「宗教ガイドライン」に対する見解/宗教法人問題連絡会(平成12年)

宗教ガイドラインに対する見解

日本弁護士連絡会意見書:「反社会的な宗教活動にかかわる消費者被害等救済の指針」の問題点

平成12年5月31日

宗教法人問題連絡会

はじめに

 日本弁護士連合会は1999年3月26日、「反社会的な宗教に関わる消費者被害等の救済の方針」と題する意見書を発表しました。日弁連では、オウム真理教や、霊感・霊視商法などの消費者被害や人権侵害についての相談を受けた弁護士が、どのように対処すべきかを提言したものと説明しています。しかし、宗教法人問題連絡会では、意見書の中核である「宗教的活動に関わる人権侵害についての判断基準」について、「宗教活動の是非の判断基準」として一人歩きしないかとの危惧を抱きました。

 日弁連の消費者問題対策委員会は96年2月、同委員会がまとめた報告書「宗教活動名目の各種資金獲得活動に関する実態と問題点」を元に、宗教界や学者から意見を聞こうと、「宗教活動と消費者問題」をテーマにシンポジウムを開催しました。このとき「宗教活動等についてのガイドライン」(試案)が「討議の材料として」提示されました。

 この「ガイドライン」は議論のためのたたき台で「あくまで試案」として提示されたものですが、「法律家が宗教のあり方を指導するのか」「問題の活動を正当な活動をどう分別するのか」などの疑問が投げかけられました。

 97年10月に「ガイドライン-宗教活動などがもたらす消費者問題や人権侵害への対処の指針」がまとめられました。しかし、「ガイドライン」では宗教活動のあり方を示したものとの誤解を与えるものではないかと、表題を「宗教的活動等に関わる人権侵害についての判断基準」とあらためました。それが今回「指針」として公表されたものです。また、その内容が「宗教トラブルの予防・救済の手引き」として出版されました。

 宗教法人問題連絡会では、99年の10月に同委員会が開いたこの問題をめぐるシンポジウムに「日弁連の意見書に対する疑問」とのリーフレットを作成。このたび、健全かつ自由な宗教活動が阻害されないために、この日弁連の意見書の問題点を抽出するために本冊子を発行するに至りました。

 宗教関係各位におかれましては、信教の自由の観点からも、この問題について論議を深めていただきたいと存じます。この冊子がご参考の一助となれば幸甚です。

1 総論

一、「反社会的」宗教活動の判断基準の危険性

一、「反社会的」宗教活動の判断基準の危険性

 意見書の内容を掲載した「宗教トラブルの予防・救済の手引」は、「近年、一部の宗教団体に「yるものではありますが、極度に不安をあおる等宗教活動にかかわり、市民の人権を侵害し、その生活や家庭を崩壊しかねないような被害相談が増加し」ているので、「全国の弁護士がこの種の事案に積極的に対応することを求めるとともに、関係各機関にも具体的対応をとっていただくため」に出版されたものであるという。(『宗教トラブルの予防・救済の手引』3頁、以下『手引』と略す)。われわれも違法と見られる宗教事件が多発していることを否定するものではないし、このような事件の被害者救済のため、苦労されてきた弁護士諸子の努力は評価するものである。

 しかし、意見書で「反社会的な宗教活動」の「判断基準」として提示された基準には極めて問題が多く、このようなものが「反社会性の判断基準」として社会一般に広く受容されることになれば、全ての宗教団体の活動が抑制されることになりかねないので、その問題点を指摘し、この基準の撤回を求めざるをえない。

1 宗教活動一般を抑制する危険性

 『手引』によれば、この基準は「個別に問題となる事例が生じたときの判断の目安及び判断の際に考慮されることが相当と考えられる事頁を示した。」ものでああり、「宗教のあり方や活動そのものを規制しようとする意図に出たものでは」なく、「団体としての性格を判断する指標となるものでも」ないという(『手引』4頁)。しかし、その一方で、家族や親族が、「その宗教団体等の性格を判断する上でのひとつの<ものさし>になりうる」(本冊子巻末資料32頁、以下資料と略す)とも述べており、さらに本書の起草にかかわったⅠ弁護士は「裁判所が判断する上での基準とするべきだ」とさえ主張する(99年10月6日、日弁連主催のシンポジウム「宗教トラブルを問う」)。

 まず注意しておくべき事は、この基準に列挙されている個々の行為それ自体は、決して違法行為ではないという点である。『意見書』では、基準のうち、「先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をもたらす」、「本人の自由意思を侵害する態様で不安感を極度にあおって、信者となるよう長時間勧めたり、宗教的活動を強いて行わせる」、「本人と外部の親族や友人、知人との面会、電話、郵便による連絡が保証されていない」、「子供が宗教団体等の施設で共同生活する場合、親権者及びその宗教団体は、学校教育法上の生中学校で教育を受けさせているか、高等教育への就学の機会を妨げていないか」、「宗教団体等の施設内では、食事、衛生環境についてわが国の標準的な水準を確保し、本人にとって到達可能な最高水準の身体及び精神の健康を確保するよう配慮しているか」などについては、「これに反した場合、法律上不法行為の成立する可能性がある」(資料33頁)という。なるほど、その態様次第では、恐喝、強要、監禁などの刑事犯罪等になる場合があるに違いない。しかし、違法行為について基準を提示するのであれば、何もこのような曖昧な表現をとる必要はないわけで、その罪名を明示すればすむことである。『意見書』自体がこのような判断基準を「法律上、行政上の措置で制度化すべきではない」し、「立法化は避けるべきである」(資料32頁)と述べているとおり、掲げられた個別の行為自体は必ずしも違法行為ではないのである。

 信教の自由が保証されているとは言っても、違法な宗教活動に対して法律の規制が行われることは当然である。(もちろん、法律に優先する場合もあるわけだが、その点についてはここでは論じない)。しかし、違法でない行為が、法律以前に何らかの形で規制されることになれば、重大な信教の自由の侵害になることにまず注意を払うべきである。もちろん、日弁連は国家権力機構の一部をなすものではなく、したがって、この判断基準が直ちに強制力を持つわけではない。しかし、日弁連は、裁判所、検察と並んで法曹三者の一角を構成する法律に関する権威である。その権威が示した見解として社会に及ぼす影響力をまず問題にしなければならない。法律化されなくても、マスコミや社会一般がここに掲げられたような行為に対して広く「反社会的」なものと見なすようになれば、宗教団体の活動を萎縮させることになることをよく考えなければならない。宗教団体が自粛すべき、一般的、抽象的な基準は、法律によって示された違法行為に限定されるべきである。「宗教団体等の性格を判断する<ものさし>」にしたり、まして「裁判所の判断基準」等にすることはもってのほかのことである。

2 トラブルの責任を一方的に宗教団体に負わせる危険性

 一方,そのような宗教活動に対する一般的な判断基準としてではなく、あくまで宗教トラブルが生じたときの事後的判断の基準として用いれば問題はないのであろうか。その場合、トラブルを生ずる可能性が全くない宗教はあり得ないということに気をつけなければならない。しかもトラブルは必ずしも、宗教団体側が主としてその責任を負うべき場合のみではなく、個人の側に非があることも多いのである。

 たとえば「先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をもたらす」という基準は、「不安を極度にあおる」とはどのような場合を指すのであろうか。その態様次第において、脅迫罪などの犯罪に相当することがあり得るであろうが、この基準では「脅迫」とは記されていないので、恐怖感を与えれば広くこの基準に該当すると解釈されるおそれがある。しかし、「因縁」とか、「たたり」という観念は本来的に恐怖の感情を伴っているのであるこのような恐怖感を伴うが故に、悪行をいさめ、善行を積むことを勧める上で、有効に機能してきたのである。しかし、いったんトラブルに至った場合には、いわゆる被害者を称するものは、どのようなケースでも「不安で混乱していた」と主張するに違いない。先祖や因縁やたたりが説かれた時代背景事情を考慮せずに、抽象化され、一般化されたこのような基準に機械的に当てはめて判断すれば、善良な宗教団体でも「反社会的」というレッテル張りがなされる恐れがあるのである。

 そもそも『指針』の起草者たちの中には、因縁やたたりという観念は、時代遅れの迷信のたぐいであり、このようなことを説く宗教そのものが好ましくないと考えている者がいるのかもしれない。しかし、これらの観念は我が の民衆の宗教的心情に深く浸透し、ているものであって、その故に、一部の悪質な団体がこれを有効に悪用できるのである。これらの観念を否定的に見るということは、民衆の宗教的感情を侮蔑するものといわなければならない。たたりのような観念は非科学的観念であるかもしれないが、「死者」を含む我が国の伝統的な共同体に素朴な平等性をもたらしてきた倫理性をも持っているのである(一人勝ちは許さないとする「互酬性」の倫理。池上良正『民間巫者信仰の宗教学的研究』)。近代における平等は、機会の平等であり、結果の平等ではないとされ、それは確かに基本的には正しいものと思われるが、しかし、我が国の民衆は「一人勝ちを良しとしない」結果の平等を求める素朴な感覚が生きているものと思われ、それは「たたり」などの観念と深く関連しているのである。近代合理主義だけで、宗教を切ることの危険性を自覚すべきである。

二、宗教に対する無理解と偏見

二、宗教に対する無理解と偏見

 世俗の目で見る限り、この「判断基準」は世間の常識に沿った穏当な基準であるかのように見える。日弁連は、宗教といえども、この社会に中で活動する限り、世俗社会の規範に従うべきであるという。確かに、世俗の国家・社会はたとえ宗教に対してで会っても譲ることの出来ない固有の価値を持っている。国家はこれを犯す宗教活動に対する規制権限を放棄しているわけではなく、宗教であるか否かを問わず、全ての人に遵守を求める規範は、法律として定められているのである。しかし、宗教に対して国家・社会が介入しうる限度は、違法行為に対する場合にとどめるべきなのであって、いかに世間常識にかなうとしても、違法でない宗教的行為に対して、「反社会的」というレッテルを貼り、その抑制を求めることには多大な危険があることを知らなければならない。なぜなら、宗教は世俗とは異なる世界観、価値観を持つことにその特徴と存在意義があるものだからである。この「判断基準」は、そのような宗教の意義に対して、全く理解を示そうとしていないといわざるを得ない。

1 宗教の特性を理解しようとしない態度

 たとえば、「出家したものに対して、外部の親類や友人、知人との面会、電話、郵便による連絡が保証」されていなければ、「反社会的」であるという(資料32頁)。しかし、出家・修行するということが俗世への執着を一切断ち、ただ一人で神仏の世界に見参することを目指すものであれば、外部との連絡を絶つことはむしろ当然のことといわねばならない。日弁連は、そのような一般的ケースについての基準ではなく、家族が対面を求めているのに教団がこれを拒否してトラブルに至っているような場合に、事務的に判断する基準なのだというのかもしれない。しかし、いわゆる問題教団の場合でなくとも、そもそも家族を捨てて家を出る、出家するという事自体が何のトラブルもなく、すんなりとその家族の承認を得られるとは考えにくい。リストラの嵐に翻弄された一家の主人が、自らの生を見つめなおそうと仏門をたたき、出家するケースが出ているという報道があったが、このような場合でも家族の中で何の修羅場も、もめごともなかったとは考えにくい。伝統仏教の場合は、長年の伝統による社会的承認があり、また現代では修行期間も限られていて、寺院住職になれば家族生活に復帰することが予想されることなどから、それほど深刻な問題にならにのかもしれない。しかし、出家の本来の意義は文字通り、家族を捨て、世間を捨てて家を出ることであることからすれば、その本来の出家を求める宗教が出てきても不思議ではないのであって、宗教が反世俗的であるという意味では、宗教は本来的に「反社会的」なものであり、有害なものであるとするこの判断基準は宗教の価値を否定する「反宗教的」な基準なのである。

 また「お布施、献金、祈祷料等名目の如何を問わず、支払い金額が一定額以上の場合には受取を証する書面を交付」しなければ「反社会的」であるという(資料32頁)。この基準も一見もっともなように見えるが、宗教を理解しようとする姿勢を欠くものというべきである。

 もちろん、宗教団体は、いかなる場合にも受取を出すなということではない。たとえば、本堂が老朽化したので、檀家総代とはかって壇信徒から寄付を募って修理しようというような場合であれば、寄付者に対して領収書を発行したとしても何ら支障はないであろう。しかし、宗教団体の献金指導には信仰指導としてこれを行う場合がある。古来、救いや安心を得るためには、物欲を捨てるべき事を説く宗教は多い。仏教はすべての苦の起源は、欲望であり、執着である事が説かれ、あらゆる欲望、煩悩を断ち切ったところに解脱があり、自由がある事蛾説かれる。聖書は「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。あなたがたは鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちのだれかが、心配したからといって自分の命を少しでも延ばすことができますか。」(マタイによる福音書)と説き、自らの計らいを捨てすべてを神にゆだねるところに信仰による救いがあることを説いている金を持ち、自らに自信を持つものの救い難さが説かれる。

 物欲を捨て、執着を離れ、あるが儘にすべてを受け入れ、生を神にゆだねて生きるということを知性で理解することはできても、現実にそのように生きることは容易ではない。したがって、宗教によっては献金の指導通してこれを実践的に体得せしめようとする教団もあるのである。そして物欲を離れる体験を得さしめるためには、しばしば当人が無理だと感じるほどの金額であることが必要になる場合がある。もちろん、それは対象者の信仰の状態を見極め、慎重に指導を進めなければならないわけで、指導に失敗すればトラブルに発展することもありえる。しかし、このような指導は一概に批難されるべきものではなく、実際このような体験を通して信仰に生きる喜びを獲得する者もいるのである。このような場合に「領収書」を交付すべきであろうか。受け取りなどを発行したのでは、まるで金銭で宗教的幸福を買い取るかのような印象を与え、物欲、執着を捨てるという本来の目的から遠のき、指導は失敗に帰するであろう。このような宗教的世界を配慮することなく、世俗の金銭のやりとりと同次元でことを処理しようとしているのが、この判断基準なのである。「布教に際し・・相手側に布教されることに同意を求めるべきである。この理は医療行為の<インフォームド・コンセント>の法理と同じ基盤に立つ」(資料40頁)などというのも、同様に世俗の論理で宗教を処断するものであって、この「判断基準」全体に宗教を尊重しようとする姿勢がないといわねばならない。宗教問題を消費者問題と同列に扱おうとする態度からも、信教の自由の問題を正しく理解していないのではないかと疑われる。信教の自由は、通常の市民的自由権とは、異なる性格を持つところがあることを認識していないのではないか。「当人が嫌がる薬を無理に飲ませて、その人の病を治すことは可能であるかもしれないが、本人の信じない神によって、その人の魂を救うことはできない」(ジェファーソン)のである。

2 宗教に対する偏見

 「親権者・法定保護者が反対している場合には、未成年者を長期間施設で共同生活をさるような入信を差し控える」(資料32頁)べきだと、本人の意思よりも親権者の意思を尊重する基準を立てる一方で、「親権者・法定保護者が、未成年者本人の意志に反して宗教団体等の施設内で共同生活を強制」(『手引き』36ページ)してはならないと、親権者の意志よりも未成年者本人の意思を尊重するという矛盾した基準を立てているのも、宗教団体における共同生活そのものが「反社会的」な悪であるという宗教に対する偏見をさらけ出しているとしか言いようがない。悪質で、違法な事例を多く扱ってきた弁護士たちが、意識的・無意識的に宗教への反感を持つに至ったとしても驚くべきことではないが、そのような反宗教的偏見にたって宗教全般にわたる一般的判断基準を立てることは、きわめて不適切なことであると言わざるを得ない。

三、前提とする考え方の誤り

三、前提とする考え方の誤り

1 信教の自由の解釈

 弁護士といえば法律の専門家である。にもかかわらず、この『意見書』では、信教の自由の解釈において、「宗教団体の自由と個人の自由が衝突する場合には、個人の自由に比重を置いて考えなければならない」、「宗教団体の持つ信教の自由はどうあるべきかという問題は、個人の自由の優先性を念頭に置いて議論されなければならない」(資料34頁)という珍説を展開し、それを前提に判断基準が立てられている。しかし、個人の信教の自由と、宗教団体の信教の自由が衝突する場合に、常に個人の自由権が優先するなどという説は、およそかつて誰も主張したことのない新説であり、根拠のないものであることは明らかである。

 次のような事例を考えてみよう。道元を開祖とする曹洞宗の僧侶が、仏教による安心を求めて探求を重ねた結果、、自力修行を旨とする禅の教えでは限界があり、阿弥陀仏の本願力による救いにこそ安心の世界があり、親鸞が正しいと思うに至ったとしよう。このような宗教的回心は絶対であり、その自由は誰にもこれを妨げることはできない。しかし、この正しい仏法を広く知らしめたいと思い、曹洞宗門の中で道元の誤りと親鸞の正しさを布教、伝導しようとしたらどうであろうか。自らの信じるところを布教する自由は個人の信教の自由に属するところであるが、道元を祖とする宗門には団体としての信仰を維持するために、これを禁止し、秩序を乱す僧侶を処分し、あるいは宗門から追放する権限を持つことはいうまでもないことであろう。このような宗教団体の自律性は、単なる部分社会としての自律性ではなく、宗教団体としての信教の自由にその淵源をもつ。そしてこのような場合においては、個人の自由権よりも、団体の自由権の方が優先することは多言を要しないところである。

 個人の信教の自由が絶対的な優先性を持つのは、国家に対した場合のことであり、団体を含め、私人対私人の自由権衝突の場合にいずれの自由権が優先するかは、ケースバイケースであると言うべきである。このような誤った前提に立って立てられた判断基準であるために、宗教トラブルに際して、個人の側に非がある場合や、宗教団体の権利を優先すべき場合のことについては、全く考えられておらず、常に宗教団体の側にトラブルの責任を求め、これに「反社会的」というレッテル張りをするような基準の立て方になっているのである。その考え方の根本が誤っているのである。

2 宗教団体の運営に関する前提の誤り

 さらに、「一定額以上の献金者に対してはその宗教団体等の財政報告をして、使途について報告」をしなければ、「反社会的」であるという(資料32頁)。しかし、これは本来宗教被害者とは別次元の宗教団体の運営に関する問題である。宗教法人法改正にあたって政府や各政党はその無知と偏見をさらけ出したが、その誤りが指摘されたにもかかわらず、この基準でも宗教団体の運営は民主的でなければならないということを、何ら検討することもなく絶対的前提としている。宗教団体の運営をいかにすべきかということをは、各団体の宗教上の信仰と密接にかかわるものであり、単に民主的であればよいというものではないし、民主的原理が採用されていないから反社会的で抑圧的であるというものでもない。昔から宗教法人は遮断なのか、財団なのかという、いずれかに決定することのできない議論があるが、構成員の総意に基づく民主的運営を良しとする社団的宗教団体と、宗教上の理念が知悉した比較的少数の理事による運営がふさわしい財団的宗教団体とがあり、各宗教団体がいずれの型に属するかは、宗教上の理念にかかわるものであるから、世俗の権力が介入すべきではない領域なのである。一般にプロテスタントは、その宗教上の理念から民主的総会主義をとるが、同様に宗教上の理念からカトリックは強大な司教権を容認している。しかし、だからといってカトリックが反宗教的であるわけではない。要は、一般信者が不当な権利の侵害を受けないように、どのような処置が執られているかということなのであって、民主的でないから不当であるということにはならない。この当りにも、無神経に世俗の原理を持ち込んで、宗教を処断しようとするものであり、この判断基準は前提とする考え方を誤っているのである。

3 一般的、抽象的判断基準を定立することの誤り

 この判断基準は、いわゆる宗教被害で訴訟となり、裁判において違法判決を受けた事例から、反社会的な宗教活動を抽出したものであるという。しかし、それぞれの事件は違法との判決が下されたとしても、多くの場合、たとえば「多人数によりまたは閉鎖された場所で強く勧誘する」というような個々の事例が、監禁罪や強要罪に該当して違法とされたわけではないのである。(個別の行為が刑事罰に当るとされた事例は、『手引』135頁以下に刑事事件として紹介されている)。その事件の全体像を検討し、それぞれの行為を「総合して」判断すれば、「社会的相当性の範囲を逸脱して違法」と判断されたものが多いのである。したがって、この判断基準に示された個別の行為に違法性や反社会性があるか否かは、その行為が行われた背景事情の全体像と切り離して考えることはできない。背景から切り離され、抽象化され、一般化された個別の行為は、それ自体では違法行為でないばかりでなく、それが行われた背景事情次第では、反社会的であるとも断定できないのである。以下に有罪判決を受けた事件から抽出した行為とはいっても、このような違法性の判断に事件の全体像が切り離せない事例から、一般的、抽象的な判断基準を導き出すこと自体が、重大な誤りであり、何ら問題のない宗教活動をも抑制し、いったんトラブルに見舞われれば、「反社会的」とのレッテルを貼ることになるこの判断基準は、その法論的前提において全く誤っているといわざるを得ない。

 もちろん、われわれは深刻な宗教トラブルが発生していること自体を否定するものではないし、これらの事件を手がけてきた弁護士諸氏が、これらのトラブルを未然に防ぐための参考資料を提供しようとする意図を否定するものではない。しかし、既に述べたように、世俗とは異なる世界観にたつ宗教活動への介入は、違法である場合のみに限定されるべきものであるから、このような違法とは癒えない判断基準を「反社会的」なものとして定立するものではなく、違法とされた事例集(違法とはいえないとされた事例をも併せて)を出版して一般の参考に供することを提案するものである。

2 各論

一、基準の定立に対する若干の危惧と疑問

一、基準の定立に対する若干の危惧と疑問

1 日弁連意見書の位置づけとその問題点

(一) オウム真理教や霊感商法・霊視商法による被害は深刻であり、見過ごすことのできない状況にある。その中には、刑法上の犯罪に該当するものや、民法上の不法行為となるもの、また公序良俗に反するものなどが存しており、これらの行為については、いかに宗教活動の一環であると称していようとも刑法や民法の適用を受けることは当然であろう。

 しかしながら、刑法や民法による規制のほかに、これらの被害に対処する方法として、一般的な基準を設けて社会的に許容される宗教団体の活動の範囲を画定しようとすることには、慎重な態度が要求される。けだし、それは信教の自由に密接に関わる問題であり、一度基準が定立されると当初意図したところ異なり広く適用されがちになるこの種基準の持つ通有性に鑑み、広く宗教団体一般の活動の規臥に繋がりかねないからである。

(二) 小掘樹日弁連会長は、意見書の出版にあたって、「オウム真理教や霊感・霊視商法など宗教に関わる消費者被害や人権侵害事件が深刻かつ広範である実態をふまえ、このような事態にどう対処するべきかについて、提言しております」と述べ、意見書に示された判断基準は、「宗教団体のあり方や活動そのものを規制しようとする意図に出たものではないことはもとより、団体としての性格を判断する指標となるものでもありません」「宗教団体の是非を判断するためのものでない」と論じている(『手引』3~4頁)。

 また、この意見書自体においても、「判断基準の目的」として、「弁護士が適正に対処」するための参考、相談窓口等における「問題を判断するに当たって参考」、もしくは家族等が「その宗教団体等の性格を判断する上で」の「一つの『ものさし』とするとし(資料32頁)、立法化等を目指すものではないとはしている。

(三) しかしながら他方において、「宗教家や宗教的活動を行っている人および法曹(弁護士、検事、裁判官)、そして市民が、宗教や精神世界に関する諸活動に関連するトラブルや人権侵害事件に直面したときに、その対応を誤らないために、判断の基準を提案したものである」ともしている(資料32~33頁)。ということは、法的なレベルでもかなり有力な基準になってしまう可能性があるということである。これは、公的に宗教を選別することに繋がるものと言わざるを得ない。

(四) また、基準を抽象化することにより、宗教全体を投網にかけて判断しようとしているが、基準とされる行為の多くは、多数の宗教においても、抽象的には行われる可能性のあるものもある。基準を恣意的に当てはめ、ある宗教を「反社会的」であるとレッテルを貼ったり、逆に宗教の側はそれを恐れて活動が萎縮したりする危惧がある。信教の自由の保障は、このような事態を生じさせてはならないというところにこそ、その眼目があるのである。

(五) さらに言うならば、判断の方法についても疑問がある。そもそも宗教は人の内面と外面の親方に関わるものもあるので、外形に現れた側面のみを捉えて人権侵害か否かを判断しようとしていることは、必ずしも適切ではない。かと言って、内面まで踏み込んで評価することはさらに危険である。このような類の基準を定立することがきわめて困難である理由の一つがそこにある。

2 判断基準の一般的問題点

 判断基準全般を通じて指摘し得る問題点は何点かあるが、ここでは、「個人の信仰の自由が、宗教団体の宗教活動の自由・宗教的結社の自由に対し、二重の意味で優越する」という意見書の見解についてその疑問点を指摘しておく。

(一)「意見書」は「2、判断基準作成にあたっての基本的考え方」と題して、信教の自由を、①信仰の自由、②宗教活動の自由、③宗教的結社の自由の3つに分けた上、①の自由が絶対的に保障されるのに比較して、②③の自由は一定の制約があることを明らかにし、さらに、宗教団体の信教の自由は個人の自由に劣後すると断定している(資料34頁以下)。

 その結果、個人の信仰の自由は、宗教団体の有する(彰(彰の自由に二重の意味で優越すると結論づけ、これを個々の判断基準作成の基本的指針としている。

 例えば、その直後において、献金等勧誘行為が勧誘者の宗教心・信仰心から行われたと認められる場合であっても、信仰の自由が絶対的保障であることと異なり、献金等勧誘行為は外部的行為ゆえ必要な限度で制約を受けるとした上で、献金等勧誘は、「被勧誘者の自由な意思決定に竜も不当な影響を与えるものであってはならない。換言すれば、被勧誘者の自由な意思決定に不当な影響を与える献金等勧誘行為は、もはや献金等の勧誘行為とは認められない」と断定している(資料35頁)。そして、判断基準に示された①ないし④の各行為(これについては後述する)について、「仮にその献金等勧誘行為が信者等勧誘する側の熱心な宗教心から行われたとしても、社会的相当性を逸脱しており不当である」とまで断言しているのである(資料35頁)。 これらは、余りにも短絡的かつ強引な論法であり、全く納得できるものではない。

(二) そもそも、上述のように信教の自由を3つに分け、①の自由が絶対的保障であり、②③の自由が相対的保障であるという形での議論は、あくまでも、個人と国家との関係において論じられていること(すなわち、国家がどの程度制約できるのかの問題)である。その議論をそのまま私人間の問題に短絡的に当てはめた上で、私人の内心の自由である信仰の自由が絶対的保障であるから、それに関わる可能性のある私人の行為は一切許されないかのような論法は、宗教というものに対する理解を欠いた極めて乱暴な議論である。

 宗教活動は布教活動をはじめとして常に、人間と人間の間の接触・対話・触発という人間関係をその中核としている。そして、そのような宗教活動は、その活動に込められた宗教的意義など、宗教団体における「教義」と密接不可分に関連している。換言すれば、布教活動や教義論争は時として相手の内心を激しく打ち砕くこともあるし、それこそが健全な宗教のあり方とさえ言える。

 にもかかわらず、相手方の信仰の自由の絶対性を強調するあまり、これらを一律かつ形式的に制約できるとするならば、個人および団体の「宗教活動」の自由を余りにも軽視するものと言わざるを得ず、教義自体の否定にも繋がりかねない。

(三)次に、個人の信教の自由が常に宗教団体の信教の自由に優越するかのごとき論法にも問題がある。
 宗教団体の信教の自由といっても、それを構成する多数の「個人」の「信教の自由」の集合・結晶であり、これらが一個人の信教の自由に常に劣後するという論法には明らかに論理の飛躍がある(殉職自衛官合祀事件最高裁判決〈最大判昭和・年6月1日・民集・巻5号277頁〉 は個人の信教の自由は団体のそれに優越するものではないという立場をとっている)。

 また、個人の自由が常に団体の自由に優越するかのごとき論法は、例えば、個人の人格権と報道機関(団体)の「報道の自由」が激しく矛盾・衝突している現状などを、どのように説明しようとするのであろうか。このような場合に報道機関の報道の自由は常に個人の自由に劣後すると言うのであろうか。団体の中でも宗教団体に限って、このような議論が通じると考えているのであれば、宗教に対する偏見に基づく強引な議論であるとの批判を免れない。

(四) 結局のところ、個人の信仰の自由の絶対性を強調する「意見書」の態度は、これと衝突する個人や団体の宗教活動は本来的には許されないとの発想に根ざすものであって、個人の信仰の自由とは言いながら、その実、それは個人が信仰しない自由を重要視するものであって、その根本には宗教は個人にとって害悪であるとの思想が横たわっていると評せざるを得ない(もちろん、信教の自由の内容として信仰をしない自由も含まれていることを否定するものではないが、それのみを強調し、信仰をする自由を軽視した信教の自由はまた、危険である)。

二、日弁連の意見書における判断基準の個別の問題点

二、日弁連の意見書における判断基準の個別の問題点

1 献金等勧誘活動について
 宗教上の献金等が「献金者の宗教心・信仰心の発露であり、自発的な意思に基づく宗教行為である」(資料36頁)ことは言うまでもない。しかし、この項目に関して、「意見書」の中で定立されている基準は、いずれも抽象的かつ漠然としており、この基準を濫用されることにより宗教活動が不当に制約されるの危険性が極めて高い。

(一) 判断基準(1)について

(1) ここにおける基準は、「被勧誘者の自由な意思決定に不当な影響を与える献金等勧誘行為は、もはや献金等の勧誘行為とは認められない」との考えを前提としており、(1)の①ないし④は、裁判例で言うところの「勧誘行為の方法が社会的相当性を逸脱する場合」を類型化したものと言う(資料35頁)。しかし、以下のような疑問点がある。

i いずれも一見もっともらしい基準に見えるが、裁判例では具体的な状況を認定した上で、諸事情を総合的に判断し「社会的相当性」を判断している。具体的事案を離れ、ここに書かれているような類型化された抽象的基準だけで宗教を選別することが、果たして妥当か。

iiそもそも宗教上の献金は民法上の契約や商取引などのような取引行為ではないのであるから、これらの場面における自由意思と全く同義に解することはできない。

(2)とりわけ「① 先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をもたらす」を基準にすることは、信仰や教義の中身に入って判断することにもつながる。

i まず「不安を極度にあおる」ということが具体的にどの程度のことをいうのかが不明であり、その解釈によってはあらゆる 真摯な布教活動もまたこの基準に抵触して違法との評価を受ける危険性がある。

iiまた、宗教においては、程度の差こそあれ吉凶禍福を説くことはごく通常のことである。全ての宗教がその教義において先祖の因縁やたたり等を説いているわけではないと思われるが、宗教の中には、その教義・理念として輪廻や罰などを説いている場合もある。そのような宗教において、布教の際に必然的に過去世からの因線を説いたり、また病気や経済苦を克服するには当該宗教の信仰によるしかないとの説明がなされることはごく自然のことであって、まさに当該宗教の本質にかかわるものである。

 また、当該宗教が自己の教義や理念への確信から、民衆の救済に真剣であればあるほど、自己の宗教を信仰していく以外に真の幸福はないと説くことも当然であろう。
 それが世俗の目から見れば、常軌を逸していたり常識に反すると見られることもままあるかもしれない。そのようなことは、多くの伝統的宗教にも見られる現象である。

iiiさらに、宗教は、程度の差こそあるにしても、人知を超えた絶対的な存在や事象を信じるという側面をも有するものであることから、その場合の心理状態は合理的説明になじまないものであり、したがって、合理的説明が可能であることを前提とする自由意思というものを想定することが果して妥当なのかという疑問が残る。例えば、マインドコントロールや洗脳という言葉がよく使われ、このような状態にある場合は自由意思がないと評価されると思われるが、そもそもマインドコントロールや洗脳という心理状態と教義を信奉している心理状態からの信仰心の発露との線引きは極めて困難と思われる。
iv さらにまた、献金の時点で宗教心・信仰心の発露としてなされた場合であっても、その後、本人の宗教心等が失われた場合には、団体に騙されたという言い方をするのが一般的であり、その場合との違いがそれほど明確なのかという疑問もある。

(3) 「② 本人の意思に反して長時間にわたって勧誘する」との基準について。

 この「長時間」というのがどのくらいの時間なのか不明である。また、「本人の意思に反して」とあるが、布教活動というのは必ずしも当該宗教に好意的な人々のみを対象にしている訳ではなく、むしろ布教活動の多くは、宗教に理解を示さない人々に対して、当該宗教の教義や理念を説明しその理解・納得を得ようとするところにあることは歴史が示すところである。とすれば、当然、布教活動の当初は布教される人の意思に反してなされることが予想されるし、その理解・納得のためにはある程度の時間を必要とすることもまた当然であろう。

 古来より宗教団体の活動が通常は信者からの献金により行われてきていること、宗教上の献金は信仰活動そのものであること、したがって布教活動と献金勧誘活動は密接不可分の関係にあること等に鑑みるならば、以上のことは、献金勧誘活動についても、ほぼ同様に当てはまると言える。したがって、「意見書」の基準の解釈次第では、ほとんどの布教活動・献金勧誘活動は違法なものと判断されることになり、布教活動の自由はその内実を失うことになる。

 これらの基準は、宗教というものは人間社会に本質的になければならないものではなく、信仰したい人だけが信仰すればよいという思想に立つものであり、宗教の社会的役割についての理解を欠き、宗教不要論ないしは宗教有害論に繋がるものと言わざるを得ない。

(4)「③ 多人数により又は閉鎖された場所で」との基準については、この基準が具体的に何人をもって多人数とし、どのような場所を指して閉鎖された場所としているのか不明である。布教の対象とされている人の数よりも多ければ多人数となるのであれば、布教は常に一対一で行わなければならないことになる。

 また、閉鎖された場所という基準は、解釈の仕方によっては教団の施設の中、信者の家などもみな閉鎖された場所になりかねず、布教ないし献金勧誘する場が極端に制限されてしまうことになる。 このように布教や献金勧誘の活動の形態について基準を設けることは、自由な宗教活動を著しく阻害するものであって、実質的に信教の自由を制限するものと言わざるを得ない。

(5)「④ 相当の熟慮期間を認めず、即断即決を求める」との基準については、一面において当然のことと言うこともできるが、その反面、即断即決を求めることが即反社会的であると断定してしまうこともまた短絡的に過ぎよう。換言すれば、即断即決を求められて信仰の道に入った人の中にも、その信仰によって幸福を得られたと実感している場合も多々あるのではないだろうか。

(二) 判断基準(2)について
 「意見書」の説明には、宗教団体に対する献金について取消しや返金要請がある場合について、「取消しや返金要請があるのは、献金者の真意に基づかないものであったり、献金者に疑念や後悔の念があるからである。短期間のうちに返金を求めるのは、上記判断基準(2)の不当な献金等勧誘行為やその他の社会的相当性を逸脱した勧誘がなされたことを強く推認させる」と断定した記述をしている(資料36頁)。しかしながら、これもまた宗教に対する無理解ないし偏見に基づくものと言わなければならない。
 確かに中には詐欺同然の献金勧誘によって金銭を支出してしまったような場合があることは否定しないが、そうではなく一旦は宗教的な帰依の感情や信仰心の発露として献金したが、後になって信仰心がなくなったり金銭に対する執着心が出て来たりして返還を要求すると言い出す場合もしばしばある。にもかかわらず、「意見書」は、「不当な献金等勧誘行為やその他の社会的相当性を逸脱した勧誘がなされたことを強く推認させる」と断定しており、これでは返金を要求されるのは、常に宗教団体の側に問題があると言っているのも同然である。そこには宗教に対する無理解や強い偏見のみならず、宗教と言うものに対する侮辱すら垣間見られる。

(三) 判断基準(3)について
 判断基準(3)は、同(2)において論じたところと同様に、信者が教団から離れていく背景には様々なものがあることを正しく認識していないとの批判が当てはまる。単純に信仰を辞めようという理由で教団から離れる人もいれば、教団内で問題を起こして教団にとどまることができなくなったが故に教団を離れる人、教団内での人間関係から教団を離れようとする人など、様々であろう。
 にもかかわらず、「意見書」は、比較的短期間での教団からの離脱の場合には無条件で返金要求に応じるべきであるとか、3年以内などの合理的期間内であれば生活にかかった実費を除いた分を返還すべきである、などと論じているものであって、これでは宗教への入信やそれに伴う献金などを、その宗教的意味合いを全く捨象して、語学学校への体験入学と入学金や、クーリングオフ制度などと全く同列に扱うべきであるというに等しい。

 詐欺罪や脅迫罪に該当する態様で宗教団体に献金させられたというのであれば、もとよりそれは犯罪行為として許されないものであり、民事的にも無効、取消ということで返還請求が認められることは当然であるが、そのような態様によらず、それこそ相当の熟慮期間を置き、自ら十分に納得して入信しながら、後に信者の側の気まぐれなどにより教団から離れたいという場合においても、当然のように教団が、その離れていく者のその後の生活について保障しなければならないこのような論調の意見は、あまりに一方的に過ぎると言わざるを得ない。

(四)判断基準(4)及び同(5)について
(1) 判断基準(4)は、他の項目と別次元の問題である。他の項目が献金やその返還の際の問題として、献金それ自体に直接着目したものであるのに対して、(4)の項目は、その解説に、宗教団体の民主的運営や透明性を高めるとか、自己の運命をその宗教団体等に託すことができるか否かの客観的判断の材料を提供するなどとあるとおり(資料37頁)、献金の在り方自体を直接問題としたものではなく、宗教団体の開示の在り方を問題としたものである。信者に財政報告するか否かはその宗教団体の教義・信仰や歴史・沿革・伝統、信者との関係の濃淡などによって宗教団体が自律的に決すべきことであり、宗教法人法改正問題の際にも大いに議論のあったところである。財政報告していないから人権侵害のおそれがあるとか、反社会的であるというのは議論の飛躍である。

(2) 判断基準(4)の献金者に対する財政の報告、判断基
(5)の献金者に対する受取証の交付などが、宗教団体における民主的運営と透明性を高めるとの観点や金銭関係の明瞭化という観点から論じられているが、それではこれらの行為を行っていないことをもって反社会的との判断が妥当するのであろうか。

 そもそも「意見書」が言及している信者等に対する帳簿等閲覧請求権を認めた宗教法人法の改正は、憲法違反の疑いがあるとの議論もなされている。つまり、信者と宗教団体の関係はその教団の歴史・沿革や教義・伝統などによって千差万別であり、本来、宗教的繋がりを基礎とする関係である。それにもかかわらず。そこに帳簿の閲覧請求権という異質なものを法律によって強制的に持ちこもうとすることは、宗教団体の自治を侵害するものとの有力な意見がある。ところが「意見書」では、そのような議論を全く検討することなく、無条件にこれを正しいものと受け入れ、さらに閲覧請求を待つまでもなく財政報告をせよと迫っている。ここにおいて「意見書」は、反社会的な活動か否かの判断基準を示すとの当初の目的を大きく外れて、宗教団体のあり方、宗教団体の是非について正面から議論を展開しているのである。

(3) この(4)(5)の基準は、宗教団体に対する献金等があたかも株式会社に対する出資と同じ性質のものでもあるかのような発想から出発していると言えよう。
 確かに株式会社にあっては、同じく利益を追求する者が集まって利益の獲得を目的として出資しているから、目的とした利益の獲得が見込めないときには、出資者に何かしらの形で離脱する自由と投下資本の回収の手段が認められなければならない、との理論が当てはまる。しかしながら、宗教団体に対する献金についてはこのような理論は成り立たないのである。宗教上の献金は「意見書」がいみじくも指摘しているとおり、「献金者の宗教心・信仰心の発露」である(資料36頁)。献金すること自体が宗教的実践行為であり、一種の修行と位置づけている宗教団体も多い。それは自己完結的な行為であり、後に返還を要求することなどということは全く想定されていないし、またそこには、世俗の視点で判断できるような対価関係なども成り立つ余地がない。したがって、献金したが利益(りやく)や功徳等の宗教的至福感が得られなかったなどということを理由にして、そこを離脱して投下資本(献金)を回収しようという構図とはおよそなじまないのである。
 にもかかわらず、宗教団体にたいする献金等について、一般社会の出資についての契約法理を適用して解釈しようとするのは、宗教に対する無理解、偏見の現れとしかいいようがない。

2 信者・会員の勧誘について

(一) 判断基準(1)について
 判断基準(1)については、多くの宗教団体においては普通に行われていることであろうが、かといってこの基準が布教にあたっての絶対的な前提条件であるかのように論じることは誤りである。

 「意見書」は、「従って布教者としては、布教活動であることをことさら隠すようなことがあってはならないことはもちろんのこと、布教に際し相手方にこれらの点を説明し、相手方に布教されることの同意を求めるべきである」としているが(資料40頁)、これは宗教の教義や布教の実践を知らない者の定立した机上の空論としか言いようがない。世の中に「ではこれから布教を始めます。いいですね」「はいわかりました。始めてください」などといった会話をして布教する人間がいるのであろうか。特に、日本は宗教に対する理解の乏しい国と言われているが、宗教の勧誘であると明言して、はいそうですかと耳を傾ける人は少なく、むしろ嫌悪感を抱かれることが多いであろう。

 また布教の仕方としても、一見基本的教義とは関係なさそうな、わかりやすいたとえ話から化導していく場合はいくらでもある。ちなみに、たとえば、釈迦はその布教にあたって、衆生に自らの本当の教えを理解させるために、低い教えから高い教えへと順々と説いていったと言われており、最後に自らの究極の悟りを衆生に説くにあたって、それまでの教えは本当の教えを理解させるための方便であったと説明したと言われている。

 布教活動者や信者の教化育成をどのような方法と内容で行うか、その過程の中で基本的な教義をどの段階から教えたらよいかなどと言うことは、宗教団体において独自に決めればよいことなのである。布教の当初から基本的な教義の話をしなけらばならないなどということを反社会的か否かのメルクマールとすることは、宗教を全く理解しない者の言と言わなければならい。

(二) 判断基準(2)について
 判断基準(2)の「不安感を極度にあお」るとか「信者になるように長時間勧め」るなどの点については、前述した献金等の勧誘についての基準に対する批判があてはまる。
 「意見書」では、現在の判例の到達点として、ベルギーダイヤモンド事件なる霊感商法についての裁判例を挙げて、「勧誘に従わないときは『天罰が下る』など不利益を告知した場合にも、その行為態様が悪質な場合、『ことさら不利益や害悪を告知することによる布教活動』として違法とされるべき場合もあると考えられる」としている(資料41頁)。

 確かに、度が過ぎた脅迫まがいの行為は慎まなければならない。また、そのような害悪の告知をして商品を売りつけるような場合にはまさに詐欺的な商法であり許されるべきではない。しかしながら、入信の勧誘の場合には、極端なものは別として、先にも述べたように多少の宿業論や罰論など書凶禍福に関することが布教活動の中で話題としてあがるのは避けられないことであり、それは真摯な布教活動であるが故とも言える。そのことをもって反社会的であると即断することは、宗教活動に対する不当な制約と言わざるを得ない。

3 信者及び職員の処遇の基準について

(一) 判断基準(1)について
(1) 判断基準(1)の①においては、献身や出家など施設に泊まり込む信者、職員について、本人と外部の人との連絡の保障がされているかを判断基準としているが、一律に本人と外部の人との連絡を保障すべきとする判断基準は、出家などのもつ宗教的意義についての考察を欠くものである。出家とは、俗世間をすて、仏道修行に入ることであり、世俗の世界を離れて生活し、俗世間の人々との関係も絶って、仏道修行に専念することにより、俗世間における欲望、執着から脱却し、自身の宗教的確信を深めていくという意義をもつ。すなわち外部、俗世間との関係を絶つというところに出家や献身などの本質的性格があるのであり、その意味で外部との連絡が自由である出家というものは考えらない。

 もちろん、本人が出家、献身などによって宗教的施設で生活している場合でも、最終的には本人の意思が尊重されるべきであり、本人が外部の人、殊に親族等との連絡を希望する場合にまで宗教団体がそれを禁じることが妥当なのかとの議論もあり得よう。しかし他方、宗教団体が本人に対して、前記のような出家の宗教的意義を説き外部との連絡を思いとどまるよう説得したり、施設内部の規律維持の観点から連絡の手段・方法に一定の制約を設けることも、宗教団体の宗教活動の自由、宗教団体の自治から認められるべきである。

 したがって、結局、宗教団体においていかなる行為が許され、いかなる行為が許されないか、という議論は、上記のような説得や制約の態様、程度、本人の対応等を事案ごとに総合的に考慮して、それが監禁や強要など刑法上の犯罪や民法上の不法行為に該当する程度の違法性を有する行為であるかどうかにより判断する以外にない。

 このことは、外部の人からの本人への連絡においても同じであり、最終的には本人の意思を尊重するべきであるから、本人がその自由な意思によって、外部からの連絡について取次ぎを望まない場合にはその意思を尊重すべきである。

 その場合に、当該宗教団体が閉鎖的であるとか、本人の自由な判断が妨げられていると断ずるのは早計であり、判断基準の解説にあるように「信者が外部から直接連絡できない状態に置かれている場合に、本人の自由意思・自由な判断が妨げられていると考えるべきことも多い」「親族との連絡さえ保障しないような宗教団体等の施設内での活動は、客観的冷静に判断すれば、本人にとってとりかえしのつかない人生の選択を誤らせる可能性がある。本人と家族との埋めがたい意識のズレが生じ、ひいては家庭崩壊の原因ともなる」(資料42頁)などとするのは、宗教団体は本人の意思を抑圧している、宗教施設の内部で行われることは本人や家族に悪い影響のあるものであると決めつけるものにほかならず、宗教に対する偏見ないし誤った先入観にとらわれた見解であると言わざるを得ない。

(2)判断基準(1)の②においては、施設から離れることを希望する者の意思が最大限に尊重されるべきであることは言うまでもないことである。

 宗教団体からの脱退の自由は憲法上の権利(憲法20条)として信者に保障されており、宗教団体から脱退するか否かを決めるのは信者本人である。判断基準の解説の中で挙げられているような、薬物を使ってその意思をコントロールしようとしたり、信者をコンテナや個室に監禁する行為が許されない行為であることは当然である。

 しかしながら、この判断基準によれば、宗教団体からの離脱を希望する信者に対し、宗教団体がそれを思いとどまるように働きかけることも許されないかのごとく受けとられるおそれがある。宗教団体が信者に対して、団体から離れることを翻意するよう説得することは、宗教団体の布教活動ないし信者に対する教化育成活動の自由の一環として認められなければならない。

 しかも、団体からの脱退の自由の問題は、何も宗教団体に限った問題ではなく、営利団体等の他の団体であっても生じうる問題であることからすれば、宗教団体に対してのみ翻意をうながす説得が許されないかのごとく論ずるのは宗教に対する不当な偏見であり、差別であると言わざるを得ない。

 その上で、いかなる行為が許されないかの判断は、信者の内心的信仰の自由(信仰をする自由、しない自由)と宗教団体の布教の自由が同じ精神的自由として同価値の憲法上の権利であることを前提に、説得の手段、態様、本人の対応等を総合的に考慮して、宗教団体の説得が、社会的相当性を逸脱し、刑法上の監禁、脅迫、強要や、民法上の不法行為に該当する程度の違法性を有する行為であるか否かによって判断すべきである。

4 未成年者、子どもへの配慮

(一) 未成年者や子どもが健全な宗教活動を行えるようにするために、成人とりわけ親権者が万全の配慮をしなければならないことは言うまでもない。しかしながら、それが未成年者や子どもの信教の自由を侵害したり制約したりするものであってはならないこともまた、当然である。判断基準に示された内容には、以下に述べるような問題点がある。

(二) 判断基準(1)ないし(4)について
(1) 判断基準(1)においては、未成年者の入信に、親権者等が反対しているときには、未成年者を長期間施設で共同生活させるような入信を差し控えるべきであるとし、判断基準(4)においては、未成年者の意に反して、保護者等が宗教団体の施設での共同生活を強制するべきでないとしている。

 この2つの基準の対比から明らかなように、結局、判断基準は施設で共同生活する入信そのものが未成年者の成長、人格形成にとって悪であるとの前提に立っていると言わざるを得ず、宗教に対する不当な偏見がうかがえる。特に判断基準の解説で紹介されている、オウム真理教による未成年者の出家、献身での事件は極端に悪質な事例であり、それをもって宗教的施設での共同生活を行うことが未成年者にとって常に悪であるかのごとき基準を立てることは議論のあり方として適当ではない。

 もちろん、未成年者が家族と離れて施設での共同生活を行う場合には、未成年者と親権者等との連絡ができるようにすべきであろうし、また、宗教団体が未成年者に学校教育法上の義務教育を受けさせるべきことは当然であろう。未成年者に義務教育を受けさせなかったり、判断基準の解説で紹介されている事例のように施設の中で宗教団体が未成年者に犯罪行為を行わせるようなことは言語道断である。だからといって宗教団体の施設で行っていることは常に未成年者にとって悪いことであると決めつける判断基準は、およそ正当なものであるとは言い難い。

(2) 判断基準の解説で引用されている子どもの権利条約に規定されているとおり、保護者には児童の宗教の自由について指示を与える権利および義務があるが、一方で未成年者の信教の自由も憲法上の権利として尊重されなければならない。結局は、何が子どものために一番好ましい選択なのかを、未成年者の年齢、成熟度、性格、家庭環境等の事情を考慮して個別具体的に考えていくべきであり、一律に未成年者の施設での共同生活を悪と決めつける判断基準は誤りであると言わざるを得ない。このことは、未成年者の入信に親権者等が反対している場合だけでなく、家族での入信に未成年者が反対している場合も同様である。判断基準によれば、両親が出家等をしようとするときには、未成年者の意思を優先して子どもだけを置いていかなくてはならないということになるが、施設の中で家族とともに共同生活を送るより、親子が離ればなれになることの方が常に正しいと言えるかどうかは疑問なしとしない。

結びにかえて

 憲法を引くまでもなく、宗教や哲学、思想、価値観等の精神的な活動こそが、人間を人間たらしめている最も根元的なものである。このことからしても、宗教等の精神的活動は最大限に保障されなければならない。

 また、そもそも宗教というのは、それを信じる者にとっては命にも代え難い崇高なものであるが、信じない者から見れば理解し難いものであり、またどこかいかがわしいところがあるような印象を受ける場合もある。そのため、信じない者の立場からすれば、ともすると、宗教を監視しなければならない、何らかの規制をしなければならない、との発想が生まれる。

 しかし、宗教への監視、規制を公的機関で行うことは、慎重でなければならない。とりわけ、国家によるそのような行為は絶対に許してはならない。国家が宗教を管理するとき、人権は侵害され、国家は破滅に向かう。これは遠くヨーロッパの歴史をひもとくまでもなく、我々がつい半世紀前まで経験していたことでもある。

 今回の日弁連の意見書が、その意図とは裏腹に、歴史の歯車を逆回しに戻す契機にならないように祈るものである。

宗教法人問題連絡会とは

 宗教法人問題連絡会という集まりが始まったのは、1995年の宗教法人法の改正問題がきっかけである。当時、オウム真理教の事件をきっかけとして、宗教法人法の改正が、各マスコミで取りざたされ、自民党の「創価学会一公明党を締め上げるため」との思惑が絡み、宗教法人審議会での強引な報告書の取りまとめに始まり、短期間のうちに国会で成立されたのであった。

 憲法に定める「信教の自由」と「政教分離」の原則に深くかかわる「宗教法人法」が書くも十分な議論がなされないままに、改変されたことに危機感を感じた、宗教者、学者らによって情報の交換、意見交換のために定期的な会合を持とうという趣旨にもとづき、洗建・駒沢大学教授、安斎伸・上智大学名誉教授飯坂良明・学習院大学名誉教授、小林節・慶応大学教授、真田芳憲・中央大学教授らの呼びかけで発足したものである。

 1999年12月22日に開かれた第1回会合では、①宗教法人法の改正に伴う問題点について情報および意見の交換を行なう、②宗教に加えられる圧迫・干渉を監視していく、③宗教法人の社会的存在としてのあり方を研究する、④当面固定的な組織とせずに、ゆるやかな自由参加の連絡会として会合を開く、⑤宗教情報センターとしての役割を模索する、⑥幅広く宗教団体の参加を呼びかけていく  ことを申し合わせ、共同学習、相互学習をしていくこととした。

 宗教法人問題連絡会のさきがけとなったのは、「宗教法人法改正問題についての声明」である。文部大臣の諮問機関である宗教法人審議会は15人の委員によって構成されていた。そのうち11人の委員が宗教界からの委員であった。

 1995年9月29日、その年の4月、与謝野馨・文部大臣(当時)から「宗教法人制度のあり方」について諮問を受けていた宗教法人審議会は、上村正剛・真言宗智山派宗務総長、出居茂・修養団捧誠会副総裁、自柳誠一・カトリック枢機卿、杉谷義純・天台宗宗務総長、杉山一太郎・扶桑教管長、竹田眞・日本聖公会東京教区主教、カ久隆積・善隣教教主の、11人中7人の宗教関係委員の反対にもかかわらず、審議を打ち切り、会長一任を取り付けたとして、その日のうちに、島村宜伸・文部大臣(当時)に報告書を提出したのである。その日は、臨時国会開会の日であった。

 法人法改正の議論は国会の場に移ったが、この間題について日本宗教連盟で検討される動きが見られず、ことの推移を危惧した、審議会の報告書に異議を唱えた7人の委員、さらに、宗教法人法改正の問題点を指摘する学者が集い、「声明」を作成し、宗教団体および宗教者に賛同を呼びかけたのである。この声明には52の団体、33人の個人が賛同の署名を寄せている。

 宗教法人問題連絡会は現在、ほぼ2カ月に1回、会合を持ち、学習会を開催している。

これまでの学習会は次の通り

1996年2月15日

政教分離について
 発題 洗建・駒沢大学教授、小林節・慶応大学教授
 コメント 飯坂良明・学習院大学名誉教授

霊感・霊視商法について
 澤藤統一郎・日本弁護士連合会消費者委員会副委員長

破防法の適用について
 小野毅・オウム真理教被害対策弁護団

1996年3月21日

日弁連報告書とガイドラインについて
  山口広・全国霊感商法対策弁護士連絡会
  澤藤統一郎・霊視商法被害者弁護団
  小野毅・オウム真理教被害対策弁護団

1996年4月16日

創価学会に問う
  八尋頼雄・創価学会副会長
  西口 浩・創価学会副会長

1996年5月17日

自由民主党の考えを開く
  与謝野馨・自民党政調会長代理

1996年6月25日

日宗連理事長に聞く
  亀谷荘司・日本キリスト教連合会委員長

1996年7月18日

憲法と宗教
  小林孝輔・青山学院大学名誉教授

1996年8月19日

宗教情報センター問題を考える
  阿部美哉・国学院大学教授

1996年9月19日

宗教界の情勢をどうみるか
  田丸徳善・大正大学教授

1996年10月11日

意見交換会

1996年11月20日

破防法問題を考える
  奥平康弘・国際基督教大学教授

1996年12月11日

意見交換会

1997年1月31日

意見交換会

1997年2月25日

新宗教の今日的状況
  井上順孝・国学院大学教授

1997年3月28日

意見交換会

1997年4月15日

オウム真理教事件以降の「新」宗教状況
  島薗進・東京大学教授

1997年9月17日

脳死・臓器移植法問題を考える
  藤井正雄・大正大学教授

1997年12月5日

宗教法人の税制を考える
  石村耕治・朝日大学教授

1998年3月3日

意見交換会

1998年4月14日

意見交換会

1998年6月26日

宗教活動と消費者問題
  山口広・弁護士

1998年8月6日

宗教情報リサーチセンターについて
  井上順孝・国際宗教研究所常任理事

1998年10月1日

国民総背番号制を考える
  石村耕治・朝日大学教授

1998年12月15日

組織犯罪防止三法案について考える
  鈴木達夫・弁護士

1999年3月5日

宗教法人法改正の意味を考える
  洗建・駒沢大学教授

1999年5月14日

政教分離
  小池健治・弁護士

1999年7月30日

日弁連の指針について
  山口広・弁護士

1999年9月13日

日弁連の指針について
  洗建・駒沢大学教授 安井牧爾・京都仏教会理事

1999年11月15日

最近のオウム真理教とその問題点
  小野毅・弁護士

2000年2月2日

最近の社会情勢と宗教法人
  参加者による持ち寄り発題

2000年4月4日

宗教法人法「改正」の5年
  カ久隆積・善隣教教主