京都の景観保護と将来の町づくりについて/刊行本より(平成3年)
平成3年8月1日 刊行本(京都仏教会編)より
はじめに
歴史的宗教都市京都の景観問題が、最近京都にのみ止まることなく、日本全国、世界各国にまで及び、次第に活発化してきております。この事実は、京都という都市が1200年の歴史に培われ、日本人の心の故郷であり、世界有数の分化都市である事を如実に物語っています。
京都仏教会では、それ等の諸問題に深く心を致し、京都の特性を生かし、調和のとれた都市の発展を望む立場から、ビルの高層化問題をはじめ、京都の景観保護と、将来の町づくりにつき、皆様に提言致したいと存じます。
事態は正に深刻であります。どうか是非ご一読いただき、ご意見、ご感想を当会までお寄せ下さい。皆様方お一人お一人の声が、必ずや京都の未来への限りなき光明となることを確信しております。合掌
平成3年7月
京都仏教会 理事長 有馬 頼底
一、ビルの高層化の動き
(一)総合設計制度導入の動き
(一)総合設計制度導入の原動力
日本に総合設計制度が誕生した時は、いわゆる高度経済成長時代でした。この制度が全国的に普及したのは昭和51年頃ですから、まだまだ高度経済成長を続けようとしていた時期でしたので経済界等からは歓迎されました。しかし、京都では、歴史的な重みや政治的要因から総合設計制度を取り入れませんでした。それというのも革新市政が続き、京都に高層ビルはなじまないという意識が市政に反映されていましたし、そのことによって財界人の活動が押さえられていたということがあります。しかし京都も林田府政の誕生により、革新から保守へと転換したことで、それまで押さえられていた財界人が息を吹き返し、総合設計制度を京都にも採り入れようということになりました。つまり京都を、さらに不動産投資率の高い町にしようという考えだったのです。まさにアメリカのドナルド・トランプがニューヨークでトランプタワーという超高層ビルを建てたように、一昔前のアメリカンドリームを追い求めようとしたのです。そのアメリカ人でも80年代後半に入ると、深刻な不動産不況と共にトランプタワーに象徴されるような高層ビルは瀕死の状態です。近年、世界は急激な開発による深刻な環境破壊への反省から、人類の歴史と分化を含めたエコロジーを重視する時代に入っています。日本の企業といえども、環境問題や分化に対する理解を持たずに企業の利潤だけを追い求めることは許されなくなっているのです。それにも関わらず京都は15年も昔にできた、すでに限界が見えている総合設計制度を持ち出してきたわけです。
総合設計制度ができた時代と今では、大きな価値観の相違がありますし、市民の多くは京都ホテルの高層化には賛成していないのに、法律だけが生きているからいったん適用してしまうと、その動きは止まらないのです。
(二)総合設計制度による公開空地
(二)総合設計制度による公開空地
京都は公園が少ないから、公開空地をとって公園を造ろうという話がありますが、市内の中心部から10分も車で走れば山や川にぶつかるというのに、どうして公園が必要なのでしょうか。町に中に高野川、鴨川、桂川が流れていますし、河川敷や御所、相國寺などの大きな寺院は境内を散歩や通り抜けができます。これらを全て入れれば京都に公園が少ないなどとは言えないはずです。それに40パーセントの公開空地というといかにも大きく空地を取るように見えますが、普通に建てても建ペイ率は80パーセントですから、20パーセントは空地なのです。だから総合設計制度を採り入れた場合の容積率の大幅増加という「ボーナス」に対する実質的な空地の増加は20パーセントしかないのです。
(三)ビル高層化の原因
(三)ビル高層化の原因
この独走を押し進めている原動力の一つは、硬直化した市の行政にあります。田辺市長もビルの高層化が京都の活性化につながるとは考えていません。しかし硬直化した市の職員達に自信を持ってストップをかけることが出来ないのです。
二つ目の原動力は、京都商工会議所や京都の財界人が持っている東京へのコンプレックスです。京都が1200年の時間をかけて蓄積した文化で競わないで、東京の価値観にいつのまにか自分を合わせています。分化の質で競うことをしないで、量で対抗しようとするからコンプレックスが生まれる。東京が全て中心であると考える人が物事を決めるから、本質的なことがわからなくなり、超高層化ビルが京都の活性化につながうという考えが出て来るのです。しかし30メートルのビルが60メートルになったからといって、活性化するなどという理由はどこにも見当たりません。ビルの容積を増やしたからといってそこで働く人がいなければ使い道がないのです。「活性化」という意味も曖昧で、ここでは「活性化」を産業が興り人口が増え、生産活動が活発になる工場誘致的なものを考えているようです。その理由を述べるには、京都の町の特性や成り立ちを考えなくてはなりませんが、このことについては『二、京都の特性と活性化』において論じることにします。
ところで、何のメリットもないのに高層ビルを建てることは無い筈です。40パーセントの公開空地を必要とする総合設計制度を採り入れて高層ビルを建てようとしたのにはもう一つの理由があります。それは不動産業界・金融業界が原因なのか、国の施策が誤っていたのか、近年地価が異常に高騰したために、土地代を含むビル建設の全体のコストにくらべると、建築コストのしめる割合が非常に低くなったのです。例えば500万円で500坪の土地に容積率700パーセントの建物を建てる場合、延べ面積3500坪の建物が建つことになります。坪100万円の建物ですと、35億円かかることになります。土地代は25億円かかりますが、25億円の土地に35億円の建物といえば建物の占める費用の率が高いわけですが、5~6年前と比較すると坪500万円の土地は今5000万円程になっています。すると土地代は250億円かかることになります。建築費が25億から倍の50億円になったとしても、全体のコストからすると建築費は大した率にはならないことになります。だから容積率が増えると、異常な地価の高騰に見合う不動産投資効率を高めるために、増えた容積率を全て増床させなければならないのです。
(四)京都ホテルについて
(四)京都ホテルについて
京都ホテルを例にとって考えると、総合設計制度を適用しなかった場合には、高さ制限45メートル、敷地7200平米、延べ面積は42000平米ぐらいのものしか建たないのです。ところが総合設計制度を用いると、土地の40パーセントを公開空地として提供しても、延べ床面積は5900平米まで建てることができます。これで17000平米のボリュームアップができるわけです。ところで京都ホテルの土地は坪5000万円はするところです。そして建物の容積率は表通りに面して700パーセントです。今、床面積17000平米の建物を建てようとすると、約2500平米(約700坪)の土地が必要です。地代は約350億円かかります。つまり、京都ホテルは総合設計制度によって350億円の土地を購入したのと同じ不動産投資効果を上げたことにないます。京都ホテルはこの増えた部分の土地をKH興産という会社に売却しました。この代金でホテルの建物のほぼ全てが建築できることになるのです。
このように総合設計制度を採り入れることによって大きなメリットがあるわけですから、今後この制度によって高層ビルが林立するのは目に見えています。ところが田辺市長は総合設計制度は600坪以上の土地がなければ適用されないし、また京都は老舗が多いから共同ビルを建てたりはしない、だから総合設計制度による高層ビルは僅かしか建たないと明言しています。しかし烏丸通をはじめ表通りに面した土地の所有者は殆どそこには住んでいません。その人達はアパートを持っているのと変わりなく、利回りを利用しているわけですから、隣接地と共有で600坪以上の土地にして総合設計制度を採り入れて、建築容積が増えた分の建物の使用権を売れば、建築費ぐらいはその利益で賄えるのです。要するにこの制度を用いれば高利益が得られ、高層ビルが増えるのは自明のことなのです。また高層ビルが増えれば固定資産税による市の収入が増えるということを言っていますが、しかし田辺市長の言うように高層ビルがそんなに建たないのであれば固定資産税もそんなに増えない筈です。もし高層ビルが建ち並ぶのであれば、町並みはがらりとかわり、歴史都市・宗教都市・観光都市として享受している文化的、経済的資産を全て犠牲にすることになります。ここに市行政の詭弁が見え隠れしていることが判ると思います。それなのに京都のリーディングホテルとして、京都ホテルが高層化を進める態度はまったく良識を疑うものです。
京都ホテルの理屈は「法律に抵触するならともかく、合法であるので設計変更する意志はない」ということです。しかし建物を建てて売却すればそれでビジネスが終了する不動産業者でさえ、地域住民の同意や景観等に配慮している情況があるのです。法的な制限だけではなく、古都の歴史や市民感情を抜きにしてはマンションの建設すら大変難しくなってきているのです。この様な情況の中で京都ホテルがあくまでも高層化するのであれば、それは市側との癒着によって、通常では考えられない公道廃止や土地の等価交換などで取得した市民の土地を利用し、多くの市民が反対するビルを建てるということになるのではないでしょうか。たとえ建築基準法上だけでは、合法的なホテルの建設であっても、老舗のホテルならば京都という町の特殊性に配慮するべきなのであります。やはり京都ホテルの経営者も東京からやって来て、利益だけを吸い取る「旅人」にしかすぎないのでしょうか。京都の町衆ならば市民や寺院から大きな反対がおきれば、利益の追求という目的だけでは行動できないはずです。
二、京都の特性と活性化
(一)京都の町のなりたち
(一)京都の町のなりたち
京都に東京式の活性化が無理な理由の一つは、京都が既に出来上がった都市だからです。東京は第二次世界大戦で破壊され、そこから都市が再整備されましたが、京都は戦争の破壊からまぬがれ、多くの文化財と町並みが残りました。これらの遺産の上に京都の未来を考えなくてはならないのです。しかしこの事を配慮の外においたとしても、三方を山で囲まれた盆地で、港もなく飛行場もつくれないという京都の地勢で、工場を誘致し、150万も200万もの人口を抱えるような、いわゆる東京式の町をつくるのは無理というものです。
1200年前に京都の町がつくられた時、御所と天皇と貴族・官僚そして周辺の寺院と、町衆を含めてせいぜい10万人位のとしでした。それから時代を経て応仁の乱や幕末の動乱を経験しても、京都は50万人位を境に人口の増減を繰り返してきています。しかしそれでも平安時代にこの都を造った人にとっては想像を越えた数でしょう。三方を山に囲まれ、南に向かって開けているという、一種の理想の町であったのでしょうが、人口規模は10万人程度を対象に造られた町であった筈です。例えば神戸などは150年前までは海辺の寒村ですし、横浜も同様です。急に町ができて150年程しか経っていませんので、アメリカのゴールドラッシュで沸いた西部にできた町と同じです。ところが京都は1000年以上も経っているのですから、完成度は大変高く、これ以上の完成度を望むことは無理でしょう。だから今更、東京を追いかけるなどということは無理なことです。町割がすでに出来上がってしまっていて、少なくとも旧市街に関しては開発などは出来ません。この町に開発とか、都市計画というような概念を持ち込むことが無意味なのです。構造的に限界にきているということです。もし開発するというのなら三方の山を削るしかありません。
(二)町の活性化とは
(二)町の活性化とは
京都の総合開発審議会では、京都はこれ以上の「活性化」が難しいという前提で京都の将来を考えています。地勢的にも、町の成り立ちからいっても、京都は西陣のような家内工業的なものを発達させることはできましたけれども、大規模な工場を誘致するスペースもなければ、多くの人口を抱えることもできません。そんなところへ高層ビルを建てて増えたスペースを何に使うというのでしょうか。
「活性化」というと明治維新の時のように殖産工業的な経済効率の面からだけでとらえ、「京都はかつて日本のGNPに対する比率が10パーセント台を握っていたが、現在は2パーセントを切って、滋賀県にも負けてしまった。」と嘆いている人がいます。この発言は、世界は今や乱開発等による深刻な環境問題を抱え、環境保護に向かっているにも関わらず目先の利益しか考えず、京都の未来に対しての何の具体的な展望もない証拠ない証拠と言えます。京都の活性化を考えるなら表面的な数字にとらわれることなく、本当の意味での京都の存在価値を見極めるべきでしょう。誰も京都に高層ビルを求めてはいません。大規模な産業や高層ビルは、東京や他の町にまかせれば良いのです。京都は公害も少なく日本の歴史と文化の集大成の町として、全国民の心の安らぎの場所、アイデンティティを感じる場所として存在する意義があるのです。
三、京都の未来
(一)観光
(一)観光
①観光と京都
それでは京都の未来をどの様にデザインしてゆけば良いのでしょうか。
京都は知的生産と消費の町、そして精神の拠り所を与える町であると明確に規定すべきです。東京へはビジネスのために行きます。ところが京都へは、仕事や雑用から逃げるため、余暇を楽しむために来るのです。
このニーズを満たすために京都は何をするべきかといえば、一つは京都は年間4000万人もの観光客を受け入れて2兆5000億円もの経済効果があるのですから、この観光に力をいれることです。年間2兆5000億円もの経済効果を生み、おまけに公害も出さない産業なんて他にあるでしょうか。費用対効果の点でも非常に効率がよいのです。
京都は今までこの様な産業によって大きな利益を生み出してきたのも関わらず、京都市はその財産を食い潰そうとしています。古都税問題の時もそうでした。京都は寺院が多いので固定資産税の収入が少なく、経済効率が非常に悪いという理由で、古都税という税を考え出し、日本のアイデンティティを求めてくる人々に対し税金をかけようとしたのです。今回は、京都に高層ビルを林立させ、京都の景観を台なしにしようとしているのです。京都に蓄積されてきた宗教的・文化的遺産は世界的にも第一級のものであり、それが京都の町並みや景観と一体となって京都の価値を高めています。だから京都の物価が少々高くても観光客は京都を訪れ、土地が高くても京都に家を持ちたいという人が多いのです。多くの人が仕事ではなく、神経的満足のために京都を訪れて賛美してくれる。世界の要人が日本に来れば京都を訪れる。これは京都の人間にとっては誇りです。この誇りを生んでいるものこそが京都の価値を高めているのです。
京都駅を高層化してランドマークにするなどという発想は、なぜ京都に人々が訪れるかということが判らない人の考えです。ランドマークは町の目印です。アメリカなどの町は大平原や砂漠にあって特徴がないから、ランドマークも必要でしょう。しかし京都にランドマークは要りません。それはみなさんが良く判っているはずです。京都には名刹といわれる寺社があります。それが一つのランドマークとなっているのです。
②京都観光の振興と安定
全国で展覧会・博覧会がもてはやされていますが、花博・万博(大阪)、ポートピア(神戸)等は大成功なのに札幌、仙台、沖縄、筑波、名古屋等々はなぜ成功しなかったのでしょうか。大阪、神戸のイベントと北海道、東北、九州のイベントとの間に企画力や運営能力に差などありません。まして財界人や政治家、知事、市長の力等に関係はありません。京都近郊の大阪、神戸の場合は、たとえイベントが期待はずれでも京都や奈良で観光すれば良いという安心感が、イベントに訪れる人々を増やしているのです。
花博効果で平成2年の京都の入洛客は増加しているとの声を聞きますが、本当は反対なのです。京都、奈良の効果で花博は成功したと言えるのではないでしょうか。
京都の町の活性化を観光という面からもう少し考えてみますと、日帰り客よりも宿泊客の増加が経済効果を高めます。京都を破壊せず、入洛客を増加させるには、京都近郊に東京ディズニーランドのようなテーマ・パークを誘致してはどうでしょうか。1年間の入場者が1600万人といわれているディズニーランドは誘致した町の活性化と、その近くの京都という都市の力をパワーアップさせるという相乗効果があると考えます。観光客のニーズの多様化にも対応でき、入洛客の季節による増減の緩和にもつながると考えます。大規模な遊園地で東京ディズニーランドに対抗できる場所は、京都近郊しかありません。なぜなら4000万人もの人々が休息に京都を訪れるのです。そこから僅か30分から40分で行けるテーマ・パークの魅力は大変なものがあると考えられます。この施設へ京都をベースにして行けたら、どれほど魅力的なものになるか考えてみてください。歴史文化、木の香りとテクノロジーのマッチングがそこにあります。このように京都の活性化は、京都の町をベースにした郊外の開発・振興を一緒に考えてみたらどうでしょうか。
(二)大学
(二)大学
ところで京都にとってもう一つの重要なものは大学です。京都市は大学生一人につき経済効果がどのくらいあるのかというようなことしか考えず、大学のスペースが狭くなり容積の増大を求めてきても、規制を緩和することもせず、大学がどんどん京都から出ていくのを放置しておきました。しかし観光シーズンには、大学生のアルバイトは大きな労働力になりますし、なによりも大学生が京都の町で四年間、青春の一番多感な時期を過ごし、京都のいい思い出を沢山もって帰って行く。そして彼等が社会に出た時、再び京都を訪れてくれます。教師になったものは生徒を連れて修学旅行に訪れ、家族が出来れば自分の青春の記念の場所を紹介しに来てくれます。修学旅行や家族旅行で来てくれた子供達もまた、大学はやはり京都が良いといって京都に来るという循環が出来上がっていくのです。彼等は京都を意識して京都を応援してくれ、京都の良き理解者となってくれるんです。大学の四年間で学生達をはぐくみ育てた京都の町に対する思い入れこそが何よりも大きな財産になるのです。この点で京都は、はからずも外交上手な町になっていたのです。
ところが日本は世界の中で、外交下手な国といわれています。アメリカは戦後フルブライト奨学金等によって多くの留学生を受け入れました。だからアメリカは世界から非難されるようなことがあっても、アメリカで人生の大切な一時期を送った経験を持つ人々はアメリカに対して強い親近感を感じます。そのことでアメリカは大変救われているのです。日本は経済大国になったけれど世界の中で孤立しています。なぜ孤立するのかといえば、日本は外国人を多く受け入れなかったからです。その結果、日本語を話す人も少なく、本当の意味での日本語の理解者が少ないからです。
京都はそういう日本に中では、外交上手な町だったのです。京都に強い親近感を覚える人々を生みだし、その人々が京都を宣伝し、もう一度京都を訪れてくれるのです。ですから大学誘致のためならば、多少の建物の容積率緩和や、三山(北山・東山・西山)さえも一部開発許可を考慮するべきではないでしょうか。大学が京都から流出する原因は、地価の高騰による学校用地拡大の困難さにあります。三山周辺の開発を大学に限り許可すれば、低廉な価格で土地を取得できるので大学の招致及び流出防止に大いなる効果が期待できます。京都に於ける経済的価値は将来的に考えれば3000人の従業員の上場企業の本社よりも3000人の学生を擁する大学の方が高いのです。現に滋賀県大津市では、積極的に大学の誘致を行なっており、学生数600名のある大学に対し、20億円の補助を行なっております。この様なことを考えれば、5000人、10000人の学生数の規模の大学の市外流出に対する京都市当局の無策ぶりは責任追及されてもいいのではないでしょうか。これからの大学は京都市が配慮してくれるならば、少しくらい条件が悪くても京都へ行きたいし、残りたいという願望を持っているのです。しかし、京都市当局のあまりの無策に市外流出を決意せざるを得ないのです。
(三)知的生産と情報化
(三)知的生産と情報化
もう一つ、京都の可能性として、今後は一般的にコミュニケーションの機能が発達し、情報の伝達がますます簡単に行なえるようになるのですから、オフィスの中での知的な生産部分を東京や他都市から、京都の閑静な所へ持ってくることも可能でしょう。例えば情報処理の仕事やデザイン、商品の企画等のソフトウェアー関係の仕事は、特に仕事場や周りの環境が大きく影響するでしょうから、オフィスのこれらの部門を京都にもってくれば、閑静な仕事場を提供できるのではないでしょうか。京都を物的生産ではなく知的、感性的なものを生み出す場所にするのです。世界は今や情報化の時代であり、エコロジーの時代なのです。人々は住み良い環境と、環境の良い仕事場を求めており、京都はそのニーズに応えることのできる町なのです。
このような意味で、京都にとっては現行の高さ規制45メートルでさえ高すぎます。最高の高さを31メートル位にまで押さえるべきです。東山をはじめ三方の山並みでいえば15メートルが限界です。15メートルというのは植樹して隠れる高さなのです。しかし既に建っている建物を削るわけにはいきませんから、100年をかけ、建都1300年までに京都の町の魅力が高まるように、現在の町並み保存のために、今の高さを更に15メートルぐらい低くするよう努力していくべきです。このことは、地上げによる都心部の空洞化についてもただ単に町壊しを防止しようといっても商業活動として行なわれている地上げに対しては無力なのです。だから不動産業者や開発業者が投資利潤を上げ難い規制強化「高さと容積率」によって古都の景観保存を行なう以外方法はありません。
しかし保存しても奈良や鎌倉のような都市ではなく、京都は140万人を越える大都市なので、大都市としての機能は備えていかなければなりません。だから地下鉄やリニアモーターカーを初めとする交通機関の充実等にも力を入れるべきです。しかし、観光のために全てが人工的に整備されているというのではなく、種々雑多な中で市民が生活している、そのことが京都の魅力につながっているのです。
(四)高さ制限
(四)高さ制限
さて、今の京都の町並みを維持し、高層ビルを建てさせないためには建物の容積率を下げることです。現在の高さについて、御池通りと烏丸通を例にとってみると、現在は建ペイ率80パーセント、容積率700パーセントの第六種高度地区(高さ45メートル)ですが、二つの通りで高さ45メートルの建物は池坊会館ただ一つであります。なぜ他のビルも45メートルの高さにしないのでしょうか。45メートルの高さというと、通常のビルでは15階建てになります。ケーススタディーとして、1000平米の土地上の建築を考えてみると、高さを追求した場合は、1000平米×700パーセント(延べ床面積)、7000平米÷15階=467平米となります。つまり45メートルの高さにすると各階が467平米しかない15階建てのビルが出来ます。しかし、その中には共有分として各階に、トイレ、エレベーター廊下、階段が必要です。それを各階につき132平米としますと、330平米の有効面積しかとれません。つまり330平米×15階=4950平米の有効面積の建物が出来ます。一方、建ぺい率を追求した場合は、1000平米×700パーセント=7000平米(延べ面積)、7000平米÷〔1000メートル×0.8(建ぺい率)〕=8・75階。8・75階は9階建てと考えると7000平米÷9=778平米、つまり778平米の9階建ての建物ができます。各階3メートルとしますと、高さは27メートルです。
次は有効面積です。さきほどと同じように共有分(トイレその他)を132平米としますと、各階が778平米-132平米=646平米の有効面積を持つ9階建て、つまり646平米×9階=5814平米の有効面積の建物が出来ます。この条件設定での不動産ビジネスとしての利潤追求を第一とした不動産投資を考えてみます。
そうすると、現在の建築条件(容積率700パーセント、建ペイ率80パーセント、高度45メートル)ならば、不動産投資としては明らかに建ペイ率追求型の方が、高層追求型より断然有利であることが判ります。だから御池通、烏丸通等は、現在でも45メートルまで建てられるのも関わらず、31メートル以下の9階ビルが並んでいるのです。例外である池坊会館は、所有者が非営利団体という性格上、採算を度外視した大変魅力的な建物となっています。
では総合設計制度による高層化はなぜ起こるのでしょうか。この制度を受けると容積率の大幅な上積みが得られるからです。そしてこの容積率の上積み分は、そのまま高層化し、不動産投資としては、そのまま利潤追求となります。言い換えますと容積率を上積みしなければ、一般ビル(京都駅を除く)は高層化しません。京都駅南側の松下興産ビルの高層化も400パーセントの容積率を600パーセントまで上積みすれば可能になるのです。つまり土地所有者の不動産投資の利回りを大幅に引き上げることになるのです。
しかし、そのために我々は、京都の文化と町並みの破壊という大きな犠牲を払わなければなりません。1000年以上かけて創り上げた京都という都市の文化遺産を、いま土地を所有しているというだけで破壊することが許されるのでしょうか。
京都の活性化、文化的遺産の増加に役立つと考えられる大学や茶道・華道・能等の伝統をもつ団体、病院・市役所等の公共施設、その他非営利団体等々の建物については、各制度を弾力的に活用すべきです。
四、京都の意思決定
(一)町衆
(一)町衆
伝統産業(京菓子、陶磁器、織物など)や観光関連の人々は、例えれば土に根を下ろした植物です。だから鎌倉武士の様に「一所懸命」にこの土地に全てをかけるのです。観光寺院といわれる寺々も同じです。東北で八ツ橋がうれないように、清水寺も金閣寺も他所へ移動できません。一方、京都に根付いていない人々は例えれば動物です。嫌なら京都を出ていけば良いのです。他所へ代わる選択権を持つ人々です。例えば市役所に中央官庁から出向している人、本山寺院の輪番を勤めるため地方から来る僧侶、この人々は、評論家であり、旅人なのです。知恵は借り、話は聞きましょう。しかし数年もすれば他所へ帰っていく人々なのです。中央官庁から出向し、市長になっても大阪に住み、「旅装」を解かぬまま市長を辞め、去った人がどうして京都の将来を考えてくれるでしょうか。京都の町の景観や基本方針の作成には、植物のように移動できず、京都の地の根をはり京都と運命共同体となれる人々の意見が大きく反映されなければなりません。このような人々こそが町衆ではないでしょうか。私達は町衆というものの概念をこのようにとらえています。
京都の観光寺院や各本山についても、その寺院を運営する僧侶が輪番や転勤などで来る地方の僧侶と、京都に代々在住している僧侶との間には大きな違いがあります。先年の古都税闘争の時も途中で運動から離脱していった寺院、例えば妙法院(三十三間堂)、仁和寺、大覚寺、南禅寺、天竜寺、東西本願寺、知恩院などの寺院で当時の責任者として、今日もなおその席におられる方は一人もおられません。しかし最後まで残った青蓮院、清水寺、金閣寺、銀閣寺、広隆寺、二尊院、三千院、蓮華寺、泉涌寺、随心院、相国寺等の寺院の責任者は全て今も在席です。他所に住まいのある輪番の僧侶も町衆ではありません。
なぜ土着することが重要かというと、京都に1200年の歴史という遺産があるからです。その遺産をどのように高め運用するかは、この町にずっと住み続けなければならない人々の意見によって決めるべきだと思うからです。京都の町衆の商売は、東京式のとにかく儲かれば良いという近視眼的なやり方ではなくて、「ゆっくりしいや」「かとういきや」でなくてはなりません。90年代になってバブル経済の崩壊で困っている大都市の商人や会社は多くありますが、バブルの時に膨らみもしないが弾けもしないで「ゆっくり」やっている人々が、京都の町衆です。京都の町衆は政治や施策にも単純には乗らず、独自の長期的視野を持つべきです。1200年の遺産を持つ者は、責任を持って時の中央官庁の情熱的な意見さえも冷静に見ていくべきです。いわんや出稼ぎの市長や官僚や東京型商人の意見等は、よくよく見極めねばなりません。
(二)市民運動の限界
(二)市民運動の限界
今回の京都ホテル、京都駅の高層化問題の反対運動について、いわゆる市民団体の力は大変大きなものがあります。しかし東京資本による不動産投資の理論の前には、今一歩の力がありません。例えば京都駅ビルの設計コンペについては、不公平だとかおかしいとか、種々の意見はありますが、もしコンペが行なわれずに建築様式が決定されるとすれば、JRと地元財界は、京都駅南部の開発・高層化につなげるために、超高層120メートルを選択したのではないでしょうか。しかし、審査員制度のために完全な利潤追求至上主義が働かず、儲けにあまり関係のない文化人、評論家等が仏教会や市民の動向を慮った結果、一番低い59メートルを選択したのだと考えます。
しかし京都ホテルの資本の理論(利潤追求至上主義)の前では、市民団体等の力はほとんど無力です。そして京都ホテルは市民団体、宗教界、財界の反対があっても「法律上抵触しなければ断固として高層化する」というような考えを通そうとしています。
この様な理論に対抗するためには単に市民団体だけではなく、商工会議所、宗教界、学者等、京都の意志決定に何等かの影響力を持つ各界が共同した運動体を創りあげていかなければならないと考えます。
五、むすびにかえて
寺院の理論
寺院の理論
京都の寺院は遷都以来京都の歴史において、多くの宗教的・文化的遺産を生み出し、多くの人々をひきつける京都の魅力を創り、その発展に貢献してきたという自負があります。また京都の寺院はその宗教的原理からしても、寺院の周りの庭園、山林などの環境を寺院の生命と言っていいほどの重要な役割を果すものとして大切にしてきました。そのため金閣寺を始め経済的に可能な寺院は、その周りの山林や土地を買いとって、環境保全に努力してきました。最近の例では、清水寺が環境保全のために近隣の土地を買い取りました。しかしこのようなことは土地の価格の上昇等により益々困難になり、寺院の経済力からしてもとうてい続くものではありません。京都の寺院にとって、京都の景観問題は重要な問題なのです。しかしこのことは、じいんばかりではなく、京都市民にとっても重要な問題の筈です。京都の寺院と環境が、年間4000万人もの観光客を呼び、 2兆5000億円もの売上を生み出し、京都の経済に大きな貢献をしているのですから、このハードウェア的資産を守ることは重要な問題だと思います。京都に超高層ビルと言う、そぐわないものを建てるという考えの根本には、年間4000万人もの観光客が来るということを異常だと考えず、当たり前だと思ってしまっているということがあるのです。つまり非日常的なことを日常的なことととらえてしまう感覚になっているのです。この4000万人の観光客も京都の貯金なのです。出稼ぎ資本に食い荒らされてはなりません。この4000万人の観光客に対する感謝の気持ちを忘れると「他府県のマイカー観光拒否宣言」や「古都税」になるのです。我が家に来てくれた客人に対して人頭税をかけたり、車で来てくれた人を駐車場に入れない等は、まさに無礼そのものではないでしょうか。それも東京志向の人々が考えることです。京都の未来は京都市民が決めていくものです。京都に高層ビルが建ち並べば京都が今まで以上に発展し、多くの魅力を生み出すというのであれば、それは多いに議論する価値があるでしょう。しかし、なぜ高層ビルが建ち並べば京都が発展するかを今まで誰も理論伊達手説明した人はいません。ただ単に高層ビルすなわち近代化イコール京都の発展と短絡的に考えているのか、不動産投資の利益のために主張しているにすぎません。京都仏教会は、全力を挙げて阻止することが自らの使命と考えています。
京都の町は今、転機にあります。私たち京都市民は、真剣にこの問題に取り組まなければ、自らの財産を破壊することになるのです。若し高層化を認めるならば、大学と市庁舎そのほか公共的なものだけに限ります。そしてそれらなら寺社と並ぶ新たなランドマークにしてもよいでしょう。
最後に寺院としての理論を述べさせていただきます。古都税闘争の時の最大の争点は、寺に来られる信者の方に対して「税の取立人」になるかどうかということでした。寺院や僧侶が「税の取立人」になることが、世俗の方と同様に当り前になれば精神まで商人の方々と同じになってしまいます。すると、思考方法も商人の方々と同じになり、いかにして金儲けをするかという事を考えてしまいます。これは正に僧侶としては死を意味します。例えば、ある市中寺院は寺を高層化し、宗教としての機能を最上階に集め、その下をテナントとして飲食店などに貸している事例等は僧侶を廃業して不動産業者に転業してしまった人と言えます。このような僧侶にとって「税の取立人」になることは大した苦痛ではないかもしれませんが、普通の僧侶には、官が「税の取立人」になれと強制すれば、いつかそれが日常化してしまうことを恐れて断固として拒絶します。その代わり、益になるからといって何でもするわけではありません。むしろ利することを避けて、寺院を守っているのです。僧侶は京都の町に対しても大きな責任と義務を持っていると考えております。故に古都税同様、今度の高層ビルの問題のようなことは京都市民や京都の将来に大きな禍根を残すと考えられることに対しては、山門を出て、市民の方々と一緒に活動しなければならないと考えます。