し、今回の条例構想が約束違反であると激しく市を非難したため、会議は紛糾し、本題に入らないまま閉会する結果となった。
話し合いをもつ一方で、強行実施を打ち出すという京都市のやり方が、寺院側の行政に対する不信と反発をつのらせる原因となったわけである。
この説明会の後、仏教会は緊急対策委員会を開き、京都市が課税対象に予定している拝観寺院の賛同を得て、交渉の窓口を仏教会に一本化するよう要請することを決め、八月二十五日拝観寺院百三十八ケ寺に呼びかけ、対策協議会が開かれるが、九十ケ寺が出席(うち四十八ケ寺が委任状を提出)し、文観税反対を決議して、京都市に決議文を提出した。またこの日までに仏教会は、対象寺院三十七ケ寺中三十一ケ寺から「京都市との折衝の窓口を京都市仏教会にする」という委任状を受理した。
九月七日午前十一時よりホテルフジタで京都市と仏教会の初めての公式会議が開かれるが、話し合いは「覚書」などをめぐり寺側が猛反発し、仏教会が文観税復活の構想撤回要求書を市長に提出して、一方的に閉会を宣言する形で終わる。これまで“仏教会は相手にせず”と言う態度をとってきた京都市は反対運動が拡がる中で仏教会を無視しつづけることはむずかしくなり、水面下では話し合いによる説得をもくろんだこともあって、十一日に仏教会と理財局との水面下の交渉が始まる。これ以後仏教会は公式会談では京都市と対立を続けながらも、裏面では理財局との交渉を進めることで、京都市が条例の強行実施に踏み切ることに歯止めをかけようとしていたのである。
この一連の話し合いの中で、京都市は条例構想の提案理由として、「市内に点在する寺院の固定資産非課税分は約十億円あり、都市開発において寺院の存在が経済的効率を著しく低下させている」ことを上げ、寺院側の協力をせまったが、仏教会は「経済的効率で宗教施設の価値を計るのは歴史への冒涜である。若し経済的効率で寺の存在を論じるなら、京都の寺院は年間三千八百万人の参拝者を受け入れその経済的効果は一兆六千億におよぴ、十分にその役割を果たしている。寺院は行政に協力することを惜しまないが、行政の支配下におかれることは絶対に承服できない。」と反論し、寄付金をもって税にかえることを提案するが、京都市は十年間確実に寄付金が納入される保証がないという理由でこの提案を拒否した。
この間、古文協(藤田价浩理事長始め銀閣寺、竜安寺、妙法院の代表らが出席)と仏教会(小林忍戒理事長、大島亮準師が出席)の会談が九月二日、市内料亭で開かれた(藤田价浩師は三十一年の文観税の時には反対運動の急先鋒であったが、今回の文観税に対しては最初から賛成を表明し、古文協として市に協力する意向であった)。大島師はすでに藤田師に新税賛成の理由を問いただしていたが、その答えは「市は寺側に対し十五パーセントの見返りを考えており、こちらにとっては有利なものである。」というもので、藤田師の利益誘導的発想は大島師らの反発を買った。この会合でも両者は基本的な意見の食い違いを見せたが、お互いに宗教者として、同じ土俵の上で話し合いを続けるということで合意がなされた。
しかしその後古文協は、理事会・評議会の正式の合意もなく、会報を以て文観税賛成を表明、藤田理事長はじめ数名の理事が市長を訪ね協力を申し出たため、古文協会員をはじめ評議員、一部理事らの反発を買い、九月二十二日古文協理事長解任のための理事会・評議会開催の要求書が提出されるが、藤田理事長はこれを拒否し、三十日独自に臨時理事会を招集した(臨時理事会では反対派理事、評議員から理事長解任のための役員会開催要求が出されるが、理事長はこれを無視して、一方的に閉会したため、理事長解任の動きは封じられた)。
これまで、藤田理事長とともに文観税賛成と見られていた金閣寺、銀閣寺は古文協や仏教会の動きに対し、はっきりした態度決定の必要にせまられていたが、本山である相国寺の一山会議において、文観税反対の申し合わせがなされたため、金閣寺、銀閣寺は文観税反対の意思を表明し、これ以後仏教会の反対運動の戦列に加わったのである。
十月六日、京都ロイヤルホテルで京都市と仏教会の第二回公式会談が開かれた。仏教会は問題点として(1)「覚書」をどう考えるか、(2)赤字財政の補填ではないか、(3)市民憲章に反しないか、(4)観光関連業界などに影響はないか、(5)信教の自由を侵害しないか、の五点をあげた。
これに対し京都市は(1)「覚書」を尊重しているがゆえにこの話し合いを持っている、(2)税は文化財保護など将来に向けて目的財源として使い、赤字補填ではない、(3)市民憲章には反しない、(4)観光客からの直接売り上げは二千三百億円程度で商工業全体の三パーセントに過ぎず影響はない、(5)信教の自由を侵害するつもりはない、拝観には文化財鑑賞という側面もありそれらの人に課税する、などと主張した。これまで文観税は、赤字補填のためであると公表したことで、様々な批判を受けていた京都市は、前言を翻し「文化財保護のため」であるとして、目的税的性格をより鮮明にした。話し合いを物別れに終わり、その後仏教会は本能寺会館で会合を待ち、今後京都市との話し合いを凍結することに決めた。しかし十九日開かれた第十回対策委員会で、今川市長と立部仏教会会長のトップ会談が十八日夜密かに行われ、会談が平行線に終わったことが明らかにされたため、仏教会は文観税構想撤回を求める“最後通告”を京都市に突き付けることを決めた。そして十月一日、仏教会は弁護士や法学者ら二十八人で構成する文観税法律対策委員会を発足させ、委員長に元日弁連会長和島岩吉氏を選任、条例制定後の訴訟に対する準備をすすめ、南禅寺会館で開かれた初会合では「覚書」は単なる紳士協定ではなく法的拘束力があるとの意見の一致を見る(仏教会はこの間四回にわたり新聞紙上に意見広告を掲載し、文観税反対のポスターやビラなどを配り、市民、拝観者、壇信徒を対象に反対署名運動を展開した。また市議会では、自民党市議団に続いて社会党市議団が文観税賛成の方針を打出し、京都市は市政モニターによる世論調査を実施して、市民の六十パーセントがこの税に賛成であるという調査結果を発表した。さらに観光関連業界では旅館四団体が文観税に賛成を表明したのを初め各種団体が賛意の表明を行っている。)
京都市は仏教会への説得がうまく行かなかったことで、対象四十社寺に対して個別交渉を始めるという方針を打ち出した。そこで仏教会は、十月十七日協議会を開き、(1)市の切り崩しを排除するため結束を固め、行政上の締め付けがあれば仏教会として対応する、(2)文観税反対の市民集会を開く、(3)条例が可決されれば法廷闘争に持ち込む等を決議し、対象四十社寺のうち三十一ケ寺が決議文に署名した。
反対寺院との交渉が暗礁に乗り上げていた京都市は、条例の市議会提案を控え、仏教会に対し「覚書の精神を尊重し、双方の主張を一旦棚上げにして話し合いを再開したい」と申し入れてきたため、仏教会は、条例の市議会提案を引き伸ばすためもあってこれに応じ、十二月一日夜非公式に会合が持たれた。しかし「覚書」を尊重するということを条例構想の撤回ととらえた仏教会に対し、棚上げは一時的なものであり、条例の再提案も有り得るとする京都市の解釈とは食い違いを見せ、話し合いはすれちがいに終わった。その後自民党、社会党、民社党市議団も仏教会との交渉に乗り出し、十二月六日、九日と会談が持たれた。
市議団は(1)文化財を守るため一致協力してほしい、(2)「覚書」は市長個人が交わしたもので、議会の議決を経たものではないので市議会は拘束を受けない、したがって覚書は今となっては単なる紙切れにすぎない、(3)信教の自由を言うならば、なぜ十八年前に最後まで抵抗しなかったのか、(4)行政上、寄附金ではなく税での徴収が妥当と考える、と主張し、仏教会の反発をかい、この会談も平行線のまま終わった。
この間、仏教会は対策協議会を開き、京都市に条例撤回の意思がないことを確認して、法廷闘争への強い決意を含む闘争宣一言を採択した。
しかし水面下では、従来からの市との話し合いは続いており、十二月十三日にも非公式会談が持たれたが、依然話し合いは難行した。京都市は寺院の合意を取り付けた上での、文観税条例の十二月定例市議会提案は難かしい状況になり、十二月市議会を見送っても条例の四月実施に影響はないとして、一月市議会提案の腹を固めた。
市議会においては共産党(十九)一党だけがこの条例に反対しており、自民党(二十四)、社会党(十)が正式に賛成を表明し、公明党(十三)、民社党(四)も賛成に回るものと見られ、可決は確実な情勢にあった。
第二部 市議会、審議抜き可決
第二部 市議会、審議抜き可決
昭和五十八年一月~昭和五十九年八月
昭和五十七年十二月三十一日、今川市長は条例の名称を「古都保存協力税」(以下古都税と略す)と決定し、翌一月四日自ら立部仏教会会長を訪ね、税施行の強い意思を伝え、一月十七、八日頃に臨時市議会を招集し、条例案提案を強行する方針を表明した。仏教会に対する、京都市の税施行に向けての最後通告であったが、立部会長は、文観税と同じ内容なら断固反対の立場を貫く方針を市長に伝えた。
また会長をはじめ仏教会代表五名は、府庁に荒巻副知事を訪ね、文観税反対決意表明書を手渡し、文観税に対する仏教会の考え方への理解を求めた。荒巻副知事は「府としては、社寺の納得が得られないまま議会が可決しても施行は難しいと考え、当初から一貫して社寺の納得を得るようにいっている」との基本姿勢を示した。さらに林田知事も記者会見で、京都市が計画している「古都保存協力税」について、市が社寺側との調整を進めるよう要望し、府が市と社寺との仲介や、斡旋に乗り出すつもりはないことを明らかにした。
昭和五十八年一月七日、今川市長は記者会見で条例案の骨子と税収の使途を発表し、文化財保護のほか、芸術文化劇場岡崎文化ゾーン整備の基金積み立てを表明した。同日、共産党市議団はこれに対し、十八日招集の臨時市議会に古都税条例の提案を見合わせるよう、市長に申し入れた。
一方仏教会では小林理事長らが市役所を訪れ、一層強固な反対運動を展開することと、同問題を法廷闘争に持ち込むことを表明する声明書に、対象四十社寺中三十四ケ寺が署名捺印した、徴税義務寺院の指定拒否表明書を添付して提出するとともに、一月八日、仏教会加盟の六十九寺院(課税対象寺院三十三ケ寺、指定外寺院三十六ケ寺)は市長を相手に条例の市議会提案中止を求める差止め訴訟と、仮処分申請を京都地裁に提出した。また一月十日、小林理事長ら仏教会代表四人は自治省を訪れ、山本自治相に古都税反対を陳情した。山本自治相は「地元で解決すべき問題で、行政と宗教者が法廷で争うとなると全国の人々が違和感を持つ。今後京都市から同税実施の正式な申請があるとしても、制度そのものが円滑に運営されるかどうかを見極める必要がある」という見解を示した。続いて自民党宗教政治研究会(玉置和郎会長)を訪ね、古都税実施反対の陳情書を提出したが、宗政研は十四日楠木正俊会長代行ら十二人が集まり自治省、文化庁、内閣法制局、京都市などの担当者を呼び検討し、仏教会のいう憲法違反(信教の自由違反)には当たらないと言う結論を出した。
一月十八日、京都市臨時議会は、午前十時より開会し、「古都保存協力税条例案」を今川市長が提出した。即決を察知した、税設置に反対する共産党議員から「この条例は三十九年の『覚書』に反するのではないか、強行提案は容認できない。条例案の即決は審議権を放棄するものだ」として委員会付託を求める動議が出されたが否決され、共産党をのぞく賛成多数で即決された。これに対し仏教会は直ちに記者会見し、「古都税の審議ぬき可決は暴挙である」と声明を発表した。また市民団体からも議会に対する批判が続出した。
京都市は仏教会の反対運動を自殺行為と決め付け、対象社寺が相手であって、仏教会相手では話し合いは進まないとして、各区長などを対象社寺に派遣し、各社寺の個別説得による切り崩しを始めた。
一月二十一日自治省は、京都市に対し対象社寺が徴税に同意したことを示す文書を、許可申請書に添付するよう求めていく考えを明らかにした。
同省市町村税課は、文化観光施設税を徴収している栃木県日光市など三市の許可に当たっては、申請書に対象社寺個々の同意書などを添付させているため、京都市の場合も、対象社寺の数が多いので全部の同意書までは求めないが、少なくとも対象社寺の圧倒的多数が同意したことを示すものが必要であるとの見解を示したのである。
古都税条例可決以来、京都市は、対象社寺の個別説得を進めていたが、市関係者の来訪を断る文書を門前に掲示し、結束を固めていた仏教会の抵抗によって、思うような成果が上げられなかった。そのため、自治省の意向を満足させることができなくなったため、古都税を五十八年度一般会計当初予算に計上することを断念し、四月実施は事実上見送られた。
仏教会は市の条例強行採決を牽制し、引き伸ばすために「条例新設のための一切の行為の禁止」を求める仮処分申請をおこなっていたが、条例を強行採決したものの、四月実施を事実上断念したので、施行を早急に差し止める必要はなくなったとして、先の仮処分申請を取り下げ、これに代わり「古都税条例は信教の自由や政教分離を定めた憲法に違反し、地方税法、地方自治法にも違反する」として京都市を相手に、条例の無効確認を求める訴えを二月十四日、京都地裁に起こした。
その後京都市は、仏教会の結束による説得の不調や前右京区長らの二億円にのぼる公金詐取事件の発覚等で表立った動きを控えていたが、五月十一日、今川市長は記者会見で古都税を秋にも実施する意向を表明すると共に、見切り発車もあり得ることを示唆し、世論作りのためパンフレットを作成したり、各種団体によびかけ「古都保存協力税を実現させる市民協議会」を設立したりして、税施行に向けて再び動き出した。
藤田理事長解任のための役員会開催の要求が一方的に拒否されたままであった古文協は、役員の任期満了を控え、三月三十日に理事会・評議員会を開いたが、理事長解任をめぐり紛糾の末、流会となった。四月二十二日、妙法院で再度役員選出のための理事会が開かれたが、平等院からの委任状が改竄されていたり、委任状をもって出席していた代理人の資格について文観局が汚い言葉で罵倒したため、会議は紛糾し、藤田理事長は一方的に閉会を宣言し、理事長解任の動きは再び封じられた(これを機に平等院は古文協を脱会した)。こうした混乱を経て招集されたのが六月二十七日の理事会であり、満場一致で評議員を再選した。続いて七月四日理事会・評議員会が開かれたが、このとき、以前より理事長らの恣意的な議事の進行に疑問を持っていた古都税反対派の寺院代表は、録音テープを持って出席した。会議の冒頭、古都税反対派の寺院より、役員改選意志通知書(二十二名の評議員)を提出し、動議を求めたにも拘わらず、議長は異議なしとして一方的に閉会を言した。このため理事長解任の動きは三度封じられたが、森定三千院門跡以下八名は藤田理事長らを相手取り、規約を無視して理事長に留まっているのは無効であるとして、理事長の職務停止を求める仮処分を、京都地裁に申請した。
一方、京都市が各種団体によびかけ設立させた官製団体は、連日にわたり対象社寺に対し、古都税に協力するよう呼ぴ掛ける文書作戦を展開していたが、仏教会は会長をふくめ首脳七人が七月に再度自治省を訪れ、山本自治大臣に古都税不認可を訴える陳情をおこなったり、九月には、文観税問題公開討論会などを開き、これに対抗した。そして市と仏教会との水面下に於ける攻防は激しさを増し、対象社寺に対する互いの説得工作が続けられた。
しかし裁判においては、十二月十六日大徳寺塔頭の高桐院、瑞峯院、芳春院、竜源院らが突如、市の説得に応じ、あろうことか市側の代理人である納富弁護士を通じて、京都地裁に取下げ書を提出した。また十二月二十二日の法廷においては、古崎裁判長が市側に答弁内容を示唆したり、「古都税が憲法違反なんてそんな馬鹿なことがありますか」などと言い、公正を欠く発言があったため、仏教会側は裁判官忌避申し立てを行った。その結果、この日結審予定であった古都税訴訟は中断する事態となるが、十二月二十八日京都地裁はこれを却下し、昭和五十九年三月三十日、古崎裁判長は仏教会側の訴えを門前払いする形で判決を一言い渡した。これを受けて仏教会は原告団を税対象の二十六ケ寺に絞って直ちに大阪高裁に控訴の手続きをとった。
今川市長は、昭和五十八年十一月の時点では社寺側の同意なしでも申請を行うという強行姿勢を示していたにも拘わらず、昭和五十九年三月にも古都税を予算案に計上できず、再び四月実施を見送らざるを得ない状況であった。しかし対象社寺への切り崩し工作や、官製団体の仏教会への批判は激しさを増していった。
仏教会は任期満了にともない辞任した立部会長にかわり、新会長に東伏見慈洽青蓮院門跡を迎え、理事長には松本大圓清水寺貫主を選任し、これらの批判に対処するため組織力の強化を計るべく府・市両仏教会を統合し、法人化する方針を打ち出した。
しかし五月二十二日、化野念仏寺が古都税訴訟を取り下げたのを始め、三十一日には仁和寺が離脱、神護寺、竜安寺もこれに続いた。
これに力を得た京都市は、七月二十八日自治省に対する古都税条例の許可申請を京都府に提出した。府は、八月二十五日付けでこれに意見書を付けて自治大臣に進達した。
第三部 自治省の認可をめぐる攻防
第三部 自治省の認可をめぐる攻防
昭和五十九年八月~六十年三月
古都税の許可申請が自治省に提出されたことにより、仏教会は天竜寺の提案で、自治省に大きな影響力をもつ自民党代議士にはたらきかけた。この代議士は関牧翁天竜寺管長の個人的な信者であり、京都の有力寺院ともつながりがあったため、仏教会に理解を示し、天竜寺において仏教会との会談が持たれた。
この代議士は古都税間題について市を批判し、自ら自治省にはたらきかけることを約束し、仏教会の反対運動を激励した。その後、仏教会は事務局を通じこの代議士と連絡を取り、様々な政治的助言を受けるようになった。
仏教会は、自治省の認可を遅らせるよう依頼する一方、僧侶による各宗派単位の自治省への陳情を繰り返したため、十二月に入っても認可はおりなかった。
この時仏教会にとっては、できるかぎり認可を遅らせることで、翌年に市長選を控えた京都市に圧力をかけ、反対運動の持続を図る以外、将来にわたっての具体的な反対運動の展望はなかった。しかし年末には、これ以上認可を引きのばすことは困難な状況になり、自民党代議士は、更に強固な反対運動を起こす必要があることを示唆した。
仏教会にとって取り得る最後の手段は、寺の門を閉ざす以外に無く、京都市との交渉や、面会は一切断ち、自治省が認可を下ろす口実を作らないことであった。しかし拝観寺院が寺の門を閉ざすことによって自ら被むる経済的打撃と、世論の批判を考えると、仏教会がこれに絶え得る信念と結束力を持てるかどうかは疑問であった。
昭和六十年一月四日、今川市長は古都税を四月中に実施したいと言明し、京都市古都税推進本部を設置して、徴税に向けての内部準備を進める一方、反対寺院に対する面会を求め、自治省による早期認可の条件づくりを始めた。
京都市との一切の交渉を断つことを申し合わせていたにも拘らず、天竜寺は、一月四日密かに市長との会談をもつなど、結束の乱れを見せた。話し合いの内容はどうあれ、仏教会の指導的立場にあった反対寺院のトップが、この時期に京都市との話し合いの実績を作ったことは、反対運動にとって不利な状況を作った。
一月十日、仏教会は自治省が条例を認可した場合、二十四ケ寺が全面拝観停止に入ることを発表、数度にわたって自治省を訪問し「税が実施されれば拝観停止に踏み切る、条例の認可をしないでほしい」と訴えた。一月二十六日、自治省を訪れた松本理事長ら仏教会幹部に対し、古屋自治大臣は「もう少し話がつくまでは判は押さない」と答え、続いて面会した藤尾自民党政調会長も「半年か一年、私が預かる」と確約したため、条例の認可は当分凍結状態におかれる見通しとなった。
このため京都市は自治省に説明を求めたが、「あくまで話し合いによる解決が先決である」という解答を得るに留まったため、三十一日今川市長が上京し、古都税の早期認可を改めて要請した。同時に東京で市長、市会四派、地元国会議員合同による会議がもたれ、自民党府連会長植木光教氏が、事態打開のため第三者あっせんを提案し、二月九日、斡旋者として奥田東元京都大学学長、大宮隆京都商工会議所副会頭、栗林四郎京都市観光協会会長の三名、相談役として、林田京都府知事、植木自民党府連会長、藤尾自民党政調会長による「古都保存協力税問題斡旋者会議」が設置された。
この会議には相談役として藤尾氏が名を連ねており、「話し合いによる解決」という藤尾氏の意向もあって、仏教会としては苦しい判断を迫られたが、いったん条例を凍結状態にしておいて、京都市側の人選による斡旋者会議によって一気に条例施行の方向づけがなされようとしているのは明らかに思われた。仏教会は「この会議を設置した植木氏は、過去一貫して古都税賛成の態度を表明し、かつ施行に向けて動いてきた。したがって、同氏の設置した斡旋者会議には信が置けず、一切認められない」として、これを拒否した。
二月十八日仏教会会長以下理事長らは、東京に藤尾氏を訪ね、斡旋者会議は認められないことを説明したが、斡旋者会議は相談役の植木氏を外し、藤尾氏も「とにかく話し合いをやれ」と強い調子で要請したため、十九日開かれた仏教会の会議においては、これ以上、斡旋者会議を拒否しつづけることは出来ない、という方向に向かった。
しかし会議の後、姿を見せた西山正彦氏(三協西山社長・第四部で詳述)は、仏教会の決定に対し、「斡旋者会議を受け入れることは仏教会の全面敗北につながる。藤尾氏や自治大臣の意向を受け入れようと拒否しようと、自治省の判断には関係なく、いずれ条例を認可するだろう。この間題は最終的には地元での解決しかなく、ここに至っては中央の政治家とは一切関係を断つべきである」と主張したため、仏教会は条例の認可を恐れる余り、状況判断が間違っていたことに気付き、斡旋者会議を拒否する方針を固めた。
斡旋者会議を拒否した仏教会は、自治省裁定である京都市との話し合いの実績作りは避けられず、市との直接交渉を申し入れた。最初はこれを拒否していた京都市も、二月二十六日いきづまった斡旋者会議が、市と仏教会の直接会談を提案したことにより、これを受け入れ、三月一日、京都ロイヤルホテルにおいて京都市と仏教会の公式会談が開かれた。仏教会は事務レベルの会談を引き伸ばし、いずれは訣別すべきものと考えていたが、京都市はトップ会談を要求していた。しかし三月六日、市議会において、今川市長は「自治省の許可も近々下りる見通しである。早急に仏教会のトップと会談し新年度当初から税を実施したい」と答弁したため、三月八日、京都ロイヤルホテルで開かれた第三回事務レベル会談で、会議の途中、別室で待機していた仏教会のメンバーが会議室に入り、大島亮準師が声明を読みあげ訣別を宣言した。
市長の税実施が近いことを示唆する答弁などで、拝観停止が避けられない状況であると判断した知恩院や大覚寺は拝観停止へのためらいを見せ、仏教会は結束の乱れを見せていた。
第四部 西山氏と反対運動の基本理念の構築
第四部 西山氏と反対運動の基本理念の構築
昭和六十年三月~四月
昭和五十八年夏、世論やマスコミの、寺院に対する様々な非難や中傷が渦巻く中、市内寺院の移転問題に絡み、住職が寺の売却金を私物化し、信者が仏教会に解決策を相談にくるという事件が起こった。事務局は、これに対応せざるを得ないと判断し、仏教会の事務局長であった鵜飼泉道師と安井攸爾師(蓮華寺副住職)は、この種の問題に詳しい僧侶の紹介で、八月頃、三協西山社長西山正彦氏にはじめて面会した。西山氏は土地問題に対して適切な助言を行ったが、古都税間題にも深い関心を示し、問題の原因は明治以後衰退を続ける既成仏教の体質にある、この反対運動を為し遂げることの難しさを指摘した。
西山氏が今後の反対運動に、少なからず助けになると判断した鵜飼師と安井師は、その後、度々個人的に相談を持ち掛けるようになり、松本理事長にも引き合わせ、松本師が協力を要請したところ西山氏はこれを快諾した。ただし西山氏が古都税問題に深く関わりはじめたのは昭和六十年に入ってからであった。当時西山氏の存在は会長、一部理事など数名の幹部が知るのみで、西山氏との接触は鵜飼師、安井師、佐分宗順師(当時銀閣寺執事)大西真興師(清水寺執事長)が当たった。
西山氏とこの四人の会議は、清水寺門前会の田中博武氏を加え頻繁に持たれるようになり、僧侶の在り方、政治と宗教の関係、運動論、組織論等の激しい議論が戦かわされ、深夜に及ぶ話し合いが続けられるようになった。西山氏はこの会合の中で、(1)反対運動を貫くためには信頼のおける僧侶の実働部隊が必要である、(2)京都市が正規軍としたならば仏教会がこれに対抗するためにはゲリラ作戦以外に無い、(3)この会合は公けにしないこと、したがつてマスコミとの個々の接点は断つこと、(4)この会合で得た結論は松本理事長以下必要とする幹部に進言し、理事会、対象寺院会議に諮ること、等の必要性を説いた。そこで大西氏の推挙により清滝智弘師(広隆寺貫主)をメンバーに加え、この七人によって運動の基本的な理念や、具体案が練られた。特にこの時期、相国寺の有馬頼底(金閣寺責任役員)、荒木元悦(銀閣寺執事長)両師の信頼と支持を得たことが、七人の励みとなり、反対運動の事実上の核を形成してゆくのである。
千五百年の歴史と、その中で培われた高い文化性を保ってきた仏教が、近代百年の歴史しか持たない現体制によって、その存在の基盤が簡単に揺るがされようとしている。このことに対し、その担い手である僧侶が、抵抗どころかその認識すら持ち得ず、古都税を追認し、寺院が行政の下請けとなって税の取り立てを行うことは、自らの宗教行為を否定し、仏教の再生の芽を完全に摘み取ってしまい、将来に大きな禍根を残すことになる。
西山氏と六人は、この反対運動が既成仏教の衰退の方向に軌道修正を加える一つの契機となるであろうと考えた。
具体的な抵抗の方法としての徴税拒否は、差押えなどによって税の徴収が確実に行われることになり効力がなく、第三機関による徴税も、自分の手を汚さないだけで結果は同じことになる。また無料拝観や志納金方式は、京都市にとって歓迎すべきことで、紛争は長引き、従業員を多数抱える寺院にとっては長期間、もちこたえることは不可能である。裁判闘争も反対運動の一側面にはなり得ても、時間がかかり、根本的解決は難しいであろう。仏教会が打ち出した拝観停止こそ、古都税に抵抗できる唯一の方法であり、たとえ世論の批判を正面から浴ぴたとしても、仏教の根幹が揺るがされている状況下においては、一時的閉門も止むを得ない。しかし、何の解決策もない、無闇な拝観停止は避けるべきであり、短期間で最大の効果を得なければならず、目前に控えた市長選挙を目安として具体的戦略が練られた。
拝観停止の混乱の中で市長選挙を迎えたなら、古都税間題は選挙の争点となることは避けられず、強行実施を訴える今川氏は苦しい選挙戦を強いられることになり、古都税反対を打ち出す共産党の市長を誕生させる可能性もある。しかし、たとえ共産党の市長が誕生したとしても、議会において与党の了解を得るのは難しく、古都税間題の解決は長引くであろう。やはりこの問題は、今川現市長が解決するほかはないと仏教会は考えた。自民党をはじめ与党勢力が、今川氏を市長候補に擁立するとは限らなかったが、今川氏以外の有力な候補を擁立するためには、古都税問題の解決が前提であった。仏教会にとって早すぎる解決は、今川氏以外の候補の擁立を可能にすることとなる。その場合は実質的に、和解交渉の相手を失い、選挙後の見通しが立たなくなってしまう。また選挙後の解決を待っていたのでは、前述のように今川氏が市長に当選する可能性が危ぶまれる状況であった。
西山氏は拝観停止によって今川市長を追い込み、市長選挙直前に一気に解決を計る方針を打ち出し、次のような解決策を提案した。
「古都税対象寺院は十年間拝観停止を続け、これに変わり、仏教会が古都税対象寺院に依頼して拝観業務を行う。その収入の一部は寄付金として京都市に収め、一部は仏教会の運営費に当てる、残りは各対象寺院に寄付金として還元する」寺院に変わって仏教会が拝観業務を行うこの方式は、古文協が春秋二回、未公開寺院に依頼して拝観業務を行っているのをヒントに、西山氏が考え出したものであった。この方法により、古都税対象寺院は徴税を行う必要はなく、仏教会は徴税義務者に指定されていないため、京都市に収めるお金は名実ともに寄付金となる。京都市にとっても条例を撤廃する必要はなく、寄付金としての収入は得られる。仏教会にとって、これ以外の解決の方法は考えられなかった。そしてこの案を実行するためには、仏教会を財団法人化し、責任ある組織にする必要があった。
仏教会財団法人化の方針は、すでに昭和五十九年三月に打ち出されてたが、そのための基金が集まらず、設立準備委員会は何等成果を上げないままであったので、清水寺をはじめ有力寺院に基金出資の依頼を始めた。
この財団法人の役員は、出資した寺院の代表者が、理事等として責任を負わなければならず、従来の仏教会の名誉職的役員ではなく、責任と実行力のある役員でなければならなかった。そこで仏教会は、理事長以下幹部の了解を得て、昭和六十年三月二十七日、京都ロイヤルホテルにおいて京都府・京都市両仏教会の合同役員会を開き、両仏教会を統合して、京都仏教会と称し、四月一日から発足することを決め、次のような新役員を決定した。
(以下、統合後の組織も仏教会と記す)
[会長]東伏見慈洽・青蓮院門主
[理事長]松本大圓・清水寺貫主
[常務理事]有馬頼底・鹿苑寺(金閣寺)責任役員、大島亮準・三千院執事長、清滝智弘・広隆寺貫主
[理事]荒木元悦・慈照寺(銀間寺)執事長、大西真興・清水寺執事長、片山宥雄・大覚寺宗務総長、多紀顛信・妙法院執事長、田原周仁・天竜寺派宗務総長、長尾憲彰・常寂光寺住職、京都市内の支部長会代表一人、府内の単位仏教会代表
[事務局長]鵜飼泉道
[文観税(古都税)対策委員会]委員長松本大圓理事長、副委員長大島亮準常務理事・田原周仁理事
仏教会は、自治省の認可がおりれば拝観停止に入るとしていたこれまでの方針を、市長選挙告示日から拝観停止に入るという方針に変え、三月十七日、これを発表し、市長選に照準を合わせて、拝観停止の準備を始め一方、西山氏は水面下において、彼の人脈によって今川市長との接触を計画した。この水面下の交渉には西山氏と大西真興師が当り、組織固めと対象寺院への説得は、清滝師・安井師・佐分師・大西師が当ることにした。
また西山氏の存在や、この会議で話し合ったことが表面化すれば、この計画の遂行は不可能になるため、絶対的な秘密の厳守と、報道機関との接触を避けることが必要であった。報道機関への対応は、従来通り鵜飼事務局長が当ることにしたが、鵜飼氏は個人的にも報道機関との接触が頻繁であったため、このメンバーには参加しないことを決めた。
(この時期、古文協の理事長解任をめぐって、古都税反対寺院から出されていた藤田理事長の再任無効仮処分申請に対し、大阪高裁は三月二十三日これを認める決定を下した。藤田氏は理事長を辞任し、二年にわたる古文協の紛争は終結した。)
三月に入っても自治省の認可がおりず、京都市は三度、条例の四月実施を見送らざるを得なかった。斡旋者会議の仲介も成果を上げず、藤尾自民党政調会長が事態打開のため清水寺に赴いたが、松本氏は不在という理由で面会を断った。ついに斡旋者会議は、四月三日第六回目の会合で、「今後、役立つことがあれば何時でも微力を尽くす」としながらも事実上斡旋を打ち切ることを決めた。自治省は斡旋の打ち切りにより、四月十日「条例実施は許可日後ニケ月の停止期間を付ける」という異例の条件付きでこれを認可した。京都市はこれを受け、停止期間の切れる六月十日に実施する方針を明らかにした。
第五部 第一次拝観停止と和解交渉
第五部 第一次拝観停止と和解交渉
昭和六十年四月~八月
西山氏が計画した今川市長との水面下の交渉は、昭和六十年三月下句ごろ実現し、宇治宝寿寺に於いて、西山氏と大西師が今川市長と会談した。
西山氏は寺院が金銭のために古都税に反対しているのではないこと、寺院は税を絶対に認めるわけにはいかず、そのためには、脱落寺院は出るだろうが、有力十数ケ寺は確実に拝観停止に入る覚悟であることなど、寺の実状を説明した。今川市長は城守助役などから得ていた情報と食い違いがあることを知り、何とか円満に解決する方法を見つけたい意向を示した。その後、この水面下の交渉は、電話での話し合も含め十数回にわたって持たれることになり、その都度、西山氏から会長、理事長をはじめ、おもだったメンバーには、詳しく報告がなされていた。
城守助役が行政権力によって寺院に圧力をかける一方、有利な条件を提示することによって、寺院側が、いとも簡単に前言を翻し京都市に協力した事実を背景にして、いずれは反対運動が挫折すると考えたのも無理はなかった。事実、税実施を控え、拝観停止が現実のものとなるに従い、目前の利害や様々な団体からの圧力によって、自らの判断を放棄する寺が出てきており、このままでは五月雨式に寺院が脱落することによって、ますます京都市を勢いづかせ、反対運動内部の不安をつのらせるだけであると思われた。このため、仏教会としてはこれらの寺院に見切りを付け、最後まで戦う意思と自覚のある寺院に絞って、相互の結束をはかる以外はなかった。
清瀧師ら四人は各対象寺院をまわり、寺院の結束を求めた。西山氏との会合で方向づけられた具体的な解決策は話すことができなかったが、(1)拝観停止以外この税をくい止めることは出来ない、(2)長期間の拝観停止はお互いに望むものではない、(3)寺院のゆるぎ無い結束こそ、この問題を早期解決に導く等を上げ、寺院の決断を迫った。このとき対象四十社寺の態度は次のようであった。
平安神官、東寺、化野念仏寺、退蔵院(妙心寺塔頭)、大仙院(大徳寺塔頭)の五社寺は当初から京都市に協力を明確にしていた。神護寺も基本的には協力、醍醐寺は「覚書」問題が解決すれば協力するとしていた。勧修寺、城南宮、仁和寺等は古都税に反対を表明していたがいずれは徴税するものと見られていた。瑞峯院、芳春院(いずれも大徳寺塔頭)永観堂は徴税拒否、竜源院、高桐院(いずれも大徳寺塔頭)は税金分を拝観収入から市に協力金として支払うとしていた。仏教会の方針に加わっていたのは、青蓮院、清水寺、三千院、金閣寺、銀閣寺、天竜寺、竜安寺、妙法院、大覚寺、知恩院、南禅寺、曼殊院、泉涌寺、東福寺、寂光院、常寂光寺、広隆寺、高山寺、金地院、詩仙堂、随心院、二尊院、蓮華寺であった。このうち竜安寺、知恩院、詩仙堂等は拝観停止はできず、反対派の急先峰であった天竜寺も拝観停止を前に脱落した。
一方、西山氏らとの会合で、反対寺院の拝観停止が確実であることを知っていた今川市長は、条例の六月実施は不利と考え、六月一日、条例施行を十月一日に延期することを発表した。仏教会は選挙告示日からの拝観停止を決めていたが、条例施行が四ケ月近く遅れることにより選挙前に拝観停止に入る理由を削れてしまい、紛争を長引かせる状況となった。しかし仏教会は選挙告示日からの拝観停止の方針は変えないことを決め、西山氏は今川市長に、「条例施行を遅らせることはいたずらに紛争の解決を長引かせることになる。仏教会の選挙告示日からの拝観停止の方針は変わらない」ことを伝え、七月十日実施を打ち出すよう説得した。いったん打ち出した十月施行をさらに変更することを渋っていた今川市長も、六月七日、西山氏の自宅で説得に応じ、七月十日実施の腹を固め、その足で市役所に赴き「仏教会は私の真意を理解しようとしない、怒り心頭に発した。」として、七月十日実施の方針を発表した。今川市長の突然の変心に、助役を初め市役所内部は混乱したが、京都市は税施行の準備を進め、六月十三日、古都税規則を公布、法制面での準備を完了した。さらに対象寺院に対し特別徴税義務者の指定を受けるよう求めてきたが、仏教会はこれを拒否したため、七月一日、市は古都税徴収指定通知書を送り、税付観賞券を配布した。仏教会所属の十八ケ寺はこれも受取を拒否した。また、清水坂を中心とする門前観光業者は、新聞に意見広告を出し、街頭で「古都税がなくなれば拝観停止もあり得ません。」という内容のビラをまき、古都税条例反対運動を展開した。
この間、西山氏、大西師は今川市長との接触を重ね、和解案としての西山試案を説明した。今川市長はこの試案の受け入れに迷っていた。しかし、八月の市長選挙に向けて、自民党の市長候補は確定しておらず、今川氏以外にも有力な候補者が考えられていたが古都税問題が障害となって、他の候補者の擁立が難しい状況であった。今川氏にとって、古都税紛争の存在こそ、市長候補となるための条件であり、選挙直前に、自らこれを解決することで選挙戦を優位に運ぶことができると考えられた。そこで今川氏は西山試案を受け入れ、相談の結果、仲介者として今川市長が信頼している斡旋者会議のメンバーである大宮氏と連絡を取ることにした。五月、西山氏は鵜飼事務局長に命じて大宮氏と連絡を取り、大西師と共に会談を持った。西山氏は問題解決のため、大宮氏に協力を求め、大官氏は「拝観停止を避けるためなら、いかなる努力も厭わない」と述べ、両者は古都税問題の解決のため、今後も引き続き話し合うことを決めた。
仏教会は、七月十日の条例施行日を控え、八月十日の選挙告示日の拝観停止までの期間は、無料拝観でこれに対処することにした。このとき拝観停止の意思を表明していたのは金閣寺、銀閣寺、南禅寺、金地院、蓮華寺、曼殊院、三千院、妙法院、青蓮院、清水寺、東福寺、随心院、広隆寺、二尊院、常寂光寺、高山寺、寂光院であったが、この内、妙法院、高山寺、寂光院は拝観停止に対して内部にためらいがあった。無料拝観は、これらの寺が脱落するのを防ぐためでもあったが、強行に拝観停止を主張する寺院は、予定を繰り上げ、七月二十日広隆寺、蓮華寺が拝観停止に突入したのを皮切りに、青蓮院と曼殊院、二十五日からは南禅寺、金地院、東福寺が閉門、さらに二十九日には清水寺、金閣寺、銀閣寺、三十一日三千院、二尊院が拝観停止に突入した。
拝観停止寺院が続出し、寺院が協賛している大文字の送り火の点火も危ぶまれる状況になり、観光客が激減し、門前はゴーストタウンと化した。
門前業者は市内に何台もの宣伝カーを走らせ、古都税条例反対を訴えた。右翼団体は閉門寺院の門前に連日のようにおしかけ、開門せよとがなりたて、市内の旅館主が市長宅に爆弾予告の電話をかけるなど、市内は騒然とした状況であった。七月三日には今川氏の市長選挙出馬が確定し、選挙を目前に控え市内の混乱は増していった。
六月以降続けられていた、西山氏と大宮氏の会合は、最終段階に入り、和解案の骨子が出来上がり、寄附金の額も内定したため、大宮氏はこの案をもって、今川氏の説得に乗り出した。一方西山氏は、今川市長との交渉により、和解内容と寄附金額について既に了解を取り付けていた。そして、和解の仲介者として、大宮氏、奥田氏、栗林氏を、立会人として、自民党府連幹事長で市会議員の津田幹夫氏を立て、京都市側は市長、城守助役、仏教会側は東伏見会長、松本理事長、清滝常務理事、大西理事の出席を決めた。
八月八日、仏教会は対象寺院十九ケ寺を相国寺承天閣に集め、有馬頼底常務理事が初めて西山氏を全員に紹介し、東伏見会長以下四名は京都市との和解のため、調印の会場である京都ホテルに向かった。調印後、和解の内容を出席寺院に説明し、了解を求める予定であったが、調印の場で、今川市長が和解内容の公表は選挙が終わるまで待つよう強く要請したため、松本理事長は今川氏を信じ、これを受諾した。この結果、承天閣において出席寺院に対し、和解内容の説明ができなくなり、不満を持った南禅寺は退席した。突如現れた西山氏への不信もあったが、松本理事長が、「和解内容の説明は選挙後になろが、明日から開門していただきたい。和解は私の責任において成立した。状況はこれ以上悪くならないので、私を信頼願いたい」と述べ、常寂光寺以外の寺は了解した。この日成立した約定書は次のようなものであった。
約定書
大宮 隆
栗林 四郎
また「約定金とは斡旋者会議の裁定金額とする」と定めた約定書第八項により、斡旋者から寄附金額を定めた念書が松本理事長に手渡された。その念書は次のとおりであった。
(一)十九ケ寺を含む財団法人京都仏教会を作る。
(二)十九ケ寺は向こう十年間拝観を停止する。財団法人が拝観を停止した寺院に申し入れて拝観料等を取扱い、財団法人の収入とする。
(三)財団法人は市と約定した金額を向こう十年間市に寄附金として支払う。
(四)市は右寄附金を古都税収入として受け取る。
(五)財団法人は各寺の許可を受けて拝観料等として受け取った金額を古文化保存費用として便用する。
(六)市はこの財団法人を市条例第八条による特別徴収義務者に指定しない。
(七)財団法人が設立された上は財団法人が拝観料等を徴収し、各寺は財団法人が発行した拝観券を持参した者にかぎり拝観を認める。
但し財団法人が設立されるまでは財団法人設立準備委員会がこの業務を代行する。
(八)第三項の約定金とは斡旋者会議の裁定金額とする。市と仏教会は斡旋者会議の決定に従うものとする。
(九)市と仏教会との約定金の使途については諮問委員会を設けてこれに諮問する。諮問委員会の構成は次の通りとする。
市側三名、学術経験者二名、仏教会五名、計十名
昭和六十年八月 日
市長 今川 正彦
京都仏教会 理事長 松本大圓
立会人 奥田 東
念書
市と仏教会との覚書き第三項の「約定した金額」とは金二億八千万円であります。
但し十九ケ寺の一般拝観者人数は年間約九百万人を基準としたもので、年々人数が増加した場合はこれに応じて増額されるべきものであります。
昭和六拾年八月 日
斡旋者 奥田 東
栗林 四郎
大宮 隆
松本 大圓 猊下
(この約定書の公表については市側より選挙が終わるまで待つよう強い要請があったため、和解に就いては、斡旋者に一任するという形で合意が成されたことにし、選挙後、約定書の発表の日を以て、和解の成立とすることにした。このため約定書には、日付については八月とだけ記された。 寄付金額については西山氏に一任してあり、仏教会側は松本理事長、大西師以外は知らされておらず、この念書は封をされたまま保管されていた。 この約定書の内容は、当初西山氏が構想したものとほとんど変わらず、寄附金の使途についても仏教会の意向を反映させることができ、仏教会にとってはすでに税に協力している寺院がある以上、これ以外の解決の道はなかった。)
第六部 市長の契約不履行
第六部 市長の契約不履行
昭和六十年八月~十一月
和解内容を公表できなかったことで、仏教会のやり方が不透明であるとしてさまざまな不満を持つ寺院が出た。その一つである常寂光寺の長尾憲彰師とは、清瀧師ら四人が数回に渡り話し合った。長尾師は「市長選において市民の審判を待ち、まず京都市政の浄化を図り、新しい市長で問題解決を計ること」を主張したが、四人は「古都税問題の解決が仏教会の目的であり、市政の浄化は仏教会の力の及ぶところではない。また、古都税問題の是非は、市民による判断ではなく、僧侶自身が判断すべきである」として、決定的な意見の会い違いをみせた。
常寂光寺は、八月八日、和解のための対象寺院会議において、この和解に同意できないことを表明し、八月十日予定通り拝観停止に入り、二十二日には仏教会を脱会した。第三者の介入に不満をもった南禅寺・金地院も同日仏教会を脱会した。和解により八月九日、閉門寺院が一斉に開門し、古都税間題は一挙に解決に向かったため、選挙戦で古都税問題は争点とならず、今川氏は八月二十五日、余裕の再選を果たした。
和解以後、仏教会弁護団の一部が和解内容を明らかにするよう要求していたが、今川市長との約束により、これを明らかにすることが出来ず、二十六日、清水寺において松本理事長から正式に市と和解したことを報告したが、この説明会の後、弁護団は役割はなくなったとして辞任・解散することを発表した。
八月二十八日、大覚寺も和解を不満として仏教会を脱会することを決めた。また二十九日には鵜飼事務局長が、知らされていなかった和解を不満として、仏教会事務局の職員を引き連れ辞任した。仏教会は、鵜飼師の辞任により、報道機関への対応を清瀧師が受け持つことを決め、小松玄澄師を事務局長に、長澤香静師を事業部長に迎え、事務局の立て直しを図った。
この頃、仏教会の支部長らは、仏教会の運営の在り方を不満とし説明を求めていた。理事会は「正規の決議機関を経て意思決定が成されており、要請があればいつでも説明の用意がある」として九月十七日に説明会を持つことを決めていた。ところが十一日付けの新聞に、松本理事長の談話として「退会寺院が出ているのは、自然淘汰のようなもの」と報道されたため、京都市内の八支部長は会議を開き、要求していた説明会を放棄し、松本理事長以下執行部の辞任を要求することを決めた。理事会はこの退陣要求は会則の上からも全く効力のないものであるとして、十七日付けで各支部長宛に解答を送付した。
これらの仏教会執行部に対する攻撃や、事務局長の辞任により新事務局の引継ぎがスムーズに行われなかったため、一部混乱もあったが、組織の立て直しは着実に進んだ。九月二十六日、長尾師や大覚寺の片山師に続き、妙法院の多紀事務長等が、部外者介入による和解に不満を持ち理事を辞任したため、新理事として市橋真明・随心院執事長、五十部景秀・海蔵院(東福寺塔頭)住職、羽生田寂裕・二尊院住職、新監事として松浦俊海・壬生寺住職を選出した。
ところで一方、和解案は、斡旋者に一任という形で、市長選挙後に斡旋者から、約定書として公表する予定であったが、九月に入っても公表されなかった。仏教会は「正規の約定書を反古にすることは許されず、約束した公表期日はすでに過ぎている」として、仏教会の意思を斡旋者に伝えるよう西山氏に求めた。西山氏は(1)斡旋者としての大宮氏を信頼している、(2)仏教会は信義を重んじ、一方的な公表は避けるべきである、(3)斡旋者の解散もしくは市が徴税を始めるようなことが生じたとき、これを発表しても遅くはない、(4)現時点では、開門中であり、相手側の出方を待つべきである、(5)このまま放置しておけば、困るのは京都市である、と述べ和解書の公表を待つよう要請したため、仏教会はこれを了承した。
この間、京都市は八月分税納付期限の九月十七日に、仏教会十五カ寺に対する税納付書類の送付を断念し、九月分も見送らざるを得なかった。斡旋者はその後、八・八和解文書について自治省等と相談するなどいろいろ検討したが、この約定書では、割当的寄附金を禁じた地方財政法(四条五項)に抵触し、履行できないという理由で、新たに修正された和解文を内々に提示してきた。その内容は次のようなものであった。
(一)仏教会は財団法人京都仏教会をつくるものとする。
(二)財団が設立された場合に拝観停止をしている寺院で財団と約定したものについては、財団が拝観料等を取扱い、財団の収入とする。
(三)財団は古都税相当額を特別徴収義務者であるその寺院に代わって協力金として市に納付する。この場合、市は財団を条例第八条に
よる特別徴収義務者に指定しない。
(四)市は(三)の協力金を古都税収入として受け取る。
(五)財団は、各寺院の許可を受けて拝観料等として受け取った金額を古文化保存費用として使用する。
(六)財団が設立された上は、各寺院は財団の発行した拝観券及び条例で定める観賞券を持参したものにかぎり拝観を認める。
(七)市は関係社寺等に対し、文化財保護の助成等のため、一定の金額を交付する。
(八)市は古都税の使途については、関係者によって構成される諮問委員会を設けてこれに諮問する。
(九)財団が設立されるまでの間は、財団法人設立準備委員会がこの業務を代行する。
(十)準備委員会が発足し業務を開始するまでの間は、各寺院が直接、古都税相当額を納付する。
(十一)斡旋案の細部については、当事者間で協議する。
この和解案では、形式的には財団法人化された仏教会が、各寺院に代わって拝観業務を行うことになっているが、その第六項により、拝観に際し、仏教会の発行する拝観券と市の発行する税券両方を持参するものにかぎり、拝観が認められるため、市は条例の施行が可能になり、八月八日交わされた約定書による「寺院は一切徴税行為をしない」という和解の精神に根本的に反するものであった。この案は仏教会にとって、到底受け入れられるはずのないものであったが、斡旋者はとりあえずこの案を発表することで責任を果たす意向であった。
市議会与党は、斡旋者による解決には基本的に反対しており、税条例の完全施行を求めて市長を突き上げたため、定例市議会を前に、斡旋者は第二斡旋案の発表を急ぎ、十一月十一日、市長および仏教会にこれを提示した。京都市はこれをうけ、受諾の方向であったが、仏教会は態度を保留し、対象寺院会議が開かれた。会議には、清水寺、金閣寺、銀閣寺、青蓮院、三千院、広隆寺、二尊院、曼殊院、蓮華寺、東福寺、泉涌寺、隨心院、寂光院の十三力寺の他、西山氏が出席、大宮氏から第二斡旋案の内容の説明を受けたが、寂光院を除く十二カ寺はこれを拒否した。以前から仏教会幹部は第二斡旋案について検討を重ねていたが、西山氏は「この第二斡旋案を拒否すれば、八・八以前の状態、即ち再び拝観停止に入らなけれぱならない。この第二案を受け入れれば仏教会の財団法人化は可能になり、組織力の充実を図った上で、戦いの方向を探ることもできる」として寺院の決断を求めた。松本理事長を始め仏教会幹部は、「八・八の約定書を反古にすることは許し難く、これを公表すべきであり、再び拝観停止を以て抵抗し、たとえ脱落寺院が出ても清水寺、金閣寺らは最後まで戦う」との決意を固めめた。そこで斡旋者に対しては、八月八日の約定書の発表を求め、和解の精神にそぐわないとして解答を留保し、斡旋者会議が解散したときには、これを発表することを決めた。
斡旋案の提示を受けて、仏教会が解答を留保するなか、京都は理財局が徴税作業を開始し、十三日税納付書を十五ケ寺に持参した。仏教会所属の十三ケ寺は受け取りを拒否したが、妙法院と高山寺は拝観停止を恐れこれを受理し、続いて寂光院も拝観停止できないことを表明して、理財局に帳簿を提出した。
十一月二十五日、京都市は仏教会所属の十ニケ寺の門前において、実態調査のための拝観者数のカウントを始めたが、境内立ち入りを拒む寺側と市職員の間で小競り合いが生じ、境内でのカウントは思うようにできなかった。十一月二十六日、斡旋者会議は斡旋を断念し、解散したため、仏教会は清水寺大講堂で記者会見し、次のような声明を発表し、前述の八月八日の約定書を公表した。
声明
昭和六十年十一月二十六日
京都仏教会 理事長 松本大圓
本日斡旋者会議が解散致しましたので、仏教会は八月八日以来の真実の経過と今後の方針を発表致します。
一、八月八日に、仏教会に対する徴収義務者の免除を斡旋者会議より呈示されましたので、別紙の和解書を受諾することにより仏教会は拝観停止を中止致しました。八月八日時点において本約定の公表を仏教会は強く要求したにも拘らず、斡旋者会議は京都市長及び自民党府連幹事長・津田幹夫氏の要請を受け入れ京都市長選挙終了まで発表を禁止致しました。その理由は、本約定が条例の改正を必要とすることを市長が認識されたためでありました。
一、八月八日の約定の履行をせず、無責任にも斡旋者会議が解散致しましたが、我々は斡旋者会議及び京都市長に、本約定の履行を強く要求致します。
一、斡旋者会議及び京都市長が、本約定を履行しないならば我々は、来る十二月五日より、八月八日以前に戻り、拝観を停止致します。釈尊の弟子として税の取り立て人になるという万死にあたう恥辱を考えれば、八月八日以来の仏教会に対する非難、中傷にも平然と耐えてまいりました。京都市が、再ぴこの約定を反古にする挙にでた今、我々は仏法の大義と誇りに殉じ山門を閉じねばなりません。
一、自らの選挙の勝利のために、斡旋者会議及び京都市長は、再び仏教会に虚言を弄し、市民を欺き、京都に未曾有の大混乱を引き起こしたことに対し、全責任を追わねばならない。
この発表により、二十九日より始まった定例市議会において、今川市長は八・八和解について与野党から政治責任を追及されたが、(1)八・八約定書については正式の斡旋案までの試案である、(2)西山氏と直接交渉を行ったことはない、(3)寄付金額を記した別文書については承知していない。(4)市議会、市民に不信を与えた点は申し訳ない、などと虚言と陳謝の答弁を繰り返し、古都税条例の完全実施を強く訴えた。
この時期、裁判においては「古都税条例は信教の自由を犯し、憲法に違反する」として、仏教会加盟の十九ケ寺が、京都市と今川市長を相手に条例の無効確認と税新設行為の禁止などを求めた控訴審で、十一月二十九日、大阪高裁が、控訴を棄却、訴えのすべてに対し、門前払いの判決を下した。
前任弁護団全員が八・八和解直後に辞任をしていた為、仏教会は京都の芦田弁護士事務所と大阪の樺島弁護士事務所に依頼し、新たな弁護団を結成したが、芦田弁護士が辞任したため樺島、仲田、太田各弁護士が仏教会顧問弁護団となった。
第七部 第二次拝観停止と開門への努力
第七部 第二次拝観停止と開門への努力
昭和六十年十一月~六十一年七月
仏教会は、十一月二十六日発表した声明に基づき十二月一日、まず蓮華寺、広隆寺が二度目の拝観停止に入り、五日より一斉に各寺院が閉門する予定であった。清水寺の松本貫主は自ら指揮を取り、門前に鉄柵を設け、完全拝観停止の準備を完了していたが、三日夕、突然、大西執事長に対し閉門をしたくないという意向を伝えたため、驚いた大西師は清瀧師、西山氏に相談し、四日朝、松本貫主と清瀧師、大西師、安井師、西山氏が清水寺・成就院で緊急会議を行った。松本師は席につく間も無く「仏教会理事長をやめたい。清水寺は拝観停止はしない」と述べた。清瀧師は「すでにニケ寺が拝観停止に入っており、各寺も五日には確実に拝観停止に入る。
運動の指導者である松本理事長が、自ら決定された方針を今となって何の理由もなく、突然覆すのは敵前逃亡であり、他の寺院に対し、どう責任を取るのか」と諌めたが、松本師は「他の寺はどうなろうとも私の知ったことではない」と言い「私はやめたい」と繰り返すだけであった。西山氏は、松本師の背信による運動への影響の大きさを説明し、「古都税に反対する寺は皆、リーダーである松本先生の背中を見て、ここまでついてきた。開門するならば、各寺院に対し納得のいく説明をし、あなたを信じ、ついて来た寺の開門を見とどけてから、清水寺は開門すべきである」と説得した。
午前中から始まった会談は夕暮れまで続いたが、松本師は突然涙を流し「本当は私も最後までやりたかった」と述べたため、大西執事長も「それならば皆と一緒にやりましょう」と合意し、松本師は直ちに一山会議を招集した。松本師は一旦自坊であろ宝性院に戻り、夕刻より一山会議が開かれた。
しかし結果は松本師が再度態度を変えたため、会議は混乱し、とりあえず閉門作業を続けるということで散会した。度々変化する松本師の態度に不審を持ちながらも会議の結果を待っていた清瀧師・安井師・西山氏の三人は報告を受け、松本師が精神的に動揺しており、これ以上の話し合いは無駄であると判断した。翌日、松本師は警察病院に入院したが、他の寺院にはこの間の事情の説明が出来ず、五日には予定通り十ケ寺が第二次拝観停止に突入した(後日、松本師の動揺の原因は、易占いによるものであることが判った)。清水寺貫主の豹変に対し、一山寺院は激しく反発し、その後非公式に仏教会、清水寺一山、有力信徒総代による会談が持たれた。指導的立場としての清水寺の責任を問うた仏教会に対し、一山及び信徒総代は、「他の寺院を見捨てて、清水寺だけが開門することは信義上できない」として仏教会の方針通り、閉門する事を確認した。入院中の松本師は、仏教会事務局長の数回にわたる事務報告を受け、顧問弁護士に樺島正法氏等を推挙したいと決裁を求められたのに対しても、これを了承し、理事長としての役務を遂行していた。
仏教会の方針から外れていた妙法院は十二月九日、税には根本的疑義があるが、法治国家の国民として法に背くべきでなく、税は協力金として納入すると説明し、実質的に税を納めることを表明した。妙法院のこの決定は、この条例が根本的に間違いであることを認めながら、その誤りを正すことを放棄し、その条例に屈伏するという、宗教者としての自覚を欠いた結論であった。また、三千院では年末にかけ、本山延暦寺や門前業者らによる正月開門への圧力がにわかに高まり、内部は動揺した。
師走の市内は、先行きの見通せない拝観停止に突入したことで門前町は再ぴゴーストタウンと化し、昭和六十一年正月早々には、猟銃を持った男が「市長に会わせろ」と金閣寺にたてこもる事件まで起こった。
仏教会は、京都市への攻撃材料はさまざまあったが長期にわたる拝観停止に入るなか、清水寺問題や所属寺院の脱落という事態をかかえ、苦しい戦いを展開していた。
警察病院に入院していた松本理事長は、一旦退院し、自坊の宝性院に戻ったが面会ができず、その後所在を明らかにしなかった。ところが「松本師は東京の警察病院に入院している」という情報を得たため、有馬・清瀧両常務理事は、一月二十一日急遽東京へむかった。警察病院に問い合わせたところ、松本師は入院していないということであったが、偶然病院のロビーで会うことができ、有馬・清瀧両師は「裁判に関し理事長の決裁が必要であり、今後も理事長の職務を続行して頂くため、連絡をとりたいので所在を明らかにしてもらいたい」と申し入れ理事長はこれを了解した。また、同日、新聞紙上に掲載された松本理事長の辞意表明についても問いただしたが、松本師はこれを否定した。しかし、その後も連絡はなく、仏教会内部では松本理事長に対する不信が高まり、理事長更迭が検討されるが、この時期に指導的立場にある清水寺の脱落は、仏教会にとって運動の崩壊にもつながりかねず、清水寺一山の結論を待つことにして、理事長解任は留保された。
この間、昭和六十年十二月二十六日、八・八和解が公職選挙法に違反するとして、弁護士九人らが今川市長を公選法違反で告発し、昭和六十一年一月十六日、京都地検はこれを受理した。仏教会は顧問弁護士を交え協議したが、公選法違反は市長だけではなく、仏教会もその罪が間われることになろが、両者相討ちならば、公人である市長のほうがはるかにダメージが大きいとして、しばらく成り行きを見守ることにした。
また仏教会は、条例の無効確認を求めて、最高裁に上告していた第一次古都税訴訟を二月四日に取下げ、京都地裁で審議中の、特別徴収義務者指定処分無効確認訴訟(第二次古都税訴訟)に全力を上げることにした。一方今川市長は、議会での責任追及に対し、あくまで八・八和解は試案であるとつっぱね、一月二十五日の新聞紙上で存在が明らかにされた念書についても、一切関知しないという態度を取り続けた。
所在を明らかにしないまま松本師は、マスコミに対し、支離滅裂な言動を繰り返し、一山住職に対し何の相談もなく突如開門を表明するなど、山の秩序を乱したため、これ以上放置すれば清水寺の伝統に傷がつくと判断した清水寺一山は、二月二十二日、一山会議において松本師の貫主解任を決定し、新貫主に森孝慶師を選出、拝観停止を続行することを確認した。
これに対し松本師は、一山会議は認められないとして、逆に責任役員二名(大西執事長・森孝慶師)を解任し、清水寺山内は貫主と一山側との内紛状態になった。しかし松本師は、開門に向けて外部者を雇い入れ、実力を持って強引に鉄柵を取り除くことを画策したため、仏教会としては、理不尽な一方的開門は利敵行為以外の何ものでもなく、開門するなら他の寺と同時に開門させなければならないと考えた。
西山氏は長引く膠着状態を打開し、拝観停止寺院十一ケ寺が開門できる状況をつくりだすため、二十二日、大宮氏の仲介により市長と接触し、一十五日に仏教会代表者との公式会談を開くことを決め、同日午後、記者会見で発表した。これに対し市議会与党の反対にあった今川市長は、二十四日、代表者が西山氏であることを口実に延期することを表明し、事実上この会談は成立しなかった。しかし西山氏は、再び市に話し合いを求めるため、仏教会と共に初めて自ら記者会見に望み、
(1)京都市との話し合いを開始すれば同時に拝観停止を解き無料拝観にする
(2)その間、京都市は案例を一時停止状態にする
(3)八・八和解からこれまでの経過については柔軟に対処する
という二十八日の清水寺における対象寺院会議の決定を発表した。仏教会内部には、拝観停止続行を主張し、今となっては市長との話し合いなど意味がないという意見もあったが、西山氏の強い要請によりこの方針を了承した。京都市の回答は、「寺の責任役員と話し合う」として、あくまで西山氏を拒否し、条例の一時停止も不可能というものであった。仏教会はこれ以上、市との話し合いを求めることを断念し、今後は市長の政治責任を追及するため三年前からの市長との接触の事実経過と、約定金を定めた念書の内容を公表するよう西山氏に求めたが、彼はまだ成すべきことがあり、公表は時期尚早であると主張したため保留となった。
市長が完全に当事者能力を欠いており、拝観停止による経済的影響が深刻化している中で、西山氏は観光業界に呼ぴ掛け、問題提起することで解決の糸口を見つけようとし、業界と直接話し合うことを提案した。仏教会は今更、観光業界との話し合いは必要でなく、このまま拝観停止を続けるなかで市長の責任を追及していくべきであると主張したが、西山氏は「今一度この計画を実行させてほしい。市長の責任追及はそれからでも遅くはない」と述べ、仏教会の了承を取り付けた。三月十二日、仏教会は観光関連業界三十団体に呼び掛け、清水寺大講堂で会合を持ったが、無条件開門を迫る業界側と、まず古都税の一時停止(その間寺院側は無料拝観とする)が先決であるとする寺院側の意見とは、終始平行線をたどった。十二時間に及ぶこの会合は、二十一日再度開くことを決め散会した。
二十一日午後四時から清水寺で再度開かれた会合は、業者側が前回に引き続き開門を要求したため、寺院側は退席し、西山氏が寺側の全権を委任され業者と対応し、再び十二時間に及ぶ話し合いとなった。このなかで業者側と西山氏は、古都税条例に反対することで意見が一致し、業者側は具体的な反対運動に取り組むため、小委員会を組織することを決めた。西山氏は業者を救う一時的処置として、志納金方式による開門を提案し、寺院側の合意を取り付けることを約束した。西山提案に難色を示す寺院もあったが、三月二十四日、仏教会・観光業界はそれぞれ清水寺大講堂において会議を開き、仏教会は三ケ月の期限と観光業界の全面協力を条件に、この志納金方式による開門を受諾した。観光業界は、MK(株)会長・青木貞雄氏、京都観光旅館連盟会長・野村尚武氏、清水寺門前会代表・田中博武氏らが中心となって「古都税をなくす会」を結成し、会長に京都観光土産小売商連盟理事長の今川之夫氏を選出し、この開門中に市と仏教会の話し合いを実現させるため、市および市議会に働きかけ、拒否された場合には市長・市議会のリコールも辞さないことを決めた。(西山氏の提案した志納金方式とは、古都税に反対する観光業界のメンバーが、紹介する参拝者に志納金を入れる封筒を渡し、寺はその紹介状としての封筒を持参したものにかぎり入山を認める、というもので西山氏はこの方法によって税条例の適用が難しくなると判断したのである。)
清水寺では二十五日、一山僧侶と「古都税をなくす会」のメンバー等によって鉄柵が取り除かれ、拝観停止をしていた十ケ寺のうち、金閣寺(四月八目開門)をのぞく九ケ寺がご二月三十日一斉に開門した。門前にお布施袋を渡す業者のないところは、一時混乱が起ったが、市内は観光客の賑わいが戻った。京都市は、このお布施袋による志納金方式に対し、開門は歓迎するとしながら、条例の対象となるかどうかを明確に示さなかった。
四月十一日、市会四会派(自・公・民・社)は、税協力社寺に呼び掛け懇談会を開き、古都税問題解決のため、四会派と社寺側五名の代表による協議機関を設置することを決めた。四会派は条例の凍結などの考えはなく、条例の根幹に関わらない部分での一部修正を匂わし、不公平な税施行に対し不満を持つ社寺の懐柔に努めた。
この間に、松本理事長は仏教会に辞任届を提出していたため、四月十九日、仏教会はこれを受理し、会則に従い、当面は三常務理事により理事長職を代行することを決めた。また府・市仏教会合同以来、仏教会の運営に不満を持っていた仏教会八支部長らは、新組織設立のため、会員に働きかけ、五月二十二日妙心寺、竜安寺等の本山を含め、六百二十一ケ寺と共に仏教会を脱会した。
京都地検は三月二十六日、清瀧常務理事から市長告発事件に関して事情聴取を行い、担当の矢野検事は、
(1)古都税反対運動の理由と経過
(2)昭和六十年八月八日京都ホテルにおいて市長と和解について協議がなされたか、また出席者の氏名は、
(3)八月八日に協定書が交わされたか、署名人はだれか、
(4)斡旋者会議のメンバーが同席していたか、
(5)昭和六十年十一月十一日に公表された「斡旋案」と八・八和解書との違い
(6)第二次拝観停止を行った理由
等について回答を求めた。清瀧師は、古都税反対理由と、運動の経過については文書を提出し、
(1)八月八日、京都ホテルにおいては、市長とは特に協議を行っていない、
(2)出席者は、東伏見会長、松本理事長、清瀧常務理事、大西理事、今川市長、城守助役、津田自民党府連幹事長、大宮氏、奥田氏、栗林氏である、
(3)第二文書は密封してあり、内容は西山氏しか知らない、
(4)約定書は、西山氏と斡旋者により作成された、
(5)斡旋案は信教の自由を侵害しており、八・八和解はこれを侵害していない、
等と回答した。「古都税をなくす会」は、市と仏教会の話し合いのための水面下の努力が成果を上げなかったため、市長及び市議会のリコールを断念し、六月十一日、仏教会に対し「ふたたぴ閉門していただきたい」と申し入れてきた。
仏教会はこれを受け、志納金方式の三ケ月が終了したため、七月一日から無期限の拝観停止に入ることを決めた。拝観停止に同意したのは、青蓮院、金閣寺、銀閣寺、広隆寺、二尊院、蓮華寺の六ケ寺であり、東福寺、泉涌寺、隨心院は志納金方式で開門を続行、清水寺は内紛収拾のため六月二十六日発足した護持委員会において、現行のお布施袋による志納金方式のまま開門を続行することに決定した。(護持委員会は、信徒総代三人、双方の代理人、弁護土ら七人で構成され、責任役員の権限を委譲されていた。)開門を続けられるよう努力するため、西山氏は市議会との話し合いを提案し、この提案を受け入れた仏教会は、六月二十五日、市議会四会派に対し、仏教会代理人としての西山氏と話し合いをするよう申し入れた。民社党及び公明党は出席の意向を伝えてきたが、二十七日、相国寺承天閣でもたれた話し合いには、民社党市議団の山田善一団長一人が出席し、話し合いは平行線に終わった。この時期、解決に乗り出したのは山田氏一人であり、市議会各派は自分達が議決した条例によって引き起こされた問題に対し、提案した市長一人に全ての責任を被せ、たてまえを主張し続け、自らこの問題に係わることを避けてきた。市及び市議会の、仏教会との話し合いの拒否によって、問題解決への道は封じられ、七月一日、六ケ寺は第三次拝観停止に突入、「古都税をなくす会」は解散した。
第八部 第三次拝観停止
第八部 第三次拝観停止
昭和六十一年七月~十二月
古都税実施から一年がたったが、その税収入は当初予定額の四分の一にも満たなかった京都市は、古都税納入を求め、閉門六ケ寺に対し催告書を送付した。仏教会はこれを拒否し、税額決定がなされた場合は八・八和解に至る全ての経過を公表することを表明するに及んだ。しかし京都市は、七月二十六日、閉門六ケ寺に対し、昭和六十年八月九日から十二月四日までの開門期間分について総額約一億円の税額を決定し、一ケ月後の二十七日までに納入のない場合は、差押えの手続きを取ることを明らかにした。
三度目の拝観停止により、深刻化した古都税問題の解決に無策の京都市に対し、八月四日、銀閣寺門前業者で組織する土産品振興会と大文字保存会の約四十人が、要望書を持って市役所を訪れ、市長に面会を求めて秘書室に座り込み、大文字送り火も一部で協力しないことを示唆したため、市長は初めて銀閣寺門前業者らと面会した。また「古都税を考える市民の会」は三十日会合を開き、市長リコール対策本部の設置を決め、リコール請求のために一万人の協力者を募集することを発表した。(同会は折田泰宏弁護士、長尾憲彰常寂光寺住職ら「京都市民のネットワーク」準備会のメンバ-が中心となり古都税問題に関し、京都市及ぴ仏教会を批判し、市民が立ち上がるべきであるとして結成された団体である。)
その後京都市は、税額決定に続いて督促状を送付し、差押えも行う方針を表明したため、仏教会は九月十七日、寄付金額を定めた念書を公表すると共に、京都地検に証拠品として提出し、八・八和解にいたる交渉経過を録音したテープの存在も初めて明らかにした。この念書の公表に対し、斡旋者である大宮氏が「念書は仏教会に渡す直前に市長に説明した。八・八約定書についても試案ではなかった」と証言しているにも拘らず、今川市長は八月十七日市議会において、「念書はまったく知らない」と答弁し、税の円滑な徴収を繰り返すだけであった。
(八・八以後、話し合いにより解決の糸口をつかもうとする西山氏の努力は、都合の悪い相手とは会うなとする市議会からの圧力により、全てつぷされてきた。今や仏教会代理人としての西山氏と、市長・議会との公式会談の道は完全に断たれていた。)
拝観停止六ケ寺は、ここに至っても今川市長が嘘を続ける以上、早急に八・八和解に至る経過の全てを明らかにする必要があり、テープの公表を西山氏に求めていた。しかしこれを公表した場合、市長告発に対し検察庁の捜査が進展するきっかけにはなるが、市長不起訴の判断を下す材料になる可能性もあり、公表の時期については慎重を要した。仏教会は昭和六十二年当初の市議会及び四月の統一地方選挙をも射程にいれた戦略の中で、テープ公開の時期を検討しつつ、テープの編集作業に入った。
秋の観光シーズンを迎えても、例年のような賑わいはなく、京都市、仏教会双方の表立った動きもみられず、古都税を考える市民の会のリコール運動も盛り上がりを欠いていた。
こうした中で、京都大学文学部などで社会学を専攻している教員、院生、学生らの研究グループ「古都税問題研究会」(代表・田中滋追手門学院大学文学部講師)による市民意識調査が、十二月十二日付朝日新聞紙上に発表された。調査期間は昭和六十一年九月下句から十月半ばにかけての約二十日間で、対象は住民票から無作為に抽出された、二十歳以上七十歳末満の京都市民七百人、回収率は六十六・九パーセントであった。調査結果では、この条例を「そのまま施行する」と言う意見は二十二・六パーセントしかなく、「修正する」が四十四・ニパーセント、「廃案にする」が二十七・九パーセントと現状の変更を望む意見が七割を占めた。
また、拝観停止に対しては「許されない」が六十三・ニパーセント、古都税問題をこじらせた責任については、「京都市側にあるしとしたのが二十五・ニパーセント、「寺院側にある」としたのが二十二・0パーセント、「同じくらい」が四十一・九パーセントであった。
現代社会において、世論やマスコミの持つ影響力は無視できるものではないが、宗教の基本理念に係わるような問題が生じた時、僧侶は自ら判断すべきであり、マスコミや世論によって左右されてはならない。
よって古都税問題に、僧侶は政治の場にひきずり出され、宗教者としての態度が問われることになった。山門を出た僧侶の抵抗運動が、しばしば市民にとっては奇異に映り、そのことが偏見や誤解を生む要因となり、さまざまな批判の対象となった。このような状況と仏教会の基本姿勢からすれば、市民の七割が条例の修正、廃案を求めたことは、四年にわたり仏教会が基本姿勢を貫いたことの成果であり、市民にとって、条例の是非は理解を超えたものであるとしても、市と寺院が対立を続けることは、物心両面において影響が大きいと危惧した結果であると見ることができる。また、市民の六割が拝観停止に反対したことは市民感情から見ればむしろ低い数値であると思われる。また、拝観停止による経済的影響の側面から見れば、京都における寺院の位置をはかることができる。紛争の責任問題について、喧嘩両成敗としたのは、対立の発端からその後の経過について、市民に正確な情報が伝わらなかったからであり、現象面のみにとらわれたマスコミの報道姿勢にも原因がある。
第九部 事実経過に関するテープの公表
第九部 事実経過に関するテープの公表
昭和六十二年一月~二月
仏教会は、この時期、古都税反対運動を進める上で二つの課題を持っていた。1つは、市長に対し飽くまで八・八和解の履行を求めることであり、もう一つは、テープの公表により、今川市長を辞任に追い込むことであった。寺側は今川市長が話し合いに応じる可能性がないと判断し、テープの公表を西山氏に求めた。西山氏は「このテープは度々言動を変える今川市長の言質を取るため、また交渉の過程を寺側に説明するために録音したものであって、公表する性質のものではない。市長との話し合いによる解決の可能性が完全に断たれるまでは最後まで努力したい」として、テープの公表には消極的であったが、仏教会としては「テープは仏教会のものであり、テープに関する全ての責任は仏教会にある」として、テープの公表を決定したため、西山氏は、「古都税問題の解決が行き詰まっている状況下で、仏教会が決定した以上、私情を挟むことはできない」として同意した。一月二十七日に始まる市議会を前に一月十三日、仏教会は承天閣における記者会見の席上、これを公表した。
テープが公表されたことで京都市は、一月十六日報復手段として、閉門中の六ケ寺に対し、差押えの予告通知書を送付した。これに対し開門中であった泉涌寺、隨心院が、「差押えを強行するならば拝観停止に入る」と発表した。また一月二十四日には、日本刀を持った男が、古都税問題に抗議し「市長に会わせろ」と市役所に押し掛け、これを制止しようとした秘書係長に切りつけるという事件が起きた。
混乱した市政に対し、税協力寺院の批判を押さえるためと、差押えという強行策を打ち出したことの収拾を計るため、一月二十五日、市長は協力二十九社寺を市内ホテルに集め、懇談会を持った。席上、社寺側が「反対派六ケ寺と同一テーブルについて話し合う場を持ちたいので、差押えを一時凍結してもらいたい」と要請したのを受け、市は差押えを延期することを表明した。また同月二十七日から開かれた臨時市議会の本会議で社会党は、寺院が強行に反対している古都税の執行を一年間停止するよう提案したが、市長は「条例には停止の規定はない」としてこの提案を拒否した。
また西山氏と交わした交渉のテープについての各会派の追及に対し、市長は「軽率な行為」と陳謝するに留まり、「非公式な話を断りもなくテープにとられたのは遺憾」と釈明した。
この時期、醍醐寺の仲田執事長は古都税解決に向けて何らかの行動を起こさなければならないと考え、協力社寺に呼ぴ掛け、仏教会にもひそかに接触を求めてきた。仏教会は税協力社寺を全く信頼していなかったが、この状況に至り、税協力社寺が拝観停止か納税拒否の行動に出るならば、協議をしてもよいと仲田師に答えた。その後仲田師は、税協力社寺を中心に結成されている「古都税対象社寺会議」で拝観停止も辞さぬ方針を打ち上げたが、結果は四ケ寺が納税を留保したに留まり、仲田師の動きは実効を見ずに終わった。
二月二十五日、仏教会は、新たに編集された録音テープを公表し、さらに市長を追い込んだ。交渉経過が明らかにされ、市民の市長に対する批判が巻き起こる中、統一地方選を控え、京都地検は公選法違反(利害誘導)に当たらないとして、今川市長を不起訴処分にした。
統一地方選は、売上税問題一色に染まり、古都税問題については候補者が意識的に触れることを避けたため、争点としては影が薄くなった。市議選の結果、公明党、民社党、共産党は議席の現状を維持したが、与党最大会派である自民党は四議席を減らし、社会党は五議席を増した。市議会はこの勢力分布の変化により、古都税の推進派である自民党と公明党による税の完全実施を強行することは難しい状況になった。
第十部 解決への努力-開門へ
第十部 解決への努力-開門へ
昭和六十二年四月~十二月
今や、市役所内部や市民の今川市長に対する不信は決定的なものとなり、京都市は最後の行政権の行使である差押えもできない状態であった。市民団体によるリコール運動は完全に挫折し、長引く拝観停止により、経済的打撃も深刻なものとなっていた。市・議会、市民はこの状況を打開する手立てを全く失い、沈滞したムードにあった。仏教会はこの状況をとらえ、新たな運動の展開を計るため、市に対し二つの提案をすることにした。一つは開門して市民の苛立ちを取り除いた上で、京都市と解決のための話し合いをする。もう一つは市にとって話し合いの障害となっていた西山正彦氏が仏教会から退くことである。この提案によって、手づまりの京都市側に事態打開への道を開いて、出方を待ち、差押えなど新たな強行策に出たならば、時期を見て再度閉門すればよいと考えた。
昭和六十二年四月二十二日、泉涌寺において仏教会は記者会見し、五月4日より開門し「市と裸で話し合いたい」と表明、同席した西山氏は「話し合いのハードルは取り除いた。市と仏教会で十分話し合ってもらいたい」として、自ら仏教会を退くことを明らかにした。
問題解決に向けてその態度決定を迫られた今川市長は、新議会の役員人事を待ち、その意向に沿って話を進めていきたい考えを明らかにしていたため、五月二十三日、市会各派代表世話人会で「古都税問題協議会」を設置し、全会派で問題解決の方向づけを模索したが、各会派の思惑もあり、協議会の正式設立には至らなかった。
六月六日、観光協会副会長・西村源一氏と清水寺門前会代表・田中博武氏の仲介により清瀧常務理事、荒木理事と安井師が、自民党市議江羅寿夫氏、木下弥一郎氏と非公式に会談を持った。木下氏は「古都税条例は廃止の方向で話し合いを続けたい」と申し入れ、荒木師は「過去にも解決の機会はたびたびあったが、市も議会も当事者としての責任を回避してきたため、解決を長引かせてしまった。今年中に解決のめどをつけるべきである」として話し合いを続けることに同意した。その後理財局長が条例の手直しを示唆したこともあって、市・議会は条例廃止に向け動き始めた。六月二十四日、市議会は「古都税問題協議会」を共産党抜きで設置し、「世界歴史都市会議」までに解決することを決め、六月二十九日に開かれた初会合に出席した奥野助役は、条例の見直しを示唆し、更に、木下市議より仏教会に対し、五項目にわたる次のような解決案が示された。
(1)古都保存協力税条例を廃止する
(2)条例施行間の税は公正に徴収する
(3)市長は自ら責任を取る
(4)各社寺は「京都市発展に協力する」との決意を表明する
(5)条例廃止後は社寺その他関係者で任意の団体を組織し、京都市発展のため自主的に協力金を集める
仏教会は基本的に了承できる内容であるとして、議会四会派の合意が成立するのを見守ることにした。八月十二日、今川市長が条例廃止の決意を固めたことが、新聞紙上に掲載されたため、市議会各派も止むを得ないとして条例廃止の方向に動き出し、八月二十五日、市会財務消防委員会で奥野助役が、そして九月三日今川市長が、条例の廃止の意向を明らかにした。
京都市は、古都税条例の付則に「この条例は施行の日から十年を経過した日にその効力を失う」とあるのを「六十三年三月三十一日かぎり」と改める条例の一部改正案を九月二十八日、開会中の定例市議会に提案し、十月五日、市議会はこれを財務消防委員会に付託した。この間京都市は仏教会に対し、六十三年三月三十一日までの税未納分の支払いを要請していたが、十月十一日相国寺承天閣で仏教会所属十一ケ寺と奥野助役、山口理財局長ら市幹部との会合が開かれ、条例廃止と、京都市の求める税未納分を相当額を寄附金として支払うことが合意された。
古都保存協力税条例は昭和六十三年三月三十一日をもって廃止とする条例改正案を、十月十六日財務消防委員会で、十七日には市議会本会議において全会一致でそれぞれ可決された。
議会での市長責任の追及は、「信頼回復に全力を尽くす」と繰り返す今川市長に対し、それ以上には及ばず、市長自身も自らの進退には触れなかった。
十一月一日、修復中であった鹿苑寺金閣の二年にわたる金箔張り替え工事が終わって、盛大に落慶法要が営まれ、六百年ぶりに薪能が奉納された。
秋の観光シーズンと重なって市内は観光客でうずまり、歴史都市・京都の賑わいは甦った。
十一月二十五日には、承天閣において、古都税対象寺院会議が開かれ、仏教会側から東伏見慈洽会長(青蓮院門跡)、有馬頼底(金閣寺責任役員)、清瀧智弘(広隆寺貫主)、大島亮準(三千院執事長)、荒木元悦(銀閣寺執事長)、平野瑛哉(泉桶寺庶務部長)、川村俊朝(泉桶寺財務部長)、市橋真明(隨心院執事長)、羽生田寂裕二尊院住職)、平住法州(東福寺法務部長)、爾文弘(東福寺財務部長)、大西真興(清水寺執事長)、安井敏爾(蓮華寺副住職)、佐分宗順(相国寺塔頭豊光寺住職)、田中博武(清水寺門前会代表)氏らが、京都市側から今川市長、奥野助役、山口理財局長らが出席した。市長から「八・八和解については大変御迷惑をかけ、深くおわびしたい」と陳謝があり、東伏見会長は「過去はもう問わない、今後は京都市発展のため、お互いに理解を深めていきたい」と述べて、古都税紛争に終止符がうたれた。
五年余にわたる反対運動の中で、仏教会はいかなる名目であれ、古都税の徴収及ぴ納入はしないという基本方針を貫いてきた。全対象社寺の結束による反対運動があれば条例の施行はなかったであろうし、仮に条例の施行があったとしても京都市の要求する未納分の支払いなどは拒否できたはずである。しかしながら三十八社寺のうち二十七社寺が条例に屈伏し、納税に応じてしまっている現状と、条例が昭和六十三年三月末に廃止されるということが確定した現在、これ以上の納税拒否はまさに紛争の「泥沼」化以外に無く、運動体として仏教会の得るものは何もない。古都税条例の是非はお互いの主張を出しあったまま、結論を見ないで終わろうとしているがしかし、政治と宗教の関係は対立と迎合の繰り返しの歴史であり、この問題は半永久的な課題として認識されるべきである。仏教会の主張は今後の運動の持続の中でその真価が問われていくであろう。
以上