宗教法人法「改正」と税制 -宗教法人法の「改正」について/駒沢大学教授 洗建(平成8年)

平成8年8月15日 刊行本 宗教法人法「改正」と税制 -宗教法人の自主性を確立するために- より

宗教法人法の「改正」について

駒沢大学教授 洗 建

 一、法改正における発想の問題

  一九九五年十二月、宗教法人法の一部改正が強行された。一九五一年に法が制定されて以来、一度も手直しされておらず、社会の変化に対応できなくなっていたためであるという。もちろん、宗教法人法は不磨の大典というわけではなく、不備なところがあれば改正を検討することは当然のことといわなければならない。しかし、どのような社会の変化があり、そのためにどのような不備が生じてきているのかは、いっこうに明かではない。「宗教法人法制定当時の宗教法人数は三五〇程度であったものが、今日では一八万四〇〇〇にものぼっている」などという背景説明もなされたが、これは知識の十分でない国民に、この数十年の間にとてつもない激変があったかのような印象を与えるための数字のトリックである。三五〇というのは文部大臣所轄の包括法人数(教団の数)であり、一八万四〇〇〇というのは神社や寺院などの単位法人を含む法人の総数であって、比較すべき数字ではない。単位法人に関しては、神社約八万、寺院約八万、計一六万余が宗教法人数の大多数を占めており、このことは、明治以来今日までそれほど変わってはいないのである。包括法人数についても、今日では約四〇〇であり、激増したというほどのものではない。宗教法人令当時には七〇〇を越えていたことに比べれば、むしろ落ち着いているというべきである。

  社会的変化というのは、改正案を提出した後で、その正当性を取り繕うために考え出した抽象的な改正理由でしかないように思われる。実際に改正の検討が始められたきっかけは、オウム真理教による前代未聞の犯罪事件にあり、その後は創価学会を攻撃するための政争の具とざれたことは、誰の目にも明かであろう。「東京都所轄のオウム真理教が、山梨県でサリン工場を作ったのでは、所轄庁はこれを把握できないではないか」という質問に対して、与謝野文部大臣(当時)が現行法に問題があるとの認識を示し、検討を約東したのが始まりであった。しかし、このやりとり自体が、質問者も、文部大臣も宗教法人法の精神を十分に理解していなかったことを示している。つまり、この質疑応答は「宗教法人の活動を所轄庁が把握し、管理し、悪事を働くことのないように指導、監督するのは当然のこと」とする考えを前提としてなされているからである。しかし、法は、

  第八五条 この法律のいかなる規定も、文部大臣、都道府県知事及び裁判所に対し、宗教団体における信仰、規律、慣習等宗教上の事項についていかなる形においても調停し、若しくは干渉する権限を与え、又は宗教上の役職員の任免その他の進退を勧告し、誘導し、若しくはこれに干渉する権限を与えるものと解釈してはならない。

と規定し、所轄庁が宗教法人の宗教活動にいかなる形でも介入することを禁止しているのである。宗教団体の組織や、財産、経理も、宗教目的を離れて存在するわけではない以上、財産管理の側面に限定したからといって、所轄庁が介入して良いわけではない。まして、宗教法人が工場や農場を経営すること自体を制限することが許されるものではない。修道院における農場経営や世界救世教の自然農法、セプンスデイ・アドベンチストにおける食料工場など、いずれも信仰に結びついた活動であるからである。結局、法改正によって、オウム的事件の再発防止をすることはできないことが明らかになり、「創価学会攻撃のために法改正をする」とはいえないので、「社会の変化への対応」などという抽象的改正理由が付加されたものであろう。

 二、宗教法人法の精神

 宗教法人法は、

  第一条 この法律は、宗教団体が、礼拝の施設その他の財産を所有し、これを維持運用し、その他その目的達成のための業務及び事業を運営することに資するため、宗教団体に法律上の能力を与えることを目的とする。

と法の目的を明示しており、宗教団体に法人格を賦与することを唯一の目的とするものであって、それ以上のものでも、以下のものでもなく、まして所轄庁が宗教法人を指導、監督、管理するための法律ではないことを明らかにしている。
  指導・監督の規定がないことをとらえて、この法律は「宗教法人を野放しにしている」、「宗教団体は悪いことをしないという〈宗教性善説〉を前提としたザル法である」などという意見が述べられてきた。しかし、これらの意見も法の精神を理解しないものであるといわなければならない。法は認証制度を採っているのであり、許可制を採っているわけではない。所轄庁は、当該団体が宗教活動を現に行っているかどうか、法人規則が法の規定に則しているかどうかを確認するのみで、悪事を働きそうな団体か否かを判断する権限を与えられているわけではない。したがって、人間社会の縮図として、宗教法人の中には、悪事をたくらむ団体が紛れ込む可能性があることは、むしろ当然の前提としているものといわなければならない。法は、そのような事態にどのように対処しようとしているのか。

  第八六条 この法律のいかなる規定も、宗教団体が公共の福祉に反した行為をした場合において他の法令の規定が適用されることを妨げるものと解釈してはならない。

とあるように、宗教団体(法人であっても、非法人団体であっても)の行う悪事に対しては、刑法その他一般の法令の適用によって、規制すれば十分であり、行為や活動の規制と法人格の賦与とは別次元の問題であることを示しているのである。信教の自由は、決して治外法権を与えるものではない。法人格の有無にかかわらず、日本の法令はすべて宗教団体にも適用されるのであって、犯罪の防止、摘発にはそれぞれの法が適用されれば十分であり、法人格の賦与を目的とする法人法において、行為の規制をすべきではないということである。なぜなら、法人法はいうまでもなく、宗教法人のみに適用されるのであるから、この法律に「行為の規制に関する規定」や「所轄庁に指導・監督権限を与えるような規定」をおけば、それは一般市民には適用されていない特別の規制を宗教法人にのみ課することになり、それはまさしく信教の自由の侵害になるからである。戦前のような宗教公認制を採っていない現状においては、非法人の宗教団体も合法的存在なのであって、非法人宗教団体の犯罪行為に対しては、法人法をどのように改正しても、これに対処することは不可能であることからも分かるように、法人法によって「行為の規制」を行おうとすることは誤りなのである。法人格の有無によって規制の程度を変えるべき正当な理由はないのである。

  法人格と行為の規制についての関係は、個人との比較によって、よりよく理解されるだろう。団体が法人格を取得するということは、法律上「人」としての権利能力を取得するということであり、個人が出生によって当然に持っている能力を得ることに過ぎない。少なくとも、直接の法的効果は、それ以上のものではない。個人は出生届によって、戸籍を取得し、法律上の能力を取得するが、戸籍や住所を管理する役所に、その活動や行為を指導・監督・管理されることはない。いかなる活動をすることもまったく自由である。しかし、だからといって野放しにしているということにはならないのである。違法行為や犯罪行為は、刑法その他の法律によって規制され、そのことによって社会秩序は維持されているのである。宗教法人についても、まったく同様であるべきであるというのが、法人法の精神なのである。

 三、法人化の社会的効果と民法

 すべての法人の基本について定めているのは、民法である。民法は、法人を営利法人と、公益法人に分けている。この分類の仕方は、我妻栄も指摘するとおり、社会に存在するすべての社団を包括するものではない。つまり、非営利・非公益の社団(たとえば同窓会など)は、この分類では入る余地がないために、わが国では法人化の道が閉ざされていることになる。営利を目的とする社団は、登記によって自由に設立することを認めているが、公益を目的とする非営利の社団または財団は、原則的に法人化を許さず、所轄大臣が特に許可したものに限って法人になることができるものとされている。この点、すべての非営利社団に原則自由に法人化を認めているアメリカやフランスとは大きく異なっている。民法は、

  第三四条 祭祀、宗教、慈善、学術、技芸其他公益ニ関スル社団又ハ財団ニシテ営利ヲ目的トセサルモノハ主務官庁ノ許可ヲ得テ之ヲ法人ト為スコトヲ得

と定め、宗教団体は公益に関する非営利団体であると規定している。これが宗教団体の法人化の基礎であるが、宗教団体の特性の故に直接民法による法人化は適切ではないと考えられたため、民法制定当初から、民法施行法は「当分ノ内神社、寺院、祠宇及ヒ仏堂ニハコレヲ適用セス」と規定し、特別立法を予定していた。民法第三四条の特別法として最初に成立したのが、宗教団体法であり、日本の敗戦によるその廃止を受けて、宗教法人令、そして宗教法人法が制定された。したがって、宗教法人法は、私立学校法などと共に、民法第三四条の特別法であり、宗教法人は「公益法人等」として、法体系の中で同等、平等の扱いを受けている。

  しかし、宗教法人法と民法では、法人に対する国家の態度は、その根本から違いがある。民法は、公益法人の設立について許可制を採り(第三四条)、定款の変更については認可制を採るり(第三八条)、主務官庁に調査権や一般的監督権を与え(第六七条)、設立許可の取り消しの権限を与えている(第七一条)のに対し、宗教法人法は、宗教法人の設立について認証制を採り(第一四条)、規則の変更についても認証制とし(第二八条)、所轄庁の調査権、監督権を否定し(第一条第二項、第八五条)、所轄庁による認証取り消しは、当該団体が宗教団体でないことが判明した場合に一年以内に限って認め、原則は裁判所の判断を待つこととしている。これをまとめてみれば、次のようになる。

 民  法宗教法人法
設立許可制認証制
規則変更認可制認証制
所轄庁の権限調査権・監査権認証のみ
解散行政の権限裁判所の判決

 このような違いは、宗教団体法当時にはなかったものである。つまり、宗教法人法の規定がこのようなものになったのは、宗教団体法のように、所轄官庁が宗教団体をその保護・監督のもとに置くことが、信教の自由、思想、信条の自由を侵すことになったが故であり、国民の精神的自由を保障する現行憲法の精神に基づく規定にしたからである。つまり、宗教法人法は、民法の特別法であることに違いはないとしても、その立法の精神は直接憲法に基づくものなのである。

  このようにみてくると、法人法が「法制定以来四〇数年を経て、社会の変化に合わなくなった」というが、社会の変化に合わなくなっているのは、制定以来一〇〇年にもなる民法の方ではないのか。そもそも、民間の資金で、民間で計画された非営利の活動を目的とする社団に対して、原則上は法人格を賦与しないということにどのような合理性があるのか。わが国の民法は、当時のドイツ民法をほぼ直訳的に導入したといわれる。当時は、わが国も、ドイツも民主国家ではなく、君主主権の君主制国家であったので、民衆の自発的活動は望ましからざるもの、抑制すべきものと考えられていたのではないか。アメリカやフランスが、公益性の有無にかかわらず、非営利社団の法人化を原則自由としていることと比較しても、わが国の民法の規定が「オカミ」中心の抑圧的性格を残した時代遅れの規定であることは明かであると思われる。

  わが国では法人になることが、単に法律的能力の取得という法的効果を越えて、社会的信用を獲得することになり、それ故にオウム真理教も宗教法人になることに固執したといわれる。確かに、現状では法人であることが、信頼性の指標であるかのような社会的効果を持っている。しかし、そのような効果は、実は民法の抑制的規定が生みだした効果ではないのか。民法が公益法人に関しては、自由設立を認めず、法人を所轄庁の保護・監督下におくという制度を採ってきたために、法人であるということが、国家のお墨付きを得ているという信頼感を生み出すことになったのである。このことは自由設立である会社法人と比較しても分かることであろう。営利法人に関しては、国民は会社であるということだけで、全幅の信頼を置くことはない。あくどい商売をする会社のあることを誰しも承知しており、信頼できるかどうかは、その会社の過去の実績、規模、知名度などを勘案した上で判断している。そして、自由社会では、法人の信頼性の有無については、国民の自主的判断に委ねるのが本来の筋なのではないか。そうでなければ、公益法人等の信頼性を悪用しようとして、法人格の買収や仮面をかぶっての法人化などの問題を絶滅することはできない。国家の指導・監督権の強化によって問題を解決しようとすれば、ますます国民の自由が抑圧されるだけである。非営利社団の自由な法人化を認めることは、公益法人は信頼できるものと思わせてきた一〇〇年の歴史の故に、一時的に混乱を招く恐れはあるが、法人であるということに、「法律上の能力の取得」という本来の法的効果以上の夾雑的効果を持たせるべきではないのである。

 四、宗教法人と税制

 「宗教法人が公益法人として、非課税の特典を得ている以上、それなりの規制が加えられるのは当然である」、「非課税という優遇措置を受けているのだから、その経理を社会に公開し、透明な運営をするのは社会的責任である」など、宗教法人に対する何らかの規制を求める声が、その根拠としているのは、宗教法人の非課税の事実にあるといえよう。しかし、法は税については何も規定してはいないのである。宗教法人の税に関する規定は、法人税法、地方税法、その他の税法に規定されており、公益法人等は平等に横並びの制度になっている。したがって、宗教法人の税の問題は、公益法人全体の、さらには非営利社団全体の税制の問題として考えられなければならない。
  宗教法人の非課税の事実として主なものは、

(1)収得税関係では法人税(収益事業から得た収益を除く)、銀行利子など法人所得税の非課税、
(2)資産税関係では「もっぱら宗教本来の用に供されている宗教法人法第三条に規定する境内地、境内建物」に対する固定資産税、不動産取得税などの非課税、
(3)免許税関係では境内地、境内建物の登録免許税、印紙税などの非課税が上げられる。
(4)消費税関係では物品税の廃止により、特に非課税となるものはなく、また宗教家個人の所得に対する特典はなく、宗教法人には源泉徴収の義務が課されている。

これらは、公益法人一般に共通する税制であり、宗教法人を特別扱いするものではない。

 しかし、ここでも宗教法人に対する国家の態度と、公益法人等に対する態度との間に違いがあることが、矛盾を生み出す。公益法人に対して、国家がこれを保護・監督のもとに置くという思想があるために、その税制の中にも保護的思想があることは否めない。そして、保護を与える以上、特別な規制や監督を行うべきだということも否定できなくなるのである。しかし、憲法は宗教団体に対して、特権を付与したり(憲法第二〇条第一項後段)、財政援助(憲法第八○条)をすることを禁じている。このような矛盾に対して、宗教法人非課税の根拠は従来どのように考えられてきたのか。

  憲法学の多数説では、宗教法人の非課税措置は、法人としての性格の共通性のために、公益法人と同等の措置が採られているに過ぎず、宗教法人のみを特別に優遇するものではないから、特権の付与にはあたらず、憲法に違反するものではないというものであった。確かに、宗教法人の税制は、非営利法人全体として同等の扱いがなされるべきなのであるが、公益法人税制の中に保護的思想がある限り、宗教法人にもこれが及ぶことを避けられず、このような解釈で政教分離原則(規制を加えず、保護もしない)上の問題が完全に払拭されたとは思えない。ここでも、公益法人に対する国家の保護と支配が、問題を難しくしている。

  日本と同様に政教分離原則を採用し、宗教団体の免税措置を取り入れているアメリカでは、この問題はどのように考えられているのだろうか。アメリカでは、非営利法人であることによって自動的に非課税となるのではなく、非営利の収入であることを示す経理書類を添えて、申請をして始めて免税の措置を受けることができるというように制度の根幹が違うが、こと宗教団体に関する限り、実際にはきわめて簡単に免税が認められるという。宗教団体の免税については、消極的財政援助に相当し、政教分離原則に違反するという違憲論や、社会に多元的価値観を提供する公益性の故に合憲であるとする意見など、様々な議論があったようであるが、連邦最高裁の「宗教団体への課税は国家の宗教に対する過剰な介入を招く故、国家と宗教との関係を最小にすることを求める政教分離原則から、これを免税とすることが求められる」とする合憲判決が出されて、一応の決着をみた。宗教団体の非課税の根拠を考える上で、わが国でも参照すべき見解であろう。

  また、非課税の根拠は課税の原則の上からも考えられる。法人税は、収入の全体や会計規模の大きさに課税されるものではなく、収入から経費を差し引いた収益に対して定率課税がなされるものである。この点からいえば、非営利団体は、本来的に収益がないから、当然に非課税となる。もちろん、非営利団体としての経理の実態があることが、その前提となるが、宗教法人も「収入が信者の献金、布施のみであり、有給職員の源泉徴収が所得税法の規定通りに行われており、支出はもっぱら宗教法人の目的達成のために使われている」という本来の経理と、財産管理の組織とを備えていれば、課税の原則によって当然に非課税となるべきものである。事実、法人税法では、公益法人等と並んで、人格のない社団(権利能力なき社団、たとえば日本宗教学会など)も非課税とされているのであって、そこには公益性の有無も、法人格の有無も関係なく、国家の保護、特典という意味合いは全くないのである。

  公益法人税制は、財団、社団法人から宗教法人、学校法人、生活協同組合などにも及ぶもので、現実を無視した改正は行うべきものではないが、あらゆる非営利社団(公益である必要はない)の法人自由設立を前提として、非営利である以上当然に非課税とすべき税と、税負担の公平のために課税すべき税とを原理に立ち返って根本から考え直す必要があるのではないか。

  それは課税強化をすべきであるということではない。非営利社団の本来の活動から得る収入は、たとえ、その金額が多額であっても、その利益の配分はなく(個人に給与として支払われる分には当然所得税がかかる)、団体の目的達成のために使われるものである以上、そこに収益は存在せず、収益に対して課税される法人税は非課税となるべきである。ただし、収益事業を行っている場合には、低率課税や公益会計への寄付の損金算入などの特典は、廃止した方がよいかも知れない、保護的特典が存在する限り、営利団体が税の減免を求めて、非営利法人の仮面をかぶる可能性があるからである。その場合でも、その影響の及ぶところについて、矛盾を生じないかどうか実態を十分に押さえる必要があるし、現実には布教活動そのものであるような出版事業などは収益事業の範囲からはずすなど、収益事業の範囲についても、実態に即した見直しが必要となろう。

  固定資産税に関しては、その論理そのものから考え直す必要があるかも知れない。一般に資産は最も担税力(税負担能力)が高いものとされているが、宗教法人の実態に関してみれば、広大な境内地を有する伊勢神官や筑波山神社、本山級の伝統寺院などの場合、これに課税することは、破産か境内地の売却かを迫るとにもなりかねない。資産の担税力には、その使用実態による違いが大きいことは、現在でも宅地と農地では税率を変えているところからもうかがえるのであり、一般に非営利社団の本来の用に供されている不動産には、担税力がほとんどないことが配慮されるべきであろう。

  いずれにしても、公益団体を国家が保護・監督するという見地からではなく、国民が自発的な非営利目的の活動をするのは国民の権利であり、その活動に資するためにも、また社会の取引の便宜のためにも、原則自由に法人格を取得せしめ、それに相応しい税制が考えられるということが、宗教法人をめぐる問題の解決のために必要なのであって、宗教法人法よりも、憲法原則との間に齟齬のある現行民法や保護思想を含んだ税制の方に問題があるのである。

 五 法の支配から政府の支配へ

 このようにみてくると、今回の法改正は、改正の方向性をまったく誤ったものといわなければならない。改正点は、①二都道府県以上にわたって礼拝の施設を有する宗教法人の所轄を文部省に移管する、②財務関係を中心とする法人備え付け帳簿の所轄庁への提出を義務づける、③信者に帳簿類の閲覧請求権を与える、④収益事業の停止命令(第七九条)、認証取り消し(第八○条)、解散命令請求(第八一条)に相当する疑いのある場合に、所轄庁に質問権を与える、⑤宗教法人審議会の委員数の上限を一五名から二○名に引き上げるの五点である。今回の改正には所轄庁にあからさまな指導・監督権限を賦与することが盛り込まれたわけではないが、①②④の改正点は、宗教法人が悪事を働かないように、所轄庁による監視、管理を強化するためのものであることが明らかである。

  今回の改正は、宗教法人法が国家の宗教への介入を禁じた憲法の精神に基づくものであることを忘れて、所轄庁が法人を管理するのは当然であるという民法的発想に基づく「管理の思想」を導入したのである。政府は「法人格を与えた所轄庁として、その責任を果たすために、必要最小限の改正をした」と説明しているが、所轄庁が法人格を「与える」という考え方自体が、認証制度の精神を踏みにじっているのであって、法人格は「法」に基づいて当該団体が「取得する」ものであり、所轄庁が「与える」ものではないのである。したがって、所轄庁の権限と責任は、当該団体が法の規定に合致しているか否かを正確に確認することに尽きるのであって、その団体の活動や行為についてまで、責任を負うことはできるはずもないし、また、責任を負おうとすべきでもないのである。

  情報開示や、宗教法人審議会の増員についても問題が多く、今回の改正がいかに拙速であったかを示しているが、紙数の関係で省略する。

  改正法は、所轄庁の指導・監督権を明記しなかったものの、法人格を賦与した所轄庁にはその責任があるとの思想によって、「行政指導」という名の恣意的裁量による、権力の介入に道を開いた。これは民主国家の基本である「法の支配」を覆し、行政権力=オカミが支配する国家へと逆行させるものである。この法改正のみでなく、このところそのような危険な兆候がいくつも見られる。

  法改正に伴う論議の中で、与党は憲法第二○条の解釈の変更を求め、解釈改憲の道を模索した。宗教法人法についても、今回改正を見送った認証のあり方、所轄庁による解散命令などについて第二次改正をすることを公言している。「認証申請を受理してから三ケ月以内に、認証、不認証の決定をしなければならない」(法第一四条第四項)という規定にもかかわらず、すでに現在でも行政の恣意的裁量によって、脱法的な「認証遅延行為」が横行している。認証に行政の裁量を認めるような法改正が行われることになれば、もはや法は権力への縛りではなくなり、権力の恣意的支配を許すことになる。更に、宗教法人法改正のみでは、宗教団体の活動の規制が十分にはできないと考え、宗教基本法(あるいは政教分離基本法)の制定をも研究している(与謝野委員会)。これらの動きは、明らかに国民の信教の自由を制約し、宗教・思想・信条を統制する動きであるにもかかわらず、当事者にその自覚がみられないように思われるところが恐ろしい。宗教基本法は、今すぐ法案提出に至る状況にはないが、その構想は、国民の権利に対する尊重の感覚をまったく欠いており、世俗法(国家)によって宗教を統制しようとする意図があまりにも顕である。創価学会の政治活動を制限することを中心に、霊感・霊視商法などを念頭に置いたものであると思われるが、詐欺その他の違法行為に対して刑法その他の一般の法令によってこれを規制するのではなく、宗教団体のみを対象に特別な規制を課することを企てるものであり、信教の自由の侵害そのものであり、まさしく宗教統制法なのである。与党政治家たちの頭の中にはこのような考えが存在し、これを当然のことのように感じてることに驚きを禁じ得ない。

  憲法第二○条の「いかなる宗教団体も・・・政治上の権力を行使してはならない」との規定の解釈にしてもそうである。これが「宗教団体に国家の統治権力の行使を付託してはならない」という国家に対する禁止規定であって、宗教団体の活動に対する制限規定ではないということは、憲法学上の通説でもあり、憲法制定当時以来政府の一貫した見解でもあったものを、ここに来て急に権力維持の都合でその解釈を変えようとしている。政教分離という「言葉」によって、その意義を「政治と宗教の相互不介入の原則」のことであるなどと解釈しようとする事はナンセンスである。「言葉」を取り上げるのであれば、アメリカでは、国家と教会の分離(Separation of Church and State)と呼ばれ、フランスでは国家の世俗性の原理(ライシテの原理)と呼ばれているのであって、それぞれに異なった表現がされている。「言葉」から、政教分離の一般的原理を導き出すことが無理であることは明かであろう。政教分離とは国家という権力機構と宗教の分離なのであって、決して政治と宗教の分離ではない。宗教団体が、その信仰上の理念を達成しようとする活動が政治性を帯びることはいくらでもあるのであり、これを政治的であるとの理由でその活動を制限することは信教の自由の侵害そのものなのであって、政教分離制度の趣旨に反するのである。かりに、創価学会・公明党(あるいはこれに類する政党)が単独で政権の座につくことがあっても(そしてかりに彼らに憲法に違反する意図があったとしても)、それ自体で憲法に違反するわけではない。その政権が、創価学会に特権を付与したり、権力の行使を付託したりしたとき始めて憲法違反になるのである。それは自主憲法制定(現行憲法に違反する理念)を党の綱領としている自民党が単独で政権を樹立しても、それ自体は憲法違反ではないことと同じことなのである。憲法という最も基本となる法規を、政権政党の政略上の都合で勝手に解釈を変えてしまうということは、もはや法の支配する国家ではなく、政府、政権党がその恣意的意志によって支配する国家になるということである。

  そのほかにも、その危険な性格が指摘されているにもかかわらず強引に破防法の団体適用が進められ、裁判公開の原則が侵される危険性を含んだ民事訴訟法の改正も進められている。このような国民の権利を制限する宣大な制度の改正が、あまり国民の理解を得ないままで密かに急いで進められている。宗教法人法の改正はそれだけの孤立した問題ではない。「戦後五○年、戦後民主主義の見直し」などのかけ声のもとで進行している現在のこのような動向全体との関連の中で理解されなくてはならない。その方向が「真の民主主義の確立」に向けてではなく、「法の支配(国民の支配)から権力者の支配(与党政治家・行政・司法官僚の支配)ヘ」と向かっている恐れがあるのである。かりに戦後の見直しが必要な時期に来ているのが事実だとしても、歴史の転換の方向を誤ってはならない。信教の自由は、最も目に見えない、最も傷つきやすい国民の権利である。その保証の度合いは、国民の権利、人権保障のバロメーターである。オウム真理教事件をきっかけに起こった宗教攻撃の風潮は警戒しなければならない。宗教に対するある種の嫌悪の感情が利用される危険がある。改正法が成立してしまったからといって、その自由抑制的性格に対する批判の声を絶えさせてはならない。