イラク人質事件からみる国家と個人/龍谷大学教授 社会学 田中滋(平成16年)

イラク人質事件からみる国家と個人

平成16年(会報76‐2)

龍谷大学教授 社会学 田中 滋

 憔悴しきった様子でうなだれ無言の行進を続ける人質となった人々。その行進は解放の喜びに充ち溢れたものとなるはずであった。しかし、彼らには「自己責任」という名のバッシングが浴びせられ、入院費や航空代が請求されるという手厳しい土産付きの帰国であった。

 なぜ彼らはこんな仕打ちを受けなければならなかったのか。それは、福田官房長官の苦々しい表情から容易に察せられるように、直接的には人質事件をきっかけとした自衛隊イラク派遣批判の世論の盛り上がりを政府が阻止したかったからである。しかし、対イラク戦争を仕掛けたアメリカのパウエル国務長官の「日本人は彼らを誇りに思うべきである」との立場上大胆とも言える発言と日本政府の冷たい対応との間の大きなギャップは、自衛隊派遣批判を封じるという理由だけでは説明できない。

 戦後の日本は、植民地の喪失によって数少ない残された資源の一つとなった人材を教育・組織・管理し、科学技術の発達を促し、生産の拡大・効率化、製品の高品質化を目指した。これに対して、戦前の日本では、生産もさることながら市場の拡大、資源の確保が国家によって軍事的に目指された。そして、一九八〇年代以降のグローバライゼーションの進展と東西対立の崩壊は、戦前とは違った形であるにしろ、「生産の論理」よりも「市場・資源の論理」が優位する状況を世界的規模で再び生み出した。国際世論を無視した今回のアメリカによる石油利権絡みの露骨な対イラク戦争はそうした世界的な趨勢の一つの突出した現象である。

 「生産の論理」が中核的な構成員を守り育てる「組織の論理」と親和的であるのに対して、「市場の論理」は育てるよりも買うあるいは奪う論理を優先する(これは、巨人軍やヤンキースのことを想起していただければ、容易に理解できよう)。一方、市場の論理に曝された個人は、組織という衣を脱がされた裸の個人となり、みずからの能力(商品価値)を高め維持することを常に心掛ける自立した個人となることを求められる。

 こうした市場の論理をイデオロギー化したのが、今や流行り言葉とさえなったネオ・コン(ネオ・コンサバティズム)すなわち新保守主義(新自由主義)である。これは、直接的には福祉国家= 行政国家の肥大化・非効率化とそれらの結果としての財政赤字などの問題に対する打開策として打ち出され、一九八〇年代にドミナントとなったイデオロギーであるが、その背後には、市場の論理を世界規模で優位にさせるグローバライゼーションの進展がある。

 国民は国家によって保護される存在である前に、みずからの責任でみずからを守る存在であるべきだというのが新保守主義(新自由主義)の発想である。イラクで人質となった人々に対するいわゆる「自己責任論」にもとづくバッシングの背景にはこのイデオロギーがある。

 しかし、これでもまだ日本政府や世論による人質バッシングとパウエル発言とのギャップは埋められない。このギャップを埋めるのが、東西対立崩壊後の日本における国家のつまずきである。

 先に述べたように、戦後の日本は生産の論理を優先させることによって経済大国となることに成功した。東西対立下のアメリカの庇護(核の傘)の下、国際政治という市場の論理がドミナントな舞台から距離を取ることができ、生産の論理に専念することができたからである。

 しかし、グローバライゼーションの進展は、東西対立を崩壊(ソビエト連邦の崩壊)させ、日本をアメリカの庇護の下から放り出すことになった。すなわち、グローバライゼーションは、個人に対して自立を求めたのと同様に、日本に対して国家としての自立を求めたのである。それは、まず湾岸戦争における国際貢献として、またバブル経済崩壊後の内需拡大による景気回復への国際的圧力として現われた。日本はこれらの課題をクリアすることにものの見事に失敗する。そして、そのツケが今回の大義なきイラク・アメリカ戦争への世論の反対を押し切っての参戦であり、また一九九〇年代の闇雲な公共事業の拡大による現在の莫大な国家財政赤字の累積である。

 なぜ日本は失敗したのか。それは端的には市場の論理が優位する国際政治という舞台に不慣れであったからであるが、その背後には戦後に形成された国内の政治構造がある。本稿のこれまでの記述では、グローバライゼーションがあたかもこの十年、二十年の間に起こったかのように思われるかもしれないが、実はグローバライゼーションは戦後一貫して進展しており、この十年、二十年間で急加速化したにすぎない。戦後日本の国内政治の一つの特徴として挙げられるのが、「土地に縛られ自由な経済活動を世界を舞台に展開することができず、それゆえにグローバライゼーションの荒波に耐えることができない弱者」(地方の農林漁業、建設業、中小地場産業、小売業など)をいかに守るかということを課題としてきたことである。これらの弱者は周知のように政権与党・自民党の最大の集票基盤でもありつづけた。

 ところで、現在の日本にはこれらの「土地に縛られた弱者」として忘れてはならないもっと大きな存在がある。それは、意外にも地方自治体(地方政府)であり、さらに大規模のものとしての国家(中央政府)である。

 日本において近代国家が産声を上げたとき、その国家(中央政府) は、海外(国際社会)へのほとんど唯一の窓口であった。その後、日本は、殖産興業、富国強兵、追いつき追い越せと、その時々の目標は異なるにしろ国家主導の下で発展してきた。その結果、国民は、国家と社会とを区別すること、言い換えれば、国家を全体社会の特殊であるにしろ一構成員(団体)であるということを認識することが困難となってしまった。

 これは、地方自治体(地方政府)についても言える。戦前の自治体は、たとえば府県知事が国によって任命されるといったように、国家の出先機関として存在し、それが人々の間に「お上」意識を生み出し、その意識に今も人々は搦め捕られている。

 しかし、国家(中央政府)にしろ、地方自治体(地方政府)にしろ、それらは日本という社会全体の中のそれぞれ一団体なのである。そして、それらが今や土地に縛られた弱者となっているのである。

 戦後日本の国家は、敗戦によって軍事力をもって国際社会の市場の論理に対峠するのを止めざるを得なくなり、国内の生産セクター(製造業など)を行政指導などのさまざまな政策手段で誘導・支援し国際競争力を涵養するという形で間接的に国際的な市場の論理に対応し、みずからはむしろ国内の土地に縛られた弱者を支援することに力を注いできた。

 しかし、それは国家や地方自治体みずからが土地に縛られグローバライゼーションの荒波に対抗する力をもたない弱者となっていく長い道程でもあった。当初はグローバライゼーションに対応する政策としてなされたことが通常化・常態化することによって、国家や地方自治体は、土地に縛られた弱者を支持基盤とする中央・地方の政治家たちの当選や政権維持のための活動を恒常的に行うことに結果としてなってしまった。その結果、国家や地方自治体は、まさに土地に縛られた弱者の論理によって活動する存在となり、みずからも土地に縛られた弱者となってしまったのである。

 弱者に対する支援が中央官僚の机上の計画に基づいてただ補助金を配分するというやり方をもしも取らなかったとするならば、土地に縛られた弱者も現在のレベルまでには疲弊しなかったであろう。そして、国家や地方自治体も土地に縛られた弱者の仲間入りをすることもなかったかもしれない。しかし、現実はそうはならなかった。

 われわれこそ国家を主導する存在であると自負しかつては政治家を蔑視さえしていた中央官僚たちも、そして、地方自治体の官僚たちも、この土地に縛られた弱者のために出来上がった歪んだシステムの中で生きていくという選択を徐々にすることとなった。そして、今や国家や地方自治体はそれぞれに膨大な数の特殊法人などの関連団体・企業を無数に抱える巨大な利益集団(土地に縛られた弱者のための互助団体)となったのである。いわゆる天下りは、中央・地方官僚のこの互助団体内部での人事異動なのである。

 グローバライゼーションの下での市場の論理は、市場的自由を確保するために国家間の「制度の平準化」を促し(たとえば、W T O による関税率の取り決め)、新保守主義のイデオロギーと相まって「小さな政府」への流れを形作ってきた。しかし、日本の国家(政府)はこのような土地に縛られた弱者のための互助団体となるという形であまりにも肥大化し、また非効率化していた。

 グローバライゼーションの進展に伴って、ヒト、モノ、カネ、情報が世界中を縦横無尽に動き回り、いずれの国の国家であれ、国家は自国内と外国とのそれらの流れをコントロールするどころか、把握することすら困難となってきた。国家(政府)が海外(国際社会) へのほとんど唯一の窓口であった時代ははるか昔のこととなった。

 そんな時代に弱者の互助団体の一員となってしまった国家が国際社会のシビアな市場の論理に耐える力をもつことはできないし、国際社会全体の利益とも両立可能な形で日本の国益を構想することができないのもあまりにも当然である。それは、ただ政権維持と互助団体全体の自己保身だけを考える国家である。

 しかし、国家財政赤字は先進国の中で最悪の水準となり、切羽詰まった中央官僚は、形ばかりの中央省庁再編でみずからの改革は終わらせ、市町村レベルの地方自治体と土地に縛られた弱者の切り捨てという方策を打ち出してきた。弱者の互助団体内部のより弱い弱者を切り捨てみずからの生き残りを図ろうというわけである。現在アメとムチを駆使して強引におこなわれている平成の大合併は、地方自治体への交付金減額による国家財政負担の軽減を狙ったものであるが、これなどは地方切り捨ての一つの典型的政策である。「金の切れ目が縁の切れ目の地方分権」とでも表現すべき今回の合併劇に地方分権の理念はない。

 小泉首相はそうした中央官僚の思惑とマッチする志向性をもっていた。彼が自民党の抵抗勢力と呼んだのは、土地に縛られた弱者の互助団体の利害代表者たちであったからである。そして、土地に縛られた弱者を切り捨てようとする彼の政策は、都市部の人々に人気を博することになる。それは、土地に縛られた地方の弱者に対する保護と都市部の人々との利害は相反すると都市部の人々は感じていたからである。たとえば、米の輸入自由化をめぐる都市と農村の対立を想起していただきたい。また抵抗勢力呼ばわりされた自民党も小泉首相の人気に依存しなければ生き残れないまでに弱体化しており、政権与党に留まるための究極の選択としてみずからの存在を否定する小泉首相を担ぎ続けるという奇妙な構図ができあがり安定化してしまった。

 しかし、人口の大部分を抱える都市の人々の心をくすぐる小泉首相の方策は非常に危険なものである。彼と中央官僚が切り捨てようとしているのは土地に縛られた地方の弱者だけではなく、都市のあるいは農山村のといった区別を問わない社会的弱者一般であり、しかも彼等の方策は実質上そうした切り捨ての対象となる社会的弱者を拡大していくものとなっているからだ。

 たとえば、教育の切り捨てである。教育は、生産の論理が重視された戦後の時代には不十分であるとはいえ、それなりに重視されてきた。しかし、経済成長によって社会が豊かになるのと歩調を合わせる形で教育の充実が図られることはなかった。そして今や切り捨ての対象となった。生き残れる教育機関だけが生き残ればよいという政策である。しかし、この教育の切り捨てが社会的弱者の拡大再生産となることは明らかである。

 ところで、弱体化した国家は政権維持と自己保身のためにどのような手段をもっているのであろうか。かつての常とう手段は一か八かの戦争である。今回の多国籍軍への参加にみられるように近い将来はすでに分からなくなってしまったが、取り敢えず現在の日本がそこまで踏み込む可能性は小さいが、イラクの自衛隊に攻撃が加えられるのを内心待っている人もいないわけではなかろう。予算配分による利害関係者の操作・動員は、赤字財政ゆえにすでに選択肢から消え去ろうとしているし、速攻性にかける。残された手段は、政治的シンボルへの依存であり、またマスメディアを利用したドラマ仕立ての情報操作である。そして、いまだに国家が自由にできる暴力装置・諜報機関としての警察の利用もあろう。

 政治的シンボルへの依存としてたとえば現在挙げられるのは、日の丸や君が代の学校教育現場への強制であろう。しかし、その効果は学校教職員を統制するのに即時的効果をもつにしろ、そうした教育を受けた子供たちがもつ社会的な影響力は将来のものであり、また未知数である。残された即効性のある現実的手段は、マスメディアを利用したドラマ仕立ての情報操作ということになる。

 最近の事例を挙げるならば、年金未納問題をめぐる政治家の辞任劇が典型的なものとなろう。なぜ福田官房長官は辞任したのか。それは民主党の菅代表に辞任を迫るものであったであろう。その後、なぜ与党・公明党の神崎代表は居直ったのか。それは、居直りの社会的なインパクトを小さくし、小泉首相の居直りをお膳立てするためであったのであろう。ドラマのシナリオは苦しいものであるが、その短期的な効果は取り敢えず見事である。

 また、北朝鮮拉致被害者とその家族の問題もマスメディアを利用したドラマ仕立ての情報操作の典型的事例であると言えよう。彼らは戦後一貫して無視され続け、注目を集めたときには徹底して政治の道具、小泉首相の人気取りの道具とされる。そして、政府にクレームをつけるとバッシングを受ける。被害者の人権をここまで踏み躙ってよいわけがない。

 ここまで述べれば、イラクで人質となり死線をさまよう過酷な状況下に置かれた人々への情け容赦ないバッシングの理由はもはや明白であろう。彼らは、弱体化した国家が自己保身のためになりふり構わず仕掛けたドラマ仕立ての情報操作の犠牲者・弱者となったのである。国家はその国民の生命・財産を守らなければならないという大原則に背を向けてまで彼らを情報操作の餌食としバッシングした。それは、現在の国家の弱体化、国際政治への対応能力の欠如、弱者切り捨て政策の拡大等々の国家の現在の姿を象徴的・集約的に示した現象であったのだ。

 誤解のないように述べておくが、私は、「国家よ、強くなれ」と主張しているわけでは決してない。グローバライゼーションの進展、まさにワールド・ワイド・ウェッブ(W W W )なインターネットの普及、地球環境問題の深刻化などから容易に知れるように、今や地球はますます小さくなった。そんな時代に、国家がそのエゴにもとづいて行動する時代はとっくに終わっている。ブッシュ大統領の対イラク戦争の時代錯誤はまさにそこにある。

 これからの国家は小さなものでよい。しかし、それは、新保守主義のようにすべてを市場の論理に任せようというのではない。しばしば暴力的・略奪的でさえある市場の論理のグローバライゼーションによる拡大から国民を以下のような基準を充たしつつ保護すること、これが国家の新しい役割である。その基準の一つは、国民の間の公平性を担保することである。日本で戦後の国家が行ってきたような一部の弱者のみを対象とし他を排除するというやり方では、国家そのものが一部の弱者の代理人になってしまう。もう一つの基準は、その保護の仕方が環境破壊的でないことである。日本の従来のやり方は、環境破壊的でかつ不要な公共事業を地方の土地に縛られた弱者にばらまくというものであったが、そうしたやり方は地元の自治体に将来的には過大な財政負担を負わせ、その山河を魅力のないものにし、結局その疲弊を早めるだけである。ブッシュ大統領は石油消費の減少による国内経済への悪影響を考えて温暖化防止条約から離脱した。しかし、彼のこの選択がいかに時代錯誤的であるのかはこの基準から明らかであろう。

 ブッシュ大統領はあまりにも多くの過ちを犯した。今回の大義なき対イラク戦争の原因は9・ 11ニューヨーク・テロにあると多くの人が考えているが、実は9・11テロの原因はブッシュ大統領のイスラエルの横暴を許すパレスティナ政策にある。すべてはブッシュ大統領とその新保守主義者の側近たちのいわば自業自得あるいは自作自演のドラマなのである。後世の人々は、ブッシュ大統領をアメリカが東西対立崩壊によって唯一の超大国となって以降の大統領の中で最悪の大統領であると考えるであろう。そんなブッシュ大統領に付き従うことは、近視眼的に見れば日本の利益になることもあろうが、長期的に見れば日本にとってばかりではなく、世界にとってあまりにも危険なことなのである。