一休さん作戦/国際禅学研究所所長 柳田聖山(平成6年)

一休さん作戦

平成6年(会報56)

京都大学名誉教授
国際禅学研究所所長 柳田 聖山

 一休さんといえば、杖の先にガイコツをひっかけ、京の町をデモる老僧のイメージ。ガイコツは、御自身の前生のそれ。中国径山の虚堂和尚その人。生れかわり死にかわり、日中の仏法を見護りつづける一休さん。今年は生誕六〇〇年とか。平安建都一二〇〇年の、丁度中央部を支える一休さんである。

 トンチ一休、大徳寺の一休さんだが、いつも大徳寺にいたわけでない。むしろ応仁、文明の戦火のさなか、焼野原の大徳寺を再興し、径山の仏法を日本に興すのだ。狂雲集や自戒集のほか、この人の名で知られる一休咄、狂歌問答、おびただしい数の遺墨と水墨画、茶道、能楽、造庭まで、中世禅文化のすべてが、何らかの形で一休さんにつながる。江戸時代には、トンチ咄や諸国漫遊絵本のチャンピオン。関東一休、山家一休、傾城もの、いろもの草子など、レパートリーがぐつとひろがる。何処か水戸黄門のよぅに、菊の御紋がひかる。近代は又、マンガが絶大の人気、そして盲目美人との艶話も、あることないこと現代作家の関心となる。

 一休さんは八十八才の長寿を保つが、こうなると死後の動きの方が大きく、今もまた活火山系の一人。一宗一派の開山として、絶大の帰依をうける高僧は多いが、宗派の枠をはみだし、国境をこえて、市井の人気を集める坊さまは、三国仏教史上に他に例がない。同時代の蓮如上人が、よく引きあいに出されるが、言いだしべはむしろ、蓮如上人側のよう。

 曽って筑摩の日本詩人選で、「一休」を引きうけた富士正晴さんは、その実像にせまろうとして、えたいの知れない、怖しい人物として、鬼の爪ではらひっかき廻される思い、精神の苦痛を何度味わったことか、おかげで生命がちじんだわい、上の前歯が一本とれたとボヤく。とにかく、今につづく奇妙な一休現象は、京都独自の風土と文化、ここに都を定めた日本民族の、一二〇〇年の大目玉である。

 一休さんに親しみ、一休さんに参ずることは、実は日本文化の深層にいどむ、怖しい作業の一つ。たとえば一休さんは四つ、もしくは五つ以上のシコ名をもつ。相手次第で、使い分けるのだ。

 まず天皇家一〇〇代、後小松天皇の落胤としての千菊丸、薄倖の母子家庭に育って、早く五山の寺に入っての、最初の名のりが周建。最高学府で漢文を学ぶうち、それらに飽き足らないでの転向先が、当時は少数派の妙心寺系、しかも拗りのきいた謙翁宗為。五山は幕府直轄の官学、大徳・妙心は天皇家の私学である。宗為の下であらためて宗純、さらに二十二才で宗為が入滅後、堅田の華叟に参じて、大徳寺の法をついで一休となる。後に虚堂七世とか、虚堂再来を名のるのは、直接には同じ華叟門下の、養叟との不和が動機だが、実は五山派の源流に当る、径山に直結するのがねらい。華叟と死別ののち、譲羽に虚堂山大灯寺をつくり、堺や住吉を放浪する時代、自から狂雲子、瞎炉庵、虎丘と名のり、臨済禅の歴史を遡る。臨済の生涯を色どる、狂僧普化への共感である。

 漸く七十才に近づくと、薪(現田辺町)に妙勝寺を中興し、大応図師の塔主と名のり、酬恩庵を興すのだが、ここを生涯の道場ときめて、自から夢閏と名のる。後にいうように、夫婦のベッドを夢みる意。三国仏教を仰天させる、美人との私語の時。文明二年の住吉薬師堂を経て、同六年には大徳入山と同時退山、巷の禅僧としての灰頭土面。薪と堺を往来して、雲門庵や床莱庵に老いを養う一方、豪商宗臨にすすめて、大徳寺の山門鏡致を一新するのは、すでに八十八才で薪に入滅する年廻り。

 全く以て波瀾万丈の生涯、片時も一休することのない、大車輪の起承転結。そんな実像に近づこうと、誰もが前歯を折ってしまうのが、「美人の瑶水を吸う」とか、「美人の陰に水仙の香有り」という、読者のドギモをぬくような艶詩である。実をいうと、美人とは大灯図師であり、虚堂であり、松源、臨済のこと。別に驚くことはないのだが、品性のわるい読者は、とかく曲解邪推する。言うならば夢閏と名のった時、自から仕掛けた禅学装置の一つ。何れも老狂の薄倖(年寄りの気まぐれ)、京都文明独自の借景なのだ。

 三方を山が囲む京の町は、何処からでも山が見える。山は聖人のいます処だが、フトン着て寝たる美人が見えぬ限り、聖人の姿も亦た拝めない。借景の美学は、京の中世に深まる。他を借りるのではない。自から借景の一部となる、宗教のことである。一休さんは薪をみつけて、自から京の借景となる。五山を制し、朝幕を見通し、日中文化を総括する。先に譲羽に退いたときも、ねらいはすでに京の町。一休さんがハンストに入ると忽ち天子の勅使がくる。譲羽は御所造営用の、良質の石灰の製産地。

 一休さんは狂気を装い、色気にかくれて、巷をさまよう屈原である。楚の屈原は入水するが、一休さんは入水をも装う。ドブロク造りの名手。日中文明を総括して、世界の中世を開く。薪の酬恩庵は、日本の径山となる。一休さんは一〇一代天皇とならず、自から虚堂再来を演出し、複雑な権力構造の一本のネジとして、詩魂の王国をつくりだす。幻想のくに、夢の化城にすぎないが、あまりにも生々しく、あまりにも色彩豊かで、人々はすでに六〇〇年も、そこから醒めようとはしない。

 のどがかわくと、谷川の夢をみる。寒い夜は、毛皮の夢をみる。女人のベッドを夢みるのは、ボクの育ちのせいか。近世、夢を名のる高僧三人、申すまでもなく夢窓、夢嵩、無夢のこと。ボクは今、夢閏と名のる。夢という文字は同じだが、その内実は三人と逆。それというのも、三人は名声サクサク。人々は仰ぎ尊んでやまぬ。ところがボクの方は、老人の気まぐれ、思いつきの屋号である云々。

 「夢閏記」という、さいごの名のりの謂われを記す。履暦の一節。先にいう老人の気まぐれ、老狂の薄倖である。聞えんフリして、風のように黙って通りすぎる。艶っぼい漢詩の背後に、冷静で酔うことのない正気が、ひそやかに隠されている。ベッドの中側は、一緒に臥してみた人以外、誰にも判らぬのである。老狂も亦た、一休さんの借景だった。

 おもしろいのは、一休さんが年をとるほど艶っぽくなること。晩年の一休さんは、渇病にかかっている。今の医者の診たてで、糖尿病。昔、卓文君とかけおちして、成都の裏町で酒場を営んだ司馬相如、古代中国文学の神さまも、晩年は渇病に苦しんでいる。一休さんは司馬相如気どりで、渇病を楽しむのである。ひょっとすると、渇病そのものも一休さんの借景。老狂を装うことで、六〇〇年もつづく、すさまじい夢閏のタイムトンネルに、一休さんは人々を誘いこむ。老いて衰えることのない、詩魂の秘密といえそう。

 御自分の髪と鬚を植え、自から等身大の寿像を二つ。そして又遺偈を二枚、弟子たちにのこす一休さん。老いて衰えることのない一生涯以上に、うなぎのぼりに活気を増す、六〇〇年来の京の巷の仏教者である。