京都の町・敦煌の町
平成5年(会報54-3 )
京都大学名誉教授
国際禅学研究所所長 柳田 聖山
敦煌といえば、中国随一の観光の町。西安から西へ二千キロ、河西回廊の東のとばぐちにある、人口数千の小さい町。砂漠の中のオアシスの一角、砂岩の斜面に蜂の巣のように、掘削された洞窟にまつられる仏たち、その周辺の壁や天井に、所狭しと描かれる無数の絵画が、今に燦然たる仏光を放って、世界の観光客を魅了するのだ。その名も千仏洞、莫高窟である。石仏、塑像、壁画をあわせて、仏菩薩の数は一万。三国時代(三世紀)より北宋初期にいたる、各時代の諸民族の、漢民族には限らぬ無名の民の、実践仏教の記録である。曽っての敦煌は、その風土のゆえに、仏教の町として生きつづけた。
ところが北宋初期、中国と中央アジアとの、民族文化のバランスがくずれ、敦煌仏教は砂漠の中に没してしまう。井上靖の「敦煌」は、そんな砂漠の仏教の挽歌。この町の発見は、今世紀のはじめ、西洋各国の近代化と、アジア侵略の余波による。莫高窟の蔵経洞には、その数五万巻といい、あるいは十万巻という尨大な量の、中世の写経と古記録が隠されていた。発見は、一九〇〇年のある日、全く偶然のことだった。あたかも附近に来ていた西欧各国の、中央アジア学術探検隊が、うわさをきいて殺到し、その大半をヨーロッパに運ぶ。
写経や古文書のほか、塑像、絵画、仏具等、およそ搬出可能なものは、すべて劫略されてしまう。美しい壁画の一部を、岩盤ともに削られた、無残な洞窟さえある。運出と破壊は敦煌に限らず、ホータン、トルファン、キジール等、砂漠の町の大半にひろがる。現地到着が遅かった、我が大谷探検隊にも、かなりの収獲があった。敦煌を中心として、中央アジア各地で発見され、海外に運ばれた文物は、こうして夫々の国立機関や、私立美術館に収蔵されて、世界に分散する。列強の劫奪におどろいた清朝政府が、現地に残った文物のすべてを、急拠北京に運ぶのは、一九一〇年頃のこと。敦煌より北京へ、長い旅の途中にも、かなりの荷脱け品がある。
「此の中央アジアに発達した、真にすぐれた仏教美術、その他の貴重な記念品の今後の安全を期するために、これを組織的に整理し、外に搬出するほかはない」 有名な英国の探検隊長、アウレル・スタインの言葉である(「中央アジア踏査記」、風間太郎訳、生活社刊、一九三九年)。北京図書館に運びこまれた、敦煌文書の完全な目録が、「敦煌劫余録」の名で公刊されるのは、一九三一年のこと。英・仏・露・日のいずれの機関の目録にも先立つ。珍貴の宝物を、海外の探検家に劫められた、劫め残りの文書の記録が、「劫余録」である。
因みに言えば、謂わゆる日清戦争のあと、日本帝国主義の戦力が、中国東北部にひろがるのは、前世紀末より今世紀初頭のこと。あたかも西欧の探検隊が、敦煌を発見するのと同時。やがて日本は日露戦争で、その力を西欧列強にならべる。中華民国の誕生は、一九一二年。末期の清朝政府には、敦煌をはじめとする中央アジアの文物を、管理する余力がなかった。敦煌石室の仏教は、すでに死んでいた。管理能力はなくとも、所有権は生きていたはずだが。再度におよぶ世界大戦の劫火をくぐつて、各国に分散された敦煌文書や、中央アジア出土文物による中国研究が、世界各国の科学者の手にうつり、東西文明交渉のあしあとが次第に明らかになる。国境を超える人類史のイメージが、始めて模索されはじめる。そんな新しい敦煌学の成果が、逆に世界の有力観光地、敦煌の今日を支えている。しかし、そこに問題がある。
コロンブスがアメリカ大陸を発見したと、私たちの世代は疑うことなしに育つ。発見以前、そこに盛えていた文明と、その破壊の事実について、私たちは専門家以外には、ほとんど何も知らずにいた。近代アメリカ文明についても、私たち一般市井人の知識は、全く偏っていたのでないか。発見された新大陸が、全く空白不毛の大地でなかった限り、後から来た発見者には、新しい使命があったはず。先住民という発想ほど、自己冒涜的なおもいあがりはない。発見以後の近代二〇〇年、アメリカ文明の歴史は、果して正当に輝かしい文明の名に価したか、どうか。
先に引くアウレル・スタインの言葉は、敦煌出土の貴重な記念品の、安全保証に関する限り、極めて周到な配慮であろう。すでに死んでいた石窟に、仏教美術を管理する力はなかった。砂漠の風土と、中央政府の無策から、仏教美術を救う使命が、発見者には課せられていたはず。しかし、発見者は記念品を搬出し、組織的に整理するにとどまった。それらが生きつづけた景観の、安全保証に及び得なかった。発見には、仏像も文物も、美術品であり、記念品であるにとどまる。すくなくとも仏教美術、敦煌の町の記念品として、人類文化の未来にのこす、創造的な青写真を引く必要があった。敦煌の発見という近代の新しい破壊から、敦煌の町を守る用意は、その後何もなされていない。
曽って太平洋戦争の末期、日本美術にくわしい八-バード大学附属美術館、東方部のウォーナー博士が、京都と奈良の町を、米軍の爆撃から救ったという、日米安全保障の神話があった。米軍の爆撃リストが公開されて、そうした神話に問題が指摘される今、事柄の真相は今後の検討をまつほかないが、幸いに戦火を免れた古都が今、さらに強大な破壊にさらされているのは、もっとも疑い得ぬところ。怖るべきは京の町を古都、社寺を観光対象とする、行政の新しい再開発である。
京の町をどう考えるにしても、そこに生きている宗教抜きに、青写真を引くことはできない。この町にありとある社寺は、単なる観光資源ではない。それらの数が多いこと、夫々に力強く生きていること、生きざまが夫々に異ること、いずれも世界の歴史都市のうちに、他の例を発見できぬのでないか。行政の開発神話の一つ、政教分離の原則にも、冒涜的なおもいあがりがある。観光対象として利用するだけ、宗教のことは知らぬという、近代一般の宗教音痴が、古都の破壊を早めている。宗教の側に、大きい原因があるのも事実。謂わゆる獅子身中の蟲が生きているのを、獅子が生きているのと勘ちがいしている。敦煌の場合とは、環境がまるきりちがうのだ。
古都の宗教は、物理カで安全保証はされず、通り一片の景観論で、始末できる問題でもない。自然としての立地景観、歴史景観のほか、何よりも大事な生ける宗教景観が、内外両面から劫奪されてゆくのを拱手傍観していてよいはずがないではないか。何よりもまず、宗教景観の生体、宗教関係者みずから、姿勢を正すことだろう。