平和の構築「対話する意思と力」
平成17年(会報77-1)
北海道大学大学院 文学研究科 教授 櫻井 義秀
経済協力開発機構(O E C D) は一二月七日、加盟国(四一カ国・地域)における一五歳の生徒(日本では高一)の総合的学力を測る学習到達度調査(二〇〇三年実施)結果を発表した。初回の二〇〇〇年と比較すると、数学的応用力に一位から六位、文章やグラフの読解力は八位から一四位に下降し、科学的応用力は二位を維持、二〇〇三年度に新規に設けられた問題解決能力は四位であった。読解力の下げ幅は加盟国で最大であったという。
私は大学一年生を対象に、『世界の諸宗教Ⅰ ・Ⅱ』(ニニアン・スマート著、阿部美哉・石井研二訳、教文館)を半年かけて読破する一般教育演習を行っている。そこで、この記事を学生に示し、どんな理由が考えられるかと尋ねてみた。学習指導要領改訂による学習内容の三割削減、ゆとり教育、読書量の低下(識者も指摘)といった一般的な答えを予想していた。しかし、それより先に出てきたのが、「勉強しても将来暗いですから」という答えであった。もう少し聞いてみると、「大学出て就職してもリストラされるかもしれないし」「新聞、ニュースでも暗い話ばかり、これから世の中よくなると思えない」ということであった。無言だが同感といった十数名の学生の顔を見て、言葉に詰まった。
数万人とも数十万人とも言われる引きこもりの青年達、五五万人の仕事も学習もしない若者、二〇〇万人に及ぶフリーター(もちろん、統計の取り方で数値が変わる)と新聞が報じる社会現象は、学力低下の先にあるものを予兆する。若者が自分に自信を持てないこと、将来に希望を持っていないこと、人と交わるよりも自己の殻に閉じこもろうとすること、仕事で社会に貢献するという意欲を喪失していること。ちろろん、十年に及ぶ景気低迷に由来する(正社員としての)就職機会の減少、或いは、親が三〇過ぎた子供にも食べさせていける家族の豊かさといった社公的背景があって、はじめてこのような社会現象が生じることも事実である。これほど多くの若い人達が希望と意欲を失いかけている状況は、将来の日本に大きな陰をなげかけてくるだろう。
実のところ、編集者から「平和と戦争」という題で原稿依頼を受けていたが、子供や青年の話から始めたわけがある。平和を国家間の争いがない状態、と理解するのは誤りである。世界には、九〇余の国家と数千の民族、数え切れない宗教集団が存在する。政治的・経済的利害を異にした場合、一触即発の緊張状態にある社会関係は世界中に無数にある。これらの集団がお互いに最後通牒を突きつけあうことなく、時に牽制し、時に協力しながら関係を維持しているのは、ねばり強い交渉と対話による信頼の醸成があるからである。
対話する能力の構成要件とは何か。相手を理解する力、自己表現の力がまずあげられよう。読解力の低下は深刻である。相手や対象に即さず、自分勝手に考え、判断するからである。情勢や自分の力量を正しく認識できなければ、相手に伝わるような自己表現はおぼつかない。何よりも、相手との関係に飛び込んでいく勇気も必要であろう。蛮勇は意味がない。目的は関係の構築、改善にあるのだから、効果が見込めない勇ましい言動をしても意味がない。そして、このような仕事は面倒で心労が絶えないものである。これを忍耐強く、最後まで遂行する持続力が求められる。これらの諸点において、子供や青年の潜在的能力が十分磨かれているとは言えない現状がある。学力問題とは畢竟、何のために学力を身につけるのか、それでどうなるのかという問題である。頭の良し悪しの話ではない。
平和とは、その価値を認識されるだけでは不十分であり、自分で汗を流してそれを維持し、作り出そうとする人達の営みなしに実現され得ないものである。平和は状態ではない。実践の先にある価値である。歴史上、完全な平和はないし、今後もあり得ない。しかし、今よりよくなるという希望は持てる。平和を作り出そうという理念や実現への方策は様々に構想されている。日本社会の責務は、これらの活動を先頭に立って行う人物をどれだけ輩出できるか、そして、後衛でこうした人々を支える資金的・人的資源をどれだけ厚くできるかであると思う。第一線で働く人々は少なくない。しかし、後衛の裾野の部分で、人的資源の劣化が起きているのではないかと思わせる事件が相次いでいる。
自分の生命に価価を認める。人との関係を大事にする。自己の成長を喜びとする。社会という関係の網の目において、自己実現を考える。このような価値観を誰がどこで教育するのであろうか。文部行政や学校教育だけに責任を押しつけてはいけない。今日の教育の困難は、子供を大人にする社会化の機能不全、とりわけ価値観の形成を軽視した結果である。君が代、日の丸といったナショナリズムで子供が育ち、青年が鼓舞される時代ではない。今の現実を見すえて、何ができるのか、人間のあり方を問い、広い意味で人の成長に関わってきた宗教界から積極的な発言と実践的提案が出てくることが望まれる。