仏教の昭和
平成元年(会報47-1)
京都大学名誉教授
国際禅学研究所 所長 柳田 聖山
思い出にあらざる昭和語らむに、言葉は背き子と諍いぬ。
朝日新聞三月十八日付「歌壇」にとられた、茅ヶ崎市相沢孝七氏の作品。選者の近藤芳美氏は、次のようにコメントする。昭和を語ろうとして、言葉は今も自分の思いにそむく、そういう心のたかぶりのままに、わが子とも諍おうとするのか。長い昭和の時代を生きて、見て来たものの焦燥が告げられる。あるいは、戦争体験なのだろうか。
選者は遠慮しているが、戦争体験は戦争責任を抜きに、考えることも語ることもできない。長い昭和を生きたものは、昭和二十年八月を境に、相反する二つの絶対命令を、おのれ自身の骨肉とするのだ。
天皇の戦争責任をいうだけで、何の答えにもならぬことを、自ら承知しての問いである。今、天皇の代替りとともに、あらためて旧蒼がいたみはじめる。国の内外に昭和の総括が求められるのは、当然のことにちがいないが、昭和の全てを生きたものには、格別の思い入れがある。
そんな格別の思い入れを、この歌はテーマとする。論争は相手の言葉を理解して、初めて可能といえるが、戦争責任に関する限り、何といってみても通じにくい、少くとも自分のことが、相手に判って貰えない、そんなもどかしさというよりも、寧ろ判ってたまるかという、一種の居直りすら含むのである。とりわけ、相手が我が子であり、我が骨肉である場合、事態はいっそう複雑だ。判って貰えないから、からみつくように話すそれが結局は諍となり、諍うほど空しくなって、口をつぐむかわりに、いっそう愚痴っぼい言葉となる。それも亦た、よく判っているから、処置しようがない。
自分の恥をいうなら、私は戦争末期から敗戦にかけて、あまりにも破廉耽な宗門仏教に、まともに身をおけないまま、十年以上も虚脱状態にあった。ほとんど、放心のまま、物もないし金もない、いつも腹がすいていた。寺に生まれたために、何とはなしにたよっていた寺産が、農地法で空っぽになる。働くことを知らないから、依然として寺の周辺にいる。何よりもたまらぬのは、戦争に勝つことが仏教で、国のために死ぬことだと確く信じていた自分が、死にそこなって生きのこる。遅れてしまった戦いが、聖戦ではなくて侵略であったと知る、底ぬけの悔恨である。戦争と共にあった宗門仏教が何としても許せない。国家は総懺悔を求め、宗門は民主国家の宗教となるが、看板を変えただけのことで、中味はさして変っていない。
長い虚脱と彷徨の末、私は宗門仏教を離れた。自分の存在理由が全く判らないのだ。一般の平和運動や、社会主義にも転向できない私にできることは、寺を出て宗門を捨てるだけ。仏教の勉強をやり直して、自分に納得できる仏教を新しく構築することだが、急にはそこまでゆけぬ、自救不了の自分を、素直にみとめるほかはない。まがりなりにも、私の体内に学問の情熱が芽生えるのは、そんな居直りのあと、昭和三十年代の後半日本全土が安保闘争でわく時分である。宗門仏教を離れても、仏教と切れることはできない。
「私の昭和」というテーマで、作家の後藤明生氏が、それを「分裂した楕円」にたとえて、次のような文章にまとめている(新潮社「波」六月号)。
実際、意味ではなくて、丸暗記の時代だった…。わたしは教育勅語、青少年学徒二賜ハリタル勅語大東亜戦争勃発の詔書から軍歌まで、片っ端から丸暗記していた。つまりジンムからキンジョウまで百二十四代の天皇も、大日本帝国も戦争も、すべて意味とは無関係に、丸暗記した事実であり、絶対的な存在であった。
本当は丸暗記「した」のではなく、丸暗記「させられた」のだと後藤明生氏は言い直すが、丸暗記したにしても、させられたにしても、丸暗記しなくてはならぬ、絶対的存在が昭和である。昭和を生きる人間にとって、昭和は丸暗記とともに始まる、絶対不可侵の存在であった。これくらい、殉酷なことはない。
とりわけ、私たち宗門徒弟は、丸暗記が得意である。お経でも仏教学でも、宗乗でも余乗でも、勉強は丸暗記ではじまる。今でも私の友人のうちに、歴史は暗記だと信じている奴がいる。小僧は何でも丸呑み、鵜呑みしなければ、生きられない。
気がついてみると、すでに戦争の真只中にいて、仏教と戦争を鵜呑みすることを、私たちは教えられた。教えられたといっても、三十人あまりの同級生のうち、大半が戦死しているのだから、教えられる前に死んだので、黙って死ぬように育てられたのだ。間違って生きのこった方は、実は育っていないともいえる。
今あらためて己の体内に曽つての丸暗記体験が、なお厳然と生きていることに気付いて、慄然とすることがしばしばある。昭和が平成にあらたまって、最初の終戦記念日を迎える今、何とか丸暗記でない昭和を、探しだそうとするのだが、漸く探しあてた自分を、語るに足る言葉に窮するのである。
たとえば、大東亜戦争は十二月八日にはじまり、敗戦は八月十五日である。仏教徒にとって、それがどういう日であるか、知る人ぞ知るはずである。仏教徒にとっては、毎日が聖日である。重複は当然といえるが、それゆえに私たちは、聖戦を疑わなかった。疑い、悩み、苦しんだ仏教者が、何処かに隠れていたことは確かだが、当時はそれが判らない。戦後、俄かに仏教の戦争責任を問う人を、私は民主国家に乗りかえた人々以上に、信用することがでさなかった。
いったい後藤明生氏が、「分裂した楕円」というのは、正反対の二つの命令を、強いられた者の途まどいのこと。具体的には、北朝鮮で誕生した御自身の外地体験と戦後の引き揚げによる内地体験との亀裂、交錯、重層化というキーワードだが、そうした亀裂体験は大小の別はあっても、昭和を生きた私たちの、すべてに共通するのであり、重層矛盾の意に借りるのである。
実をいうと、私たちの今の生は極端な亀裂にさらされている。いずれの領域でも、世代交替がはげしい。政界、財界、学界はいうまでもない。向う三軒両隣り。どこをみても同じである。 お隣りの中国をみよ。長老が発言権をもつ機会の多い宗教界も、御多分にもれぬようだ。
「医者、ボン、カボチャ」というが、ひねたカボチャなど、今はもうとんと見かけず、町の病院もすっかり様変りしている。診療室も待合いも、新しい機械でいっぱい。聴診器を首にかけて、世間話をするお医者は、もうどこにも見当らぬ。問題はボンだが、老いも若きも、とことん諍ってほしいのだ。無口になり、上品になり、以心伝心では困るので、さもないと曽つての丸暗記に等しい。
年甲斐もない、若ものと議論できる、骨の太い長老が、まだ何処かにいるはずだ。少くとも私、敬老精神など縁のない、若ものが議論をふっかける、カボチャでありたい。丸暗記の世代は、私たちに終るので、納得のゆくまで対話する、新しい世代にこそ、大きい期待をかけてよい。靖国問題も、古都税も、まだほとんど本当は、何も諍われていないのである。