カルトと社会(平成12年)カルトと社会/東京大学教授 島薗(平成12年)

カルトと社会

平成12年(会報68‐1)

東京大学教授 島 薗

 私は「カルト」という語を用いると、宗教集団を「まともなもの」と「まともでないもの」に二分してしまうことになるので、用いないようにしている。多くの個人がそうであるように、宗教集団にもさまざまな美点や欠点がある。新しい宗教運動が熱情にかられ、常識はずれの行動をとることがあるのは昔ながらのことである。信教の自由を是とし、寛容や多様性を尊ぼうとする社会においては、市民に明白な危害を及ぼすことのない宗教集団は、たとえ奇異な面があると見えてもできるだけ許容するのがいちおうは筋であろう。

 ところが、六〇年代から八〇年代にかけてこのような寛容の美徳を盾にとって、法にふれない範囲できわめて攻撃的に市民に関わったり、犯罪に紙一重の巧妙な手段を用いて自己利益を追及するように見える集団が増えてきた。目的のためには手段を省みないといった態度がその背後にすけて見える。それも一般社会からの敵意が増しても意に介することなく、自集団のまわりに分厚い壁をもうけて信徒を隔離しながら、かえって新しい入信者をうまく獲得するかに見えるのだ。新宗教やそれに類似した自己変容追及集団のなかに、このように「内閉的」な傾向を帯びるものが増えてきた。これが「カルト」という言葉を用いたくなる背景である。

 一九九五年のオウム事件以後、事態は明らかに変わってさた。こうした内閉的な宗教集団への世間の風当たりが厳しくなり、内閉的であることのメリットとデメリットとの釣り合いがマイナス超過になってきた。そこで市民の自由を脅かすような攻撃的、欺瞞的、暴力的な布教はいくらか行われにくくなった。たとえば、八〇年代までは公然と行われてきた霊感商法の類は今はごくわずかである。強引な勧誘や寄付強要も減ってきた。この一年ほどの間にマスコミで取り上げられているのは、なお強い内閉性をもつわずかな集団のいくつかであり、他に同様の集団がたくさんあるわけではない。このように宗教集団の内閉的で攻撃的な態度が和らいできたのは、さしあたり歓迎すべさことである。

 だが、世間の宗教集団への風当たりが強くなったことにはそれ以外の効果もある。まず、人々が多くの宗教集団に対してマイナスイメージをいだく傾向が強まった。オウム真理教のイメージに引っ張られ、強い偏見をもって宗教集団を見る人が増えた。新宗教一般についてはっきりそういえるし、仏教やキリスト教の既成教団についてもいくぶんかそういえるだろう。熱心に布教を行うタイプの宗教集団にとっては「冬の時代」といってよいだろう。ここまでははっきりといえることだが、次に述べることはかなり推測を含んでいる。

 このような「冬の時代」の状況の下では、宗教集団が安全を求めて、あるいは世間の支持を求めて、①相互連帯を求めるなどして、社会への自己アピールを積極的に行ったり、②社会の主流の勢力に庇護を求めたり、寄り添ったりしようとする傾向が強まるだろう。蓮門教や天理教が厳しく批判された一八九〇年代以降の時期や、大本教やひとのみち教団が全面的な取り締まりを受けた一九三〇年代以降、多くの新宗教が華々しく興隆し、マスコミの激しい批判を浴びた一九五〇年代などはそうした時期だった。①と②の関係はどちらか一方だけが選択されるのではなく①と②の双方が結びついて行われる場合が多い。だが、それぞれの方向に、どれほどのウェイトがかけられているか、調べてみることは可能だ。

 では、二〇〇〇年代の「冬」において、宗教集団はどのような方向に向かうのだろうか。とりあえず、一九五〇年頃の状況と二〇〇〇年の現在の状況を比べてみよう。五〇年代には宗教集団の自主性が確保されうるということの経験はまだなかったが、民主主義と自由の未来への希望があった。そこから民主主義と自由の理念に訴えながら、宗教集団が連帯して各自の自主性を得ようという態度が有力になった。そのような背景の下で、新日本宗教団体連合会(一九五一年結成、略杯「新宗連」)などの宗教集団間の連合組織が活発に活動した。その成果は今日にまで引き継がれており、孤立しがちな宗教集団を支え、自主的に一般社会との橋渡しをするためのいくつかの機構が生きている。

 二〇〇〇年の状況では、すでに存在している宗教集団のヨコの連帯の機構に依拠しょうとする姿勢はもちろんあるが、それが新たに活性化するという方向性は見えていない。統一教会系の『宗教新開』は「宗教連合の具現」を社是に掲げて紙面に示しているが、それが成功している気配はない。阿含宗、真光、大山、命神示教会、幸福の科学、ワールドメイト、エホバの証人等、七十年代以降に発展期を迎えた、いわゆる「新新宗教」の多くは、ヨコの連帯に加わろうとする姿勢をあまり見せていない。とするともう一つの方向性、つまり社会の主流の勢力に庇護を求めたり、寄り添ったりしようとする傾向が強まるかもしれない。「カルト」批判が的をはずれて強められた場合、そうした方向性を強化促進しないとも限らない。

 宗教運動は時代精神の動きに深く関わっている。宗教運動の動向と世間の宗教運動への対し方とを、相互に見比べながら、注意深く見守っていく必要があると思う。